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高校時代4そして・・・

その年の夜中 伊勢湾台風が襲った。
私は先生の家に向かった。私は先生の家に向かった。風速40メートル立つ事も難しい風の中・・・先生の家は無事だったが・・・あちらこちらに家が飛ばされむき出しに中に人が座っていた。
その後瀬尾俊平の家に向かった。
女子生徒たちがみんなで握飯を作ってた。
南の海岸通りには五千人以上が死んだそうだ。
南岸にはそうした死体が材木の下に眠っている。
男たちはその死体をトラックに積み「カコウ山」の火葬場まで運んだ。

私の成績は決して良くはない。
だが寛さんの(物理)授業はいつも及第点だった。
そして俊平の点数も又良かった。体育の先生だけは「体育祭だけ元気がいいのは駄目」と叱られた。三年の時には大口先生から油絵を習った。
その年の夏 私は空手初段を取った。
そして卒業式前日に校長に呼ばれた。「俺はお国の為に三人の子供を亡くした」「お前みたいな不良を卒業させる訳にはいかん」校長は私に卒業させないと宣言した。

だが私は大学に入った。
当時の大学は60年安保でもめていた。
私も安保闘争に加わった。
社会党の浅沼稲次郎が暗殺された。
そして6月のある日、全学連は国会議事堂に雪崩れ込んだ。
府中になって機動隊の車をひっくり返し火を付けた。
東大生、樺美智子さんが機動隊のこん棒で殺された。
私たちは逮捕されて拷問に似た取り調べを受けた。
そして解放された時待っていたのは大学からの自主退学の手段だった。
その後私は美大に進んだ・・・



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