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ツイてない男 1

2016年03月11日
今日も駄目だったか・・・
安いアパートの天井を見つめる。
節穴から埃が降ってくる。
{あーア」「やってられないなー」俺はいつでも夢をみてる。
今日も馬券が外れた。
ここ一週間は何をやっても上手くゆかない。
気を取り直してコンビニで弁当を買いにゆく。隣の親父は何をやってるのか?
何か気になるのだ。俺の愛猫のレオが大きなあくびをした。
まるで俺を馬鹿にしてるかのように・・・
しかし最初からこんなではなかった。
若い頃、それほど持てる方ではなかったが、持てないと思った事はなかった。
会社ではさして優秀でもなかったがかと言って特別問題になる事もなかった。
アパレル関係の会社で女性社員も多かった。
マア・・・適当にやってればそれなりの報酬もある。
時々気休めで宝くじを買ったがそれも外ればかり。
妻も私を馬鹿にしてる。
「このゴクツ潰し」「ごろごろしてるな」私は権威も何もない!
子供達にも馬鹿にされる。
女子社員にも画家にされる。

だが・・・突然大当たりした。
買ったロトシックスが爆発した。
それも一等賞だ!!
その日を境に又馬券も当たる。競馬・競輪皆当たる。
会社でその話をしたら・・・突然女子社員が寄って来る。
ヒーローだ!
そして黄金の腕、金のタマゴとおだてられある日を境にバタッと止まった。
そうしたらバタッと女も去る・・・その日を境にツキにも見放される。
適当に女遊びもしたがそれが祟り女房も逃げ出した。

あれ程大当たりしてた馬券・競艇にも外ればかり。
一気に大外れ・・・
馴染みにしてたホステスにも振られた。
ホステスの部屋に行く。
何処にも行く所がない。
だがそこにも危ないお兄さんが待ってる。

ホステスの部屋の周りに安いアパートを借りて暮らす。
今節穴を数えながら考える。
どこで間違ったのか??
今 土手の草むらに寝転んで考える。


「もう駄目だ、法王にお願いしよう」
彼は教会の力に縋ろうとしたのだった。
彼は「この決闘は私にとって理不尽この上ない(汝右の頬を打たれば左の頬を差し向けよ、汝殺すなかれ)と教えているではないか」「人殺しは大きな罪である」と・・・・
しかし教会もこの問題は苦慮していた。
この街に腐ったリンゴを入れた為に腐敗と堕落が蔓延したのは紛れも無い事実である。
その男は協会側のお抱え画家である。
王侯貴族と事を荒立てたくはない。
侃々諤々の議論がなされた が結論が出るはずもなかった。
協会側はこの問題を静観して時の過ぎるのを待つ事にしたのであった。
事実上ドメニコスを見捨てたのである。

その日大群衆が広場に集まった。
今や遅しと二人が出て来るのを待ったのである。
ドメニコスはまだ覚悟を決めかねていた。
何か何処かに逃げる道はないか と・・・
時間は刻々と迫ってくる。
そして一団の兵士達が迎えに来た。
引きずり出される様に広場に向かった。
伯爵は剣を一振りして中央に立っている。
「もはやこれまで」ドメニコスは闘牛の様に我武者羅に突っ込んで行ったのであった。
伯爵は身のこなしも鮮やかに彼の剣を交わし刺繍も鮮やかな彼の衣服を切り裂いていった。
そして突然彼の顔に斜め十字の切り傷を入れたのである。
その後も腕、肩背中と切り裂いて行った。
太股に剣が突き立てられた時ドメニコスは剣を投げ捨てた。
そして血みどろの顔で伯爵に「もう気が済んだでしょう、私を殺しても何の得がありますか?」「慈悲深い伯爵様、もうお許しください、命だけはお助けください」と 地面を這いつくばってにじり寄り懇願したのであった。
大群衆は「殺せ 殺せ!」の合唱が起こった、その声は天にも届けとばかりに・・・
伯爵の袖にすがったその時ドメニコスは思い掛けない行動に出たのである。
隠し持った短剣で伯爵に襲い掛かったのだ。


伯爵はそれも読んでるが如くヒラリと体をかわし彼の首に一刺ししたのであった。
彼はもがき苦しみ のた打ち回った。
去来するものは過去何十人となく彼の身体の上を通り過ぎて行った女達、そして最後に出会った伯爵の妻、アフロディテの姿だった。
最も【クレタの種馬】の息子にふさわしい無様な死に方だったのであろう。
喧騒も収まった頃から大勢の人々が彼の描いた作品を死体の前で焼き始めたのである。
二十七年間住み続けたこの街で彼の本名『テオトコブーロス、ドメニコス』の名を呼ぶ者は一人も居なかった。
彼はギリシャ人(エルグレコ)と呼ばれ続けた。
スペイン語では通称ギリシャ人と云う意味である。
享年63歳 1614年の事であった。

それから三百年後 人々の記憶からも作品の行方も忘れ去られてしまった。

そして又五十年近く経った時 一人の画家がトレド大聖堂の壁画を観て驚嘆したのである。
その画家の名は『パブロ、ピカソ』
伸びやかな縦長の構図、色彩の豊かさ、どれを取っても素晴しい出来栄えである。
早速政府にエルグレコの作品を紹介し残存する作品の収集を進言したのであった。
調査団が結成され各方面から集められたがどれも痛みが酷く修復を余儀なくされたのである。
研究者の間でも現存する作品の少なさ(約十五~六点)と修復の難しさ(彼は特殊な絵の具を使っていた)に戸惑ったのだった。
ピカソの作品の中にはその影響を受けたと思われるものが多い。
今 世界中でエルグレコを知らぬ人は居ないだろう。
だがその人間像を語る事の出来る者も又居ないのである。

      ー完ー

教会側にはドメニコスの私生活が噂となってきた。
だが あれだけの絵を描く男だ よもやそんな事もあるまい・・・
と噂を否定したのである。
しかし彼の女癖は留まるところは無かった。
事もあろうに修道尼に手を付けてしまったのである。
最初のうちは判らなかったが二人の尼僧のお腹が大きくなってゆく。
そして遂に妊娠が発覚してしまったのだ。
問い詰められた尼僧は相手の名を白状したのであった。
結果、尼僧二人と共にドメニコスはマドリッドを追放されたのである。

それでもドメニコスの癖は直らなかった。
行く先々でトラブルを巻き起こす。
そして待っているものは追放であった。
彼はグラナダの街に現れた。
そして又ジプシーの女と同棲 と云うよりヒモになっていたのだった。
ある日、街角で「ドメニコス ドメニコスじゃないか?」と、声を掛けられたのである。
聞き覚えのあるその声に振り向くと顔中潰瘍が出来た男がやっと杖を突いて立っているではないか。
父親クリフの姿である。
性病に侵され見るも哀れな姿であった。
彼はその姿を見るなり急いで逃げ出したのである。
声をかける事も無く 兎に角その場から離れたかったのだ。
それから暫くは女性を見ても身震いする程であった。
彼は哀れな父親を見捨てたのである。
逃げる様にグラナダを後にしたドメニコスは又安住の地を求めてさまよい歩いた。
夢にまで父親のただれた顔が出てきて魘され続けたのであった。
生きる為についには泥棒までして旅を続けた。
そしてトレドに辿り着いた時、彼は三十六歳になっていた。
長い旅の疲れはドメニコスの心の痛みも取り去った。

又々彼の病気が始まったのである。
しかし彼は大きな学習をしたのだった。
父親の姿は未来の自分の姿 絶対に素性の判らぬ女性には手を出してはならない事。
身分の有る貴族の女なら病気の心配も無かろう。
身持ちの堅い女を狙え、と・・・
そして仕事はきちっとする事等々・・・そこで教会の門を叩いた。
教会壁画の注文を得る為に 今まで自分から頭を下げた事は無かったが今度はそうは行かない。
何とかして生活を自分の力で切り開いてゆこう と・・・
女癖は相変わらずだが次第に信用も付いてきた。
ついに大聖堂の壁画を任されるに至ったのである。
すると貴婦人たちも自然に彼の周りに集まる様になったのだ。
しかし彼は慎重であった。
父親の轍を踏まない様に考えていたのだった。
男を知らない清純な生娘がいい、高貴な貴族のご婦人方なら大丈夫だろう、と・・・
仕事は真面目にやった。
しかし貴族たちの評判は良くない。
彼の流れる様な線、面長に描かれた肖像画は当時の貴族社会では不評を買ったのである。
次第に彼の仕事は教会関係のみになっていった。
しかし大画面に描かれた作品は目を見張るものがあった。
彼の作品は大作においてのみ余計に魅力が引き出されたのである。
そうして十年、又十年と過ぎていった。
彼の周りから女の姿が消えて行ったのである。
孤独感を噛み締めながら「神様なんて何処にも居なかった」とつぶやく日々が続いた。
しかし彼は街角で若い女性に声を掛け、まれに付いて来る女性を描いたのであった。
もう股の中に顔を入れる元気も失せていたのである。
だが心だけは女性への興味を失っていなかった。
それから暫くの後 見目麗しい一人の女性と出会ったのである。
礼拝堂で静かに祈りを捧げている姿は神々しく彼の心を魅了した。
「これこそ俺の神様だ」そう思った彼は大聖堂の壁画を指差し「これは私の描いた作品だ」「今度あなたを描きたい」と言ったのである。
「ある色事師の生涯 8」  天才画家の伝説

女性は瞳を輝かせ頬を赤らめながら「ぜひ素晴しい作品をお願いします」と・・・
彼の心は躍った。
「絶対に良い作品を仕上げてみせる」と・・・
彼は思った。
「これがラストチャンスかもしれないな」神様はこの俺にアフロディテを与えてくださったんだ、と・・・
純粋に彼女を描きたい、と思う衝動に駆られたのだった。
一心不乱にコンテでスケッチをする。
そしてフキサチーフをかけタブローに取り掛かった。
描いては消し描いては消す作業は数ヶ月にも及んだ。
そして作品は出来上がったのであるが彼はもう一点自分の為に描きたいと思ったのである。
その作品を渡せば神様はもう二度と彼の許には戻って来ないと・・・
「奥様 後一点描かせてくださいませんか、貴女の様な方を失うことは私には耐えられません、運命は私たちを引き合わせてくれたのです」と・・・
彼女は快く引き受けてくれた。
又一生懸命描き始めたのであった。
若いその女性はさる貴族のご婦人であったのだが世の汚れを知らないかの様な無垢な美しさを湛えていた。
又々彼の病気が始まったのである。
制作の最中はおろか休憩のお茶、食事の時も甘い言葉でささやく・・・
そして完成のサインを入れる頃には彼女は恋の虜になってしまっていたのであった。
それから後は彼のアトリエに足繁く通うようになっていった。
たちまちその噂は街中に広まった。
若い彼女の夫の伯爵は激怒した。
彼女は自分の部屋から出るのを禁止され、伯爵はドメニコスに決闘を申し込んだ。

日頃彼は「俺は法王の親衛隊だった」「剣の腕前はナイトの中でも一番強かった」等とホラを吹きまくっていたのである。
平民であれば追放処分で済んだものを・・・
彼の見得が思わぬ方向に行ってしまったのだ。
伯爵は貴族としてのしきたりに従って決闘の道を選んだのである。
又 怒りも手伝って彼の所業を許せなかったのだ。

ドメニコスは困った。
日頃の大言壮語がこう云う結果になろうとは・・・
「何とか逃げ出さなければ」
トレドと云う街は天然の要塞の様な街である。
小高い丘の上に外部からの攻撃を防ぐ為に城壁をめぐらせ、深く青い河が蛇行して流れている。
一種の堀の様な役目を果たしているのだ。
この街に入るには大聖堂に続く道をまっすぐ(と云ってもくねくねと曲がってはいるが)反対方向に行けば大きな橋がひとつ有るだけである。
そこには何時も兵士が見張っている。
夜陰にまぎれてこっそり逃げ出そうとしたが失敗した。
昼間 馬で一気に突破しようと試みたがこれも阻止された。

街では大聖堂の前の広場で一ヵ月後伯爵が不埒な男と決闘する と云う話で持ちきりだった。
どちらが勝つか賭けまで行われていたのである。
近隣の村からその決闘を見ようと人々が集まりまるでお祭り気分であった。
ドメニコスは悩みきっていた。
決闘はおろか剣を抜いた事さえ無かったからだ。
100パーセント勝つ見込みは無い。
相手の伯爵は名うての剣の達人である。
頭を下げ許しを請うか・・・だが決して許してくれないだろう。
城壁の警戒も厳重になってきた。
そこで彼は見物人の多く行き交う人込みに紛れて橋を渡ろうとしたのである。
一番賑わう午後の三時頃 隙を伺っていた。
農民の姿に変えて・・・
だがそれもすぐに見破られてしまった。
顔、手にススを塗っても彼の華奢な体系は農家の人間には見えない。
それに立派な髭 自慢の髭を剃ることが出来なかったのであった。
兵士の間で嘲笑の声があがった。
「あの腰抜けが、怖くなって逃げ出そうとしてる」と・・・
事実彼は恐ろしくて堪らなかったのだ。
それは日を追って激しく彼の心を襲った。

テッツィアーノはドメニコスのデッサンを見て、癖の強いところが気になった。
が タブローの色彩に驚いたのである。
「自分の持っていない才能がある、特に青の見事さには斬新な響きを感じる」と・・・
当時テッツィアーノはその時代でも代表的な画家であった。
そこで彼は弟子として採用されたのである。
デッサンの癖も徹底的に直された。
何とか採用された事により食べる事には心配は無くなったが遊び回る程の収入ではない。
そこで又女性の肖像を描く事にしたのだが相変わらずヴェネチア時代と同様に詐欺師まがいの生活から抜け出そうと云う考えには至らなかったのである。
元々才能はあった。
しかし女性を口説く才能の方が勝っていたのである。
テッツィアーノはそんな彼の行動を苦々しく思っていたが特別注意する事もなかった。
彼の才能を惜しむと同時に女性も口説けない男はイタリーでは変人扱いされたのである。
こうしてドメニコスはテッツィアーノの片腕としての技術を身に付けてゆくのであるが彼のデッサンの悪い癖はなかなか直らなかった。
その訳は彼の心の中の美意識がローマ人のそれと全く違っていたからである。
縦に流れる線は あくまで伸びやかに顔の輪郭はギリシャ人の顔が最高に美しいと信じていたからに他ならない。
しかし師匠に認めて貰うにはローマ独特の美意識を持ち制作しなければならない。
そこで自分が独立するまでは、と彼の『美に対する考え』を封印したのである。
独立すれば王侯貴族からの注文も沢山来る、贅沢な暮らしも出来る。
そうしたスポンサーが付けばもうこっちの物だ。
彼の頭の中ではもう師匠の技術を追い越した と思っていたのである。
テッツィアーノの様に多くの女性に囲まれて暮らすのも夢ではない。
そうしてドメニコスは独立した。
だが彼の周りにはあまりお金持ちのスポンサーとなりそうな人物は現れなかった。
その訳は相変わらずのずぼらな性格が知れ渡っていたからである。
注文してもなかなか描かない。
金の要求ばかりする。
腕は認めても人間としての信頼性に欠けていたからに他ならない。
相変わらず街の女に声を掛ける生活を送っていた。
テッツィアーノはそんな弟子を哀れに思い貴族達にドメニコスを紹介したのである。
師匠の紹介となれば真面目に描かねばならない。
彼は懸命に描いた。
評判は上々、彼の名は徐々に知られていった。
そして貴族社会への進出も果たしたのであった。
と 同時に貴族の侍女からも「自分を描いて欲しい」との注文も来る様になったのである。
ベッドの上で自分は師匠より巧い等と とうとうと言ってのける始末。
あきれた男であった。
何度か貴族たちの注文を受けるうちにドメニコスの我侭が眼を覚ました。
自分の考えているフォルムで作品を仕上げたのである。
事もあろうに肖像画をギリシャ人独特の面長の顔、手足を必要以上に長く描いたのだ。
これは注文主を怒らせた。
そうだろう、肖像画はその人に似せて描くのが普通である。
それが評判になり次第に注文は無くなっていった。
だがドメニコスは譲らなかった「これが貴方の本当の顔だ、真の姿なんだ」と・・・
仕事の途絶えた彼は焦った。
そして又街角で女を物色するのであった。
が しかし一度貴族社会の仕事をし贅沢な暮らしを知った今、街の女たちを描いても生活は良くはならない。
事もあろうにある貴族の奥さんを篭絡したのである。
その貴族はテッツィアーノに「奴を殺す」と宣言したのだった。
もう庇い切れなくなったテッツィアーノは彼を破門してローマから追放したのであった。
行き場を失った彼はスペインを目指したのである。
「ここなら俺を知る者はいないだろう」彼は自分のイメージを一新してマドリッドに乗り込んだ。
ローマの貴族である画家として・・・
腰には剣を携え派手なマント、羽飾りの付いた帽子をかぶり立ち居振る舞いも高貴なしぐさをして街を闊歩したのであった。

元々美形である。
その姿は人々の目を引いた。
たちまち女達を虜にしたのであるが この国ではローマの様にはなかなか行かない。
一声掛ければすぐ付いて来る様な女はなかなか居ない。
一応のプロセスを踏んで口説かなければならなかったのである。
しかしそこはマメな男だ。
そして小道具のナイトのいでたちも物を云った。
だが女性をその気にさせ最後まで持って行くのが大変である。
簡単に付いて来るのはジプシーの女達くらいであった。
彼はフラメンコダンサーに眼をつけた。
そして そのヒモになり好きな絵を描いたのだった。
そのうちある貴族から声が掛かったのである。
だが結果は無残なものであったのだ。
しかしある教会の司教の目の留まったのである。
「面白い絵を描く、一度壁画を描かせてみよう」運命とは解らぬものである。
スペインは偉大な芸術家の多いところである。
画料の安さも手伝って教会のお抱え画家の道が開けたのであった。
次第に司教の肖像、大聖堂の壁画まで依頼されるまでになったのである。
スペインはマリア信仰の強い国である。
彼は顔の表情を使い分けて描く事が苦手であった。
そこで 事の終わった後の満ち足りた顔、鞭で叩いて泣き叫ぶ顔、時には手足を縛り苦しむ顔など懸命にスケッチしたのであった。
その後は優しく愛撫して女を満足させるのである。
教会側ではそうした行為をしている事など知る由もなかったが【真に迫った表情】は人々の話題を呼んだ。
颯爽と歩く姿も魅力的である。
「さぞ剣の腕も見事だろう」
噂は噂を呼びマドリッドの名物男になってしまった。
すると又女たちが寄ってくる。
ドメニコスは有頂天であった。
「もう俺には怖い物は何もない」あきれた大馬鹿者である。

1541年 ヴェネチア共和国領クレタ島の果樹園農家テオトコブーロス家に一人の男の赤ん坊が生まれた。
その事自体は何の変哲もない事であるが、その父親たるや大の女好きときている。
あだ名を『クレタの種馬』誰彼なしに口説いて廻る どうしようもない男であった。
威風堂々 体格もよく又震い付きたい程のいい男だったのだ。
クレタの住民は「それっテオがやって来る 女房を隠せ」と言ったものだった。
幼少の頃 テオの息子ドメニコスは「父ちゃん何故女の人の股の下に顔を突っ込むの?」と聞いた。
「うん 神様を探してるんだ、女のあそこには神様が住んでいるんでな、だがまだ出会ってはいないが・・・なかなか出会えないものだ」と、解ったような解らないような事を言った。
父親テオは非常に手先の器用な男だった。よく木のかけらで珍しい彫刻をしてブローチ、首飾り等を作って女達にプレゼントをしていた。
妻のアンナもテオに負けず劣らず男を引っ掛けて遊んでいたのである。
そうした環境の中で育ったドメニコスはもう5~6歳の頃から年頃の女性を追い掛け回す様になった。
「こらっこのガキが!」と追い掛け回されてもケロリとして物陰に隠れ又同じ事を繰り返す。
まあイタリーと云う国は元々性に関しては寛大な国でもあったのであるが・・・
この親子は桁外れの家族であったのだ。
ドメニコスには紙さえあれば女の肖像画を描いてプレゼントしていた。
父親譲りの器用さが幸いしたのだ。
父親は「こいつは絵の才能があるんじゃないか?」と思った。
そしてイコン(絵画技法のひとつ)を習わせる事にしたのだった。
だがドメニコスはそこに習いに来る女達の方に興味を持ち相変わらず口説いてばかり、ろくに勉強する事もなかったのである。
しかし描くものは結構巧く描く・・・
師匠は「本気で勉強すればいい絵描きになれるのに」と、才能を惜しんだ。
家では父親と「今日は何処の女を口説いた? 俺は何処そこの女をものにしたぞ」と他愛も無い話で明け暮れていた。
師匠は「環境が良くないな、父親と切り離さなければドメニコスの才能は花開かぬ」とヴェネチア行きを勧めたのである。
こうしてドメニコスはヴェネチアに渡った訳だが・・・

そこにはクレタの女達とは違って美しく着飾った華奢な女が多かった。
どちらを見てもよだれの出そうな女ばかりである。
下宿探しもそこそこに早速街に繰り出したのである。
それもそうだろう、クレタの女達はほとんど農家の娘達だ。
この街では農家の娘など居ない。
しかしドメニコスも又田舎者。
まず洗練された立ち居振る舞いから覚える必要があった。
彼は言葉使いから勉強する事にした。
一生懸命なまりを消しテーブルマナーを身につけた。
もう絵の勉強などそっちのけであった。
そして古くからある文学を読み漁ったのである。
女を口説くには気の利いた台詞のひとつも言えなくてはいけない、一生懸命であった。
しかしドメニコスにとってこれは楽しい勉強だったのである。
ヴェネチアの女達を抱く為の下心を隠し【洗練された男】になる為に真面目に学んだのだった。

その頃クレタ島はヴェネチア領からギリシャ領に代わった。
元々ギリシャ人の多く住む島である。
ヴェネチア共和国では統治の難しい所であったのだ。
テオの一家も代々ギリシャ人であったので非常に喜んだ。
さて そのテオは・・・
元来怠け者、女を追いかけるのが仕事の様な男である。
大きな果樹園、ブドウ畑を持ちながら畑は荒れ放題、果樹園の収穫時期にも力を入れない。
次第に切り売りして小さくなって行くばかりであった。
ついに妻アンナにも愛想を突かれ他の男の許に走ってしまったのだった。
そして無一文になったテオもいつの間にか姿を消したのである。

仕送りの途絶えたドメニコスはたちまち生活に困窮した。
それからの彼はもっぱらご婦人方の肖像画の注文を取ろうと考えたのである。
だが地理不案内の地、知人も居ない。
「これは女性に近ずく方法を考えなくては」それにはナンパしか無い。
「美人でなくても良い、金を持っていそうな女性であれば 歳も関係ない」
幸いな事に彼は類稀な美貌を誇っていた。
しかし父親の様な頑健な体躯では無い。
華奢で繊細な身体つきで 所謂母性本能をくすぐる軟弱者だったのだ。
彼は自分のセックスアピール度をよく心得ていた。
「君の瞳はエメラルドの輝き、エーゲ海の深い青・・・唇はバラの芳しさ」
キザ!! 私などはとても言えない台詞である。
兎に角、口説き上手であった。

ドメニコスは片っ端から女性に声を掛けたのだ。
女達は夢中になった。
そして前金を受け取り「君をもっと知りたい、良い作品は全てを知る事によって生まれるものなんだよ」と・・・デートを重ねたのである。
しかしデッサンは取ってもなかなか制作に入らない。
「それ絵の具が足りない、いい筆を買いたい」何だかんだと言って金をねだるのである。
そして酒場で飲み明かす。
終いには女性の方が根を上げる。
実にだらしの無い男であったが不思議と憎まれない、得な性格だったのだ。
十数人に声を掛けて描いたのは一人か二人・・・
只 身体の関係を持てばほとんどの女性は彼の虜になってしまったのである。
だが何時までもそんな生活が続く訳がない。
金銭トラブルが付いて回る。
ついにヴェネチアには居られなくなってしまったのである。
彼はローマを目指した。
「もっと大都会に行けば大きなスポンサーも着くだろう」「何かチャンスも生まれるかもしれない」
「そこで勉強すれば本物の絵描きにもなれるかも」・・・
彼は画家への夢も捨ててはいなかったのである。
「有名な画家になれば経済的に豊かになれる、そうすれば女も選り取り見取りだ」
さすがテオの息子である、発想が不純である。
その街のある酒場で大勢の取り巻きに囲まれ呑んでる男がいた。
店の者に聞いたところ「あの方が有名なティツィアーノ様だ」と・・・
周りにいる女達も美人ぞろいである。
彼は恐る恐る声を掛けた「弟子にしてください」と・・・
丁度 もう少し助手が欲しいと思ってたテッツィアーノは「デッサンを持って私のアトリエに来なさい」と言ったのである。
協会の壁画を手掛けていたテッツィアーノは優秀な助手を探していたのであった。

裏町挽歌  2-a

2016年03月10日
中国から浅田を通じて井出の所に手紙が届いた。
井出、宇佐美そして馬賊達ににとって忘れる事の出来ない相手の所在を知らせる手紙である。
誠司が呼び付けられた。
「長い旅になるが心の重荷を取って来い」 井出は彼にそう言ったのであった。
「忘れ物が見付かった、取りに行って来るぞ」誠司は亜起子に言った、亜起子はそれが何を意味するものかすぐに解った。
「気を付けてね、絶対生きて帰って来てね」 本当は行って欲しく無かったのだ。

涙を堪えて送り出したのだった。
彼が出て行った後、亜起子は声を挙げて泣いた。
泣いて泣いて、泣き疲れた後、西の空に向って手を合わせたのである。

昭和30年代半ば・・・
段取りは全て浅田がやってくれた。
同道するのは宇佐美、彼も又 この日を待ち望んで居たのだった。
佐世保相浦から船に乗り九十九島のひとつの港に着いた。
小船ではあるがエンジンも最新型、操縦する漁師も腕利き、夜更けの波の荒い時を狙って出港するのだ。
ハングル文字と中国名との板の看板が甲板に並べられているのが眼に留まった。
巡視艇を避け領海内を出なければならない。
そして途中でハングル文字の船名に換え、又中国船籍に姿を変える、まさに命懸けの作業である。
誠司は出港して暫く、荒波の中でゲロを吐いた、それは半日続いたのだった。
只でさえ玄界灘は荒い。
それも嵐の中の出港だ。
まさに命懸けの船旅である、小船は波を切り裂き右に左に揺れながら進む。
帆柱が軋む、上下にと船首部分が揺れる。

そして船名を換える作業では大時化の中・・・作業は難航した。
しかし凪の時であればが韓国の巡視艇と遭遇する危険性は高い。
何とか上海港に辿り着いた。
夜を待って海に飛び込む。
港には、懐かしい周が迎えに来てくれていた、14年振りの再会だ。
その夜は、泥の様にぐっすり眠った、昨日の荒れた天気が嘘の様に星が瞬いていた。
宇佐美は、周と暫く酒を酌み交わし馬賊時代を懐かしみ、又 今後のルートの確認し合ってた。
翌日、早朝から馬に乗り換えて敦煌近く、柴達木の盆地 小さな村に向ったのである。
人目を避けての旅だ、街や村を迂回して進む。
田園地帯から荒涼たる大地を駆ける。

誠司こと譲治は、たちまちのうちに股擦れを起こし馬から振り落とされたのであった。
幼い日、裸馬を器用に乗り回してはいたが鞍を着けた馬に乗るのは初めての経験である。
「情け無い奴だなー」「まだこれからが本当にキツいんだぞ」 宇佐美が笑う、周が真っ黒な軟膏を塗ってくれた。
「これで銃の方は大丈夫か?」 「試してみるか」 眼にも留まらぬ早業で空中に投げた水筒を撃ち落したのである。
「流石、頭の仕込みは凄い」 皆が誉める。
「早く目的地に行きたい」 気ばかり焦る、「大陸では焦っては駄目だ、のんびり行く事が賢明だ」 周がそう言った。
見渡す限りの大草原、そして山々を越え尚も駒を進めた。
昼間の気温から夜はぐっと冷え込む。
陳がやって来た、ロバを二頭引き連れて・・・
背中にはパオが積んであった。
これも懐かしい顔だった、井出の配下の中国の友が次々と集結する、皆心強い味方なのだ。
温かいパオの中で暖を取り星空を見上げながらゆったりと大陸の空気を吸った。

その頃、刑事安藤は漠然とではあるが井出の写真が何処かに無いか・・・と考えていた。
井出と伊庭、接点が必ずある筈だ。そして、川島誠司・・・岬譲治・・・何か臭う・・・
大阪湾に沈んだシャブ中の女・・・彼女は叡子では無いのか?
彼は、元関東軍の生き残りの将校達を訪ね歩いていた。
が、しかし失望の連続だった、何処にも写真はおろか井出の手掛かりとなるものは出て来なかったのである。
唯ひとつ、満蒙開拓団なら何か分かるかも・・・誰かがそう言った。
膨大な資料の中から全国に散った開拓団員を捜すのは容易な事では無い。
年月の壁が大きく立ち塞がったのだ。
九州から北海道まで、何の確証も無いまま全国行脚が始まった。
瀬尾は、定年を迎え精力的に各地を巡り歩いた。

関西の雄、田沼一家が全国制覇の狼煙を上げた。
九州の雄、柳瀬一家と熾烈な争いを演じている、喰うか喰われるか、まさに血で血を洗う抗争である。
田沼一家は主力を九州に取られ、中部、関東の各組は未だ態度を決め兼ねていた。
恭順の意を唱える者、決然と主戦論を主張する者、立場は違っても田沼の影に怯えてた。

遠くバヤンカラ山脈の頂を望む・・・
チーリェン山脈山裾にパオを張る。
譲治達は一ヵ月半にも及ぶ長旅の末、柴達木の盆地に辿り着いた。
目的地は、もう目と鼻の先である。
馬を休ませパオを張る。
一晩の休息の後、彼等は目的の村に入った。
老人が煙管でタバコを吸いながら日向ぼっこをしてる。
戦火を免れた柳の大木が緑の風を運んで来る、柔らかな光が小さな村を包み込む。
井出の配下の斥候だった隗が指を指す、老人が静かに立ち上がる。
譲治が一発の銃弾を空に向って放った。
タァーン、木霊が鳴り響く・・・・
驚いた老人が此方を振り向いた。
「間違い無い、奴だ」 宇佐美がそう呟いた。

譲治が近付いて行く。
徐に又、老人は腰を下ろした。
左手には杖、右手に煙管を持ち・・・傍らには拳銃が無造作に置いてある。
未だ老人は気付いていない様子である。
譲治が老人の前に立つ。
「戴・・・福金、覚えているか?地獄の底からお前を迎えに来たぞ」 「俺は地獄には用が無い、極楽が待っているからな」「お前余程悪い事した様だな」 嘯いている。 
「15年前お前は何をした、北の大地の出来事を覚えているだろう」 譲治はいきり立つ心を抑え言った。

「うーん、いろいろ有ったからなー、もう全て忘れたさ」 「水曲柳に行った事があるだろう、その時何をした?」 「何・・・水曲柳?」 「俺の両親を殺し姉を連れ去った事を忘れたとは言わせないぞ」 彼は努めて冷静になろうと心掛け、話を進めたのである。
 
暫くの沈黙の後、「うん、あの頃は俺も若かった、水曲柳には結構いい思いさせて貰ったよ、若い女がたくさん居てな、お宝もたくさん有った」「その生き残りが居たとは驚きだ」「皆殺しにした筈だったんだが・・・」ニヤリと笑ってそう言ったのである。

「お前の命運も尽きたと知れ、其処の銃を取れっ!丸腰じゃ撃てん」 譲治は銃を一旦ホルスターに収めた。
「お前に俺を撃てるか?この戴の怖さを知らんな・・・」 うそぶいて煙管を吹かし銃をまさぐった。
途端に銃声が木霊した、煙管の吸い口が吹っ飛んだ。
「た 助けてくれ、この哀れな老人を殺そうと言うのか・・・」 眼が泳いでる。
誰かを呼ぼうとしている、が 生憎出払っていて誰も来る気配は無い。
唇がわなわな震えている。

その時、譲治はハッと気が付いた。
「この男・・・盲目じゃないか?」 涙が後から後から湧いて来た。
銃口が彼の頭に向けられている。
「助けてくれ、金なら全部やる、命だけは・・・命だけは・・頼む」 
引き金が引かれた。


銃口は空に向っていて放たれたのだった。
憎んでも余りある仇だ、が譲治には撃てなかった。
盲目の、それも老人を撃つ事は出来なかったのである。
周が譲治に言った、「あれで良かったんだ、頭ならきっと同じ事をなさってるだろう」「あれで良かったんだ」と・・・
譲治に憐憫の情が生まれた、「盲目の老人がこの先どうやって生きて行くのだろうか?」
追い求めた仇の行く末が気に掛かった。
虚しさだけが残った敵討ちであった。

宇佐美が近付いて来た。
「戴、俺の声に覚えがあるだろう、お前に二発の鉛弾ぶち込まれた馬賊の副頭 宇佐美だ」「お前の耳がよく知ってるだろう」 戴の耳は片方無かった。
宇佐美が撃ち落したのである。
「お前にもあの時の苦しみを味わって貰おうか」 そう言うなり腹に二発の弾丸が撃ち込まれたのであった。
苦しみのたうち回る姿を宇佐美は冷たく見下ろしていた。
宇佐美は宇佐美で別の考えであったのだろう。
積年の恨みは相当のものがあったに違いない。
或いは猛火の中で死んでいった多くの老人、子供達、虐殺された開拓団農民の全ての怒りの銃弾だったのだろうか?

宇佐美が「租界が見たい」と、言い出した。
夢を追いかけた、あの日の思い出の地を歩き廻りたかったのか・・其れとも再び『大地の男』に戻りたかったんだろうか・・・?
ひとつの重い鎖が解けた今、皆で租界に足を運んだ。
意外に活況を呈していた。
が、一歩中に入れば虚ろな眼をして上目で人を見る男達・・・嬌声を挙げながら近付いて来る女達・・・
弾痕も生々しい崩れた街並み・・・未だ何も変わってはいなかった。
ひとつひとつ、思い出の糸を手繰りながら観て歩いた。
「未だ戦争は終わっていないのか・・・」 ふと、そう思った譲治だった。
宇佐美が疎開で見た女性が「伯父さん買ってよ」と近着いて来た女性に譲治はドキッとした。何とそれは愛子だった。
生きて居たのだ。片目が瞑れてはいたが「紛れも無い愛子」だった。
宇佐美が彼女を連れて帰ろうと思った。
宇佐美は彼女を「自分のお嫁さんにしたい」と思った。

ターン タタターン 巡視船が撃って来る。
「伏せろっ!」宇佐美が叫ぶ。
李ライン付近で銃撃に遭う・・・
「大丈夫だ、向こうさんは日本の漁船を拿捕した物に機関銃を取り付けただけだ」「此方は最新型のエンジンを積んでるから追い付かれる心配は無い」船長が笑う。 もう玄界灘、波は荒い・・・

見る見る巡視艇は視界から消えて行く。
こうして譲治の、長い年月の旅は終わったのであった。

宇佐美が警察に呼ばれた。
「なあ、宇佐美さん、井出さんは 全部自分ひとりでやったと言われてるんだが、どう思うかね?」 
宇佐美は覚悟を決めた、「頭がそう言われるんなら自分が被ろう」 そして、駐在所爆破、川島叡子殺害、そして一連の抗争事件の全容を語ったのである。
安藤は勝った・・・だが勝ったとは思っていなかった。
どれも真実では無い。
例え真実であったとしても誘導尋問では公判は乗り切れない。
何も井出は語ってはいないのだ。
只、確証が得られただけでの事である。
瀬尾が言った、「どれもこれも戦争が齎した悲劇だなー、警官も辛い仕事だ」「隠さなきゃ為らない過去まで全部暴かなければならん」「だから新たな犯罪を生むんだ」と・・・
安藤は思った、「井出俊介、これも凄い男だ」「地獄まで秘密を持って行こうとは」「だが宇佐美も男らしい男だな」「全部の罪を自分一人で被ろうとは・・・中々出来る事では無い」と。

俊介の容態が急変した。
一同が集まる中、誠司に言った、「田沼を頼れ、電話して置いた、もう俺達はジ、エンドだぞ」
「親父ッ、死ぬな、俺を残して何処行くんだ」「もう一度、満州へ戻ろう・・・」慟哭した。
にっこり微笑み静かに息を引き取ったのだった。

「今日、工員さんと田沼さんが鉢合わせしたのよ、何かあの人達知り合いだったみたいね・・・」「可笑しかったわ、どちらも あっ、どうも、ですって」と笑った。
「かも知れねえな・・・」誠司も薄々感ずいていたのだ。
「田沼がまだ此方に居るのか・・・親父の死を知らせなきゃいけないな」そう思った。

「お兄さん、田沼さんって素敵な人ね」「あんな人、恋人ならいいなー」妹、冬子が言う。
「馬鹿を言え、ヤクザに惚れるな!」未だ何も解っていない様だ。
「お前達は堅気のいい人探せ」
そして、来るであろう 破滅の時の事を思い彼は順々に話して聞かせたのであった。
亜起子は、時々涙ぐみ しんみりとした顔で聞いていた。

今日も安藤は、花屋『アイリス』に赴いた。
たった一輪の花を買いに・・・そして世間話から、譲治の近況までを話して帰る。
田沼も時々店に顔を出す、厳つい顔で冗談を言って帰るのだった。

全てを知ってから、妹達は亜起子を助け励ましながら一生懸命働いていたのだった。
「お姉ちゃんの力になろう、お兄さんが帰って来るまで頑張ろう」と・・・
亜起子はよく口ずさんだ、「待てーど暮らーせど来ーぬ人を・・・♪」
しかし、妹達はそんな姉の姿が羨ましくもあった。
これ程愛し合ったらどんなにか幸せだろうか・・・
しかし辛さもよく理解出来ていた。
誠司の言った「堅気の人を探せ」と、言う意味も・・・

ある日、亜起子は田沼に頼んだ。
「私の身体に譲治さんと同じ彫り物をしてください・・・」と・・・
田沼は快く承知して、「余程、譲治に惚れていなさるんで」 「ええ、何時もあの人と一緒に居たいんです」 「幸せだなー、奴は・・・」
程無くして亜起子の背中いっぱいに双龍の刺青が施されたのである。
妹達(奈津子・冬子)も、姉の刺青に、その愛の深さを知るのであった。
だが奈津子は賛成しなかった 又 冬子は「それほど好きだっだら私もするわ」と賛成した。

裏町挽歌4-z

2016年03月09日
今夜も何時もの屋台でソバを喰っていた。
例の工員がやって来た。
「もう春だと云うのに冷えますね」 「うん、俺は冬真っ只中よ」 「今日、花を買いに行って来ましたよ、女房の誕生日なんです」「誠司さんの奥さん、綺麗な方ですね、優しそうで」 「うん、まあな・・」 「ところで譲治さん・・・」 「えっ、何か・・・?」 「やっぱり、岬・・譲治さんですね」 工員はにやりと笑った、「お解かりですね、奥様としっかり話をしてから出頭してください」 この日が来るのは解ってた。
安藤は信じていた。
「譲治は逃げ隠れする男じゃない、必ず心の整理を着け俺のところに来る」「その時は、刑事としてじゃなく人間安藤として話がしたい」
譲治は亜起子に全てを話して聞かせたのである。
一杯涙を浮かべながら、「待ってるから・・・私は死んでも待ってるからね・・・」「忘れないでね・・・」 後は声にならなかった。

『物証』 同田貫を持参して譲治は安藤の許を訪れた。
安藤も辛かった、何も知らず『戦う為に作られた男』 譲治の心中を思い遣ると切なくやるせなかった。
又、その妻亜起子の胸中を察すると、尚更心が痛んだのである。
宇佐美と譲治との自供から、知りすぎた男、駐在所巡査 潮見栄作 殺害の事実、柳橋に流れ着いた、川島叡子 殺害の全容が明らかにされた。
叡子の身の上話、家族構成は吉田から宇佐美に伝えられたのだった。
そして実行したのは幾人かの大陸浪人・・・
度重なる借金とクスリ(シャブ)によって、彼女はターゲットにされたのである。
が、しかし彼女は既に正常な神経、思考力を失っていたと云う。
廃人となった叡子は、自分から大量の麻薬を求めた節がある。
早晩死ぬであろう彼女を、彼等は待っていられなかったのだ。
戸籍を得る為に・・・
次々と 浅田、白神、そして元大陸浪人、馬賊達が逮捕された。
宇佐美と譲治は、無期懲役、其々の刑が確定したのだった。
皆、潔かった、誰もが上告しなかった。
一台の黒い車が亜起子を追い越して行く・・・

ターン、タタターン、銃声が響く・・・
器械仕掛けの人形の様に前後に揺れ、崩れる様にその影は倒れていった。
「キャーッ、嫌ァー・・・ッ」 亜起子が泣き崩れる・・頭を抱き抱えながら・・・
一足遅く着いた田沼が、「くそっ!おいっ、あの車を追えっ」 呆然と立ち尽くした。

其れから一週間後、全ての身辺整理を着け、亜起子は膝をしっかり紐で縛り、喉を一突きして 愛する彼の元に旅立って行ったのであった。
彼女の安住の地・・・それは譲治の腕の中より他に無かったのであろう。
たったひとつの愛に生き、生涯を閉じた亜起子・・・・
修羅の世界に身を置きながらひたすら亜起子の幸せを願った譲治・・・・
亜起子 34才、譲治 38才、夏も近い梅雨寒の頃だった。
思えば、二人に取って一番幸せな人生だったのかも・・・・

「惜しい人間を殺してしまったなー・・ふたり仲良くあの世で暮らせよ・・・」 墓前に花を手向けながら田沼はそう呟いた。



それから一ヶ月後、六甲山中で全身に銃弾を浴びせられた死体がふたつ、見付けられた。
最初で最後の田沼から譲治への『プレゼント』であった。

路地裏入口のガス灯が今日も静かに佇んでいる。
何も言わず、何も語らずに・・・・

裏町挽歌 終

それから1年・・・
彼の気持ちが、少しずつ亜起子に伝わってきた。
愛されている・・・と、確信が持てる様になった。
無口ではあるが、彼女を大切に思ってくれてる事が・・・
普段の態度から違ってきている。
荒い言葉を吐かなくなった、何時も彼女の心を傷付けまいと気を使ってくれる様になったのだ。
それは、愛の営みの時に顕著に表れた。
彼は優しく抱き締める、壊れ物を扱う様に優しく愛撫する。
そして・・優しい言葉を掛けてくれる・・・
目くるめく快楽のひと時、狂わんばかりの快感の嵐の中・・・ひとつになった悦びの中で実感した、「愛されている」と、やっと心が開放された。

数ヶ月後・・・
亜起子は、自分の運命の不思議さを考えていたのだった。
と、同時に何時の間にか誠司に惹かれ、愛が芽生えてきた事も・・・これが夢なら覚めないで欲しいと・・・
外との接点の少ない彼女にとって頼るべき人は誠司以外誰も居ない。
無理からぬ話であろう。

自由にショッピングも、喫茶店でお茶を楽しむ事も出来る、付かず離れずボディガードが付いてる事も気にならない、寧ろ心強く感じた。
会話も弾む様になった。
彼女にとっては夢の様な生活だった。

自由がある、欲しい物は何でも手に入る、何時も優しく接してくれる。
部屋に花を飾る、庭にも種を蒔く、カーテンを取り替える。
無骨な家が華やいだ。

初めて化粧品を買った、「ちょっとでも彼に可愛がって貰いたい、何時も見詰められていたい」 いじらしい女心であった。
大人びた服に袖を通す、ハイヒールを履いてみる。
何時も誠司を意識してた。

彼も又、「何処へでも連れて歩きたい」と、思ったが、何処から狙われるか解らない身、それは諦めた。
しかし、自慢の妻である、一緒に歩く事は叶わなくても よく喫茶店で落ち合い ひと時の楽しみを求めたのである。

彼は満州の出来事を事細やかに話したのであった。
自分の村が焼かれ皆殺しの中、かろうじて生き残った事、姉が首に縄を打たれ連れ去られた事等・・・
彼女も又、三人姉妹の長女、極貧の中で病弱の母を面倒を看、父親が今度の戦争で片足失った事も、毎日酒浸りで他人の畑から大根、人参等を盗み命を繋いで来た事、父親が不自由な身体に苛立って殴る蹴るの暴行を加えた事などを話したのである。
お互いが、この戦争の被害者である事が 結び付きをより強くしたのは間違い無い。

裏町挽歌  2-1

2016年03月09日
翌日、誠司は浅田に訊いた、浅田は笑って言った、「それは誠司が悪い、先ず会話が無いのは駄目だな、セックスも自分だけ先にイッてしまってぐうぐう寝てたんじゃ可哀想だぜ」
「男は外でいろんな事で発散出来るけど女は家の中でひたすらお前の帰りを待ってるんだぞ」「いろんな意味で充分満足させてやらなきゃな」
「お前は未だ女を知らんな・・・」「女を満足させなきゃ一人前の男と言えないぞ」 俊介が笑って聞いてた。

「男は頭で物を考える、女はオマンコで考える動物だ」「それはお前が悪い」俊介もそう言ったのだった。
重ねて言った「お前は女心が判っておらん、力では女は言う事を聞かんぞ」「優しくしてやらんと駄目だな」「男も女も一緒に考えては女は付いて来んぞ」
皆勝手な事を言ってる。
譲治はみんなのおもちゃにされてる(笑) 

誠司はひとり考えた、「俺の接し方は間違っているのか・・・?」「女をひとり飼うと云う事は、何とまあ骨の折れる事か・・・」
「幼い頃、父と母はどうしてたんだろう?」彼は悩んだ。
家庭の味を知らない彼には、これは大変な問題だったのだ。
男の世界で育ち、生きて来た誠司には女の扱い方がまるで解らなかった、男と同じ様に力ずくで従わせようとしていたのである。
夜の女達は所詮金の為に何でも云う事を聞く、好きな様に扱えた、その違いが解っていない。

「俺は何も分からん、亜起子の言い分を訊いてみよう」
其れからの誠司は亜起子の言いたい事を充分聞いたのだった。
どんな些細な事でも・・・
その意味では15歳の彼女の方が20才前の誠司より大人だったのだろう。

順々に亜起子は彼に女の心、虐げられた自分の悲しい気持ちを伝えたのであった。
そして、彼は素直に彼女の言葉に耳を傾けた、初めて会話らしい会話をする様になったのだった。
その後の彼は全く手を挙げる事も無くなった、時々は癖で手を挙げそうになるものを、ぐっと堪えたのである。
少し前の彼とは別人の様に変わった。

カマボコハウスのアメリカ兵の家庭が大いに参考になった様だ。
彼等国民はレディーファースト、非常に女性を大事にする。
誠司はそれを参考にしたのだった。

裏町挽歌 1ーc

2016年03月09日
堂本の店の従業員が襲われた。
店から銀行までの道で売り上げを奪い取られたのだ。
半死半生の従業員から犯人はすぐ割り出された、敵対する田嶋一家の幹部達だった。
その夜、誠司達は報復活動に出た。
田嶋一家の事務所を襲ったのである。
「地獄の使者、岬譲治だっ!覚悟」 豪刀同田貫が一閃する、銃口が火を噴く・・・
幹部二人と舎弟数名を惨殺し消えて行った。
警察でも、岬譲治なる者の行方を追ったが遥として分からぬ・・・
僅かな手掛かりは同田貫の使い手を捜す・・・と云うだけであった。
戦後の混乱期を抜け日本は大きく変わろうとしていた。
人身売買の禁止、売春防止法の制定、だが国民の間には何も変わる事は無かった。
只、地下に潜っただけの話だけである。

此処に一連の事件に対して疑問を持つ刑事が居た。
老刑事、瀬尾順平である。
彼は都探偵社なる興信所に眼を付けた。
此処には多種多様の人物が足繁く通う・・・
「金融会社社長、代表浅田は実態の無い会社で何をしてるんだ?」「黒幕は誰だ?」疑問は疑惑に代わり24時間のベタ張りを余儀なくされた。
「多くの会社を動かしてる陰の実力者は・・・誰なんだ?」 其処で一人の男が眼に浮かんだ。
毎日決まった時間にコーヒーを飲みに外に出る壮年の偉丈夫は・・・・
名前は『伊庭伸介』 刑事の鋭い嗅覚と勘は何かを感じた様であった。

そうした中、伊吹山中の小さな村で駐在所が爆発炎上した、巡査もその家族も還らぬ人となったのだ。
不審火がプロパンガスに飛び火して、とあるが何か引っ掛かるものを感じた瀬尾は、その村に赴いたのである。
「全く関係が無いが・・・」瀬尾はこうした不審な事件にはよく首を突っ込みたくなる性格であった。
「昔、この山に大天狗、小天狗様が居てよ・・・」村の古老の話である。
「何処からとも無く車に乗って出て行った」と・・・
だが、この御伽噺には何か裏が有る・・・もしその話が本当なら、その後 大天狗、小天狗は何処に行ったのだ?
「飛躍かも知れないが、もしこれが俺の調べている事件と関係があるとすれば?」
徹底的に伊庭伸介を洗っても何も出て来ない、その存在さえも掴めない。
偽名・・・? 過去の事件の数々を調べてみた、が 何も無い・・・
毎日・・・??の連続だった。

亜起子、20才の春・・・
彼女は小さな花屋を開いた。
元々花の好きな亜起子に取って夢だった花屋さんの経営に乗り出したのだ。
何時も花を買いに行く店のご主人のアドバイズを受け、仕入れから販売までを教えられながら手探りで始めたのである。
小さなワゴン車を買い、若い従業員を雇い入れ全てを取り仕切ってやった。
又、秋田から二人の妹(奈津子・冬子)を呼び寄せた、美人三姉妹として評判にもなった。
当時は配達と云うものは、何処の花屋でもやってなかったのが当たり 大いに繁盛したのだった。
又、家では女の家族が多くなったせいか随分華やかになったのである。
誠司が笑って言った、「何時の間にかお前にこの家乗っ取られたなー」と・・・
一緒に暮らし始めて5年、二人の子供にも恵まれ、この年に入籍を済ませたのである。
もう、完全なる夫婦となった姿が其処には在った。
亜起子が何を言っても彼は怒りを表す事は無い・・・何時も笑顔がこの家を包んでいたのだ。

何時もの様に派出所に一輪挿しを活けに行く。
「何時も済みませんなー」 警官がそう言う、「この頃は柳橋界隈は物騒になってきたなー、何時ドンパチやってもおかしくない」 訊くとも無く聞いている。
そして又、不安を募らせる。


背中の刺青を指でなぞりながらそっとため息を突く、「この刺青が悪いのよ・・・」

裏町挽歌 1

2016年03月08日
大きく真っ赤な太陽が地平線を染め、暮れなずむ此処満州北部の村に長い影を落とす頃・・・
岬貫太郎は、「今日も一日ご苦労さん」傍らの妻に微笑み掛け 娘愛子と息子譲治の肩に手を掛け満足そうに呟いていた。
昭和20年9月、まだ彼等は大東亜戦争において日本が無条件降伏をした事も 焦土と化した祖国の事も何一つ知らなかった。
赤々と燃える太陽は彼等の足元を照らしゆっくりと落ちてゆく。

貫太郎は、この幸せが永遠に続くものと信じてた、そして満蒙の大地にどっしりと根を張り 此処に大きな桃源郷を作る事を夢見てたのである。
東北の貧農の三男坊、彼は仲間達と未来の桃源郷を夢見てこの満州北部の原野に鍬を入れた。

そらから8年、豊穣な作物と羊の群れから多くの賜物を得られる様になった今、此処が彼等の『故郷』となっていたのだ。
その間には口には表せない苦労もあった。
匪賊にも何度か襲われた、干ばつで明日の食物も得られない時も・・・
そんな時、決まって現れ、彼等を救ってくれた一団が居た。
風の様に現れ風の様に去って行く・・・
彼等には生神様の様に思えたその一団とは・・・井出俊介率いる満州馬賊の一団だった。

彼等は馬を塒とし、一時も一箇所に留まる事は無い。
此処満蒙の大地が彼等の塒でありフランチャイズなのだ。
遠くは、シベリアの低地を越えウラル山脈の麓まで駆け、多くの獲物を得て帰って来るのであった。

ソビエト連邦共和国(ロシア)のブルジョアージ達は、彼等を『白い稲妻』と呼び恐れ 自らの手で私兵を雇い防御策を講じていたが、彼等の迅速な行動を阻止する事は出来なかった。
夜陰に紛れ襲撃し、何処とも無く去って行く。
白いマフラーと漆黒のルパシカを靡かせて・・・
まさに悪魔に魅入られたかの如く 全てを奪い去り、煙の様に消え去る・・・なす術も無かったのだ。

17年6月・・・・・
ミッドウエイ海戦に於いて日本軍惨敗。
既に井出は知っていた。
陽出る国が敗れ、ソ連軍が参戦するであろう事も・・・
彼等の目的は、他に日本国軍部の為の重要な任務、そう スパイ活動も入っていたから・・・・
彼は仲間と共に関東軍総司令部に馬を進めていた。

昭和20年4月。
「少尉殿、農民を捨て転進ですか?体のいい退却ですなー・・・それで農民はどうなるんで?」 「知らん、彼等農民は元々北の守りと位置付けてきたんだ」「其れを忘れた訳じゃ無いだろう」 本来北の守りである筈の、関東軍は既に撤退の準備を進めていたのだった。
多くの開拓住民を残し、何も知らせないまま・・・ 
「それは軍人の論理でしょう、農民はそうは思っちゃいませんぜ、軍隊が守ってくれると信じてるから安心して暮らしてるんと違いますか?」「見捨てて何処へ逃げるんで?」 「何っ、貴様、逃げるとは何だ!・・・帝国軍人を侮辱するのかっ!天皇陛下の命令だっ!」「井出っ!死にたくなかったらとっとと出てけっ」 
途端に俊介の同田貫が唸りを挙げた。
返す刀で傍に居た将校を斬り倒して何処となく去って行った。
それは関東軍への怒りでもあり、内地で のうのうと暮らしている軍幹部への憤りでもあったのだ。 

後に残されたのは一刀両断に斬り捨てられた2名の将校の遺体・・・彼は帝国陸軍への反逆罪として追われる身となったのである。
関東軍達は、略奪、強盗、殺人、陵辱の限りを尽くし去って行った・・・僅かの満州馬賊『井出俊介一味』討伐隊を残し・・・

だが、北の大地は広い。
井出達は彼等の庭である広漠たる大地を駆け回っていた。
「一刻も早く開拓村の人々に知らせ 日本に引き上げさせねば」・・・だが情勢は非常に厳しいものであった。
関東軍の行いは、中国国民の怒りに火を点け行く手を阻んだのである。
だが、井出の配下には優秀な中国人、蒙古人も居た。
傀儡政権に異を唱える者、関東軍に追われ死の寸前に俊介に救われた者達・・・・
彼等は井出に心酔し、決してどんな状況になろうと離れる事は無かったのだ。
日毎に増す匪賊の勢力は 井出達馬賊を悩ませた。
「何とかして開拓農民を助けねばならない」「早く祖国に戻る様 説得しなければ」 しかし開拓農民に対する匪賊達の攻撃は熾烈を極める。
又、農民達は「此処が俺達の古里だ」と、土地を離れる事を躊躇したのである。
農民に取って土地を奪われる事は如何に辛い事か・・・それは俊介とて解らぬ訳ではない。
が、生きてさえいれば、又夢の続きは見られる・・・彼は必死になって村々を説得して歩いた。
そして・・・一足遅れで焼討ちに遭い無残な死体の山を見せられた事も・・・

ソ連軍が参戦した。
最初は犯罪者で構成される荒くれ集団・・・
彼等は略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし満州各地の開拓農民を襲った。
開拓農民には戦う武器等有りはしなかったのである、だが若し有ったとしても戦いを知らぬ彼等には、自分の身を守る事さえ出来なかったであろう。
唯、逃げ廻るのみ・・・・
集団自決する哀れな例も有ったのだ。
こうして村を追われ南に避難する訳だが北の大地での死者は3万とも5万とも云われる。
だが彼等の逃避行は厳しく辛いものだった。
匪賊ばかりでは無い・・・
今まで虐げられていた多くの中国人、そして俄仕込みの強盗団・・・・
その中を石炭列車に揺られ南へ南へと下って行く。
そして祖国の土を踏む事が出来なかった者が どれだけ居たであろうか?
中には親切な中国人に拾われ、或いは子供の居ない一部の優しい彼等の情けに縋り、与けて内地を目指す者も居たにはいたが。
やはり、敗戦国の日本人には 冷たかったのは事実である。

こうなる事を予見してた彼はいち早く行動を起こしていた。
これまでに蓄えた全ての財産を中立国の銀行に預け、又日本国内の仲間に送り隠匿させたのである。

『赤』の烙印を押され中国まで逃げ 俊介の部下となった浅田英俊が、その任に当たった。
彼は語学にも精通しており、又経理担当能力は素晴しいものがあった。
もし、赤の烙印を押されなければ 然るべく要職に就き多いに力を発揮出来たであろう、と 思われる。
普通、馬賊の集団と云えば寄せ集めのごろつき集団が圧倒的に多い。
だが、俊介の仲間達は彼等と一線を画す。

鉄の結束を誇り、一騎当千の強者揃いだった。
頭目、俊介を慕い集まった仲間には、立派に他の一団に行けば頭の務まる者も多く居たのだ。
原野を駆け抜け匪賊の集団を襲う、そして得た数々の宝の山を惜しげも無く村々に配る。
「早く逃げろ」と・・・

貫太郎の村に、腹心の宇佐美が出向いた。
「ソ連軍の侵攻が始まったぞ!此処は捨てろ」「時間が無い、早く日本に帰れ」 「日本が負けたって?神国日本がどうして・・・?」彼等には理解出来なかった。
「この戦争、何時かは勝つ、『神の国』日本が負ける筈が無い」そう信じて疑わなかった彼等に取って この現実は俄かに受け入れ難い事だったのだ。
「負けたのは事実だ、すぐロ助(ロシア人)が攻めて来る、兎に角南に行く事だ!」宇佐美の声が険しくなる。
その夕方、村は炎に包まれた。

匪賊に襲われたのだった。
瀕死の重傷を負い息も絶え絶えの老人が言った、「女達は首に縄を掛けられ 手を数珠繋ぎにされ皆引きずられて行った」と・・・
俊介は「もう生きて居られるのも数時間だな」 心を鬼にして老人の頭を撃ち抜いた、楽に死なせてやろうとしたのだった。
匪賊、『戴』 片耳の男を追って南へ・・・・満蒙の大地を後にして俊介達一行は散り散りに散って行った。

都会ではヒロポン中毒の者達が虚ろな眼をして屯している。
一杯の雑炊を得る為に売血者が群れを為す、未だ仕事を得る事も難しい時代であった。
当時、買出し列車なるものが有り都会から田舎に 闇の食料を得る為、家法の美術品、着物等を僅かな食料と引き換えに交換して来る者も多く居たが、取締り警察官に見付かり苦労して得たそうした物を取上げられる例も多々有った事も・・・
その為自殺者も数多く出たのも確かだ。
しかし、復興の兆しは少しずつでは有るが見える。
「まだ俺が出て行くには早い」 小さく呟いて男はひたすら少年の成長を楽しみにして鍛え続けた。
井手は岐阜県堺の隠れ小屋でいろいろ作戦を練っていた。
人間に姿を変えた天狗様、井出俊介はじっと時を待っていたのだった。
「俺は関東軍将校を殺してる、中国はおろかソ連東部において略奪の限りを尽くした、そして日本軍の為のスパイ活動、どの道捕まれば死刑は免れないだろう」 彼は闇の社会で生きる決意を固めていたのである。
その為の布石は打ってある。
満州馬賊達は、井出が何時来ても良い様に中部のある都市に拠点を構え 大きな組織を作りつつあったのだ。
そして、又 4年の歳月が流れた。

密かに山に宇佐美、浅田、白峰、堂本、吉田、井出の配下幹部達が集まった。
何事か長い協議が行われた後、少年 岬譲治に 「おい、山を下りるぞ」と、俊介は言った。
そう、その少年こそ岬貫太郎の忘れ形見 譲治である。
彼は匪賊襲撃の際、咄嗟に死体の陰に隠れ難を逃れ俊介に拾われたのだ。
今では立派な青年に成長し 堂々たる体躯は他を圧する程に成っていた。
底知れぬ戦闘力を身に付けた青年、譲治が其処には在った。
大きな車がこの鄙びた寒村にやって来る。
荷物が運び出され小屋は跡形も無く解体された。
その日、遠巻きに様子を見る村人の前から 『大天狗、小天狗』 は完全に姿を消したのであった。
向かう先は中部地方最大の都市、その駅裏の目立たぬ場所に一先ず落ち着いたのである。

一面の焼け野原だったこの街、もバラック小屋が建ちその後俊介が落ち着く頃には何とか長屋形式の家が建ち並ぶ様になっていた。
そして焼け残ったビルには改装が施され街並みは徐々に整いつつあったのである。
戦火を免れ、昔ながらの佇まいを見せる料亭で昔の仲間が集まり喜びの祝宴は行われた。
井出俊介を迎えた事によりどっしりとした柱が備わったのである。
総勢20数名、此処に満州馬賊の一団が集結した。
筆頭、宇佐美直人は混乱期に乗じて不動産業界に進出、任侠ヤクザとしてガッチリと地盤を固め大きな勢力を誇っている。
浅田は金融会社経営、全ての資金は此処から出されている。

白峰は風俗業界に・・・東北地方によく女性達を買い付けに行く、トルコ風呂、売春宿等を経営。
堂本は遊技場、博打場を取り仕切っている。
吉田はキャバレー等の経営、中部圏内のほとんどは彼等が握っていたのだった。

そこで活動していたのは、所謂 『大陸浪人』そして食い詰めて有り余るエネルギーの吐き所の見付からない無頼の輩達である。
彼等は食(職)に有り付く為、命を賭けて働いて居たのだった。
組織の力は強大なものであった。

大正、明治時代からの物であろうか・・・戦災を免れ路地の入口近くに小さなガス灯が立っていた。
火も灯る事も無い古ぼけたガス灯が、この街の遷り変わりを見詰めている。

井出は柳橋から少し中に入った所、そう、この路地裏に小さな事務所を構えた。
「萬相談承ります」『都探偵事務所』 これが彼等の総司令部、そしてこの興信所が井出の新しい仕事である。

代表には、浅田が就いた、あくまで井出は陰の存在だったのだ。

大阪の埠頭に女性の死体が浮かんだ。
シャブ中のその死体には身元を明かすものは何も発見出来なかった。

警察の発表では、酔って海に転落したもの・・・或いは生活苦から覚悟の自殺・・・と簡単に片付けられたのである。
唯、両腕から肩に賭け、そして太股が黒ずみ ヒロポン中毒との発表が有ったのみだった。
まだまだ科学捜査も無い、警察の捜査も及ばない闇の部分の多い頃の話である。
こうしたお宮入りの事件、事故は後を絶たない状況であったのだ。

井出俊介は譲治に言った、「今日から川島誠司として生きろ、それがこれからのお前の名前だ」と・・・・
譲治は素直にそれに従ったのである。
その名前にはきちっとした住民票も有る、街を大手を振って歩ける鑑札の様なものであったから・・・

「親父、俺は何をすればいいんだ?」 「お前はフリーハンドで動け、全部の仕事を覚えるんだ」 彼は先ず浅田の指示を仰ぎ、米軍キャンプを訪れた。
此処から横流しされる物資(酒類、銃の数々、東南アジアからの麻薬の類も有った) それは組織に取って非常に重要な物である。
一週間に一度は買い付けに行く。
そして、酒類の多くは吉田の下へ、後はそれぞれ必要とされる所に配分された。
大陸から持ち帰った潤沢な資金は、こうして又 多くの利益を生んでいたのだった。

白峰の仕事は大きく云ってふたつに分けられる。
ひとつは日本人相手の売春宿、もうひとつはアメリカ兵相手の売春組織(所謂パンパン宿)である。
人間の欲望と云うものは万国共通だ。
そして、不況時に最も強い職業といえるだろう。
又、ギャンブルの類もそうだろう、一攫千金を狙い人々は集まって来る。
復興の槌音が聞こえる日本に 宇佐美の不動産関係の仕事も忙しい、次々とシマを広げて行く、地回りのヤクザとの抗争も激化する。

戦前から続いたヤクザ組織、新興勢力の若い集団(愚連隊)、そして宇佐美達の組織・・・・
毎日が気が許せない生活である。
だがそこで、多くの資金を持つ井出のグループは存分な武力を発揮出来るのだ。
米軍からの横流し物資は多いに彼らの力に為っていたのだった。
が、しかし彼等はその米軍に対しても陰では牙を剥いていたのである。
鬼畜米英が・・・と・・・

欲望渦巻く裏町で、米兵が襲われる事もしばしばあった。

井出は柳橋から少し中に入った所、そう、この路地裏に小さな事務所を構えた。
「萬相談承ります」『都探偵事務所』 これが彼等の総司令部、そしてこの興信所が井出の新しい仕事である。
代表には、浅田が就いた、あくまで井出は陰の存在だったのだ。

大阪の埠頭に女性の死体が浮かんだ。
シャブ中のその死体には身元を明かすものは何も発見出来なかった。
警察の発表では、酔って海に転落したもの・・・或いは生活苦から覚悟の自殺・・・と簡単に片付けられたのである。
唯、両腕から肩に賭け、そして太股が黒ずみ ヒロポン中毒との発表が有ったのみだった。
まだまだ科学捜査も無い、警察の捜査も及ばない闇の部分の多い頃の話である。
こうしたお宮入りの事件、事故は後を絶たない状況であったのだ。

井出俊介は譲治に言った、「今日から川島誠司として生きろ、それがこれからのお前の名前だ」と・・・・
譲治は素直にそれに従ったのである。
その名前にはきちっとした住民票も有る、街を大手を振って歩ける鑑札の様なものであったから・・・

「親父、俺は何をすればいいんだ?」 「お前はフリーハンドで動け、全部の仕事を覚えるんだ」 彼は先ず浅田の指示を仰ぎ、米軍キャンプを訪れた。
此処から横流しされる物資(酒類、銃の数々、東南アジアからの麻薬の類も有った) それは組織に取って非常に重要な物である。
一週間に一度は買い付けに行く。
そして、酒類の多くは吉田の下へ、後はそれぞれ必要とされる所に配分された。
大陸から持ち帰った潤沢な資金は、こうして又 多くの利益を生んでいたのだった。
白峰の仕事は大きく云ってふたつに分けられる。
ひとつは日本人相手の売春宿、もうひとつはアメリカ兵相手の売春組織(所謂パンパン宿)である。
人間の欲望と云うものは万国共通だ。
そして、不況時に最も強い職業といえるだろう。
又、ギャンブルの類もそうだろう、一攫千金を狙い人々は集まって来る。
復興の槌音が聞こえる日本に 宇佐美の不動産関係の仕事も忙しい、次々とシマを広げて行く、地回りのヤクザとの抗争も激化する。
戦前から続いたヤクザ組織、新興勢力の若い集団(愚連隊)、そして宇佐美達の組織・・・・
毎日が気が許せない生活である。
だがそこで、多くの資金を持つ井出のグループは存分な武力を発揮出来るのだ。
米軍からの横流し物資は多いに彼らの力に為っていたのだった。
が、しかし彼等はその米軍に対しても陰では牙を剥いていたのである。
鬼畜米英が・・・と・・・

欲望渦巻く裏町で、米兵が襲われる事もしばしばあった。


昼は川島誠司として睨みを利かせ、夜は岬譲治として敵対するヤクザ組織に銃弾を浴びせる。
黒い帽子に漆黒のルパシカ、白いマフラーを風に靡かせて通り過ぎる。
跡には対抗勢力の死体を残し・・・

「岬譲治だっ!頭を貰いに来たっ!」何時の間にか恐怖の代名詞となったのである。
誰も本当の顔を見る事は出来ない、コルシカ帽を目深に被りマフラーで顔を隠す・・・眼だけが異様に光る。
誰云うとも無く、『死神』と、恐れられ白いマフラーは相手方に脅威を与えたのであった。
誠司こと譲治には善悪の基準が判らなかった。
俊介は戦い方は教えた が、物の善悪を教える事を忘れていたのだった。

そして譲治には、村を焼かれ両親が殺され、姉が首に縄を掛けられ数珠繋ぎにされて連れ去られる姿が心に焼き付いて離れなかった。
憎悪の塊はそのまま相手に向って放たれたのである。
冷徹な殺し屋 譲治が其処に在ったのだった。

柳橋界隈には所謂 立ちん坊(売春婦)が大勢屯していた。
戦争未亡人、何処かの廓から逃げ出して来た者、流れ者の売春婦、氏素性の分からぬ女達が春を売って暮らしている。
その中には政府によるアメリカ兵の為の元慰安婦も多く含まれていたのだった。

(戦時中政府は軍部の為、敗戦後一ヶ月もしないうちにそうした施設(性的慰安施設)を全国の駐屯地近くに作ったのである。
そして撤退の時にはそれらを切り捨てた。
良家の子女を守る為・・・との名目で・・・
それは内務省警保局長からの命令により各県警が行った。
その任務に当たったのは他でもない、警察官達だ。
彼等は農村漁村を訪ね歩き、毛布、足袋、砂糖を贈って説得し、協力を求めたのであった。
だがアメリカ政府はその過剰なサービスに不快感を表して撤廃した。
そこで働く慰安婦たちは(働く所を失って)働き場所を失い行き場所が無くなったのである、故郷に帰りたくとも帰れない。
結果、所謂(立ちん坊、又はパンパンと呼ばれる)売春婦が街に溢れたと云う訳だ。
街娼達はこうした経緯によって生まれたのであるが誠に日本女性を馬鹿にした話であろう。
だが、こうした女性の集まる吹溜りの様な所は又犯罪の温床にもなった。)

追われる者に取っては格好の隠れ場所でもあったのだが・・・
又、この辺りには多くの屋台が軒を連ねる。
総菜屋、夜鳴きソバ屋、訳の判らぬ一杯飲み屋、その他諸々・・・
そして・・・シャブの売人・・・闇の銃の斡旋屋・・・実に多彩である。
警察の取り締まりも多く行われていた。

(おかしなものである、昨日まで慰安婦を集め斡旋してた警察が、今日は逮捕し取り調べをしている。
全ては一貫性の無い日本政府の責任であろう。)

だが、一歩中に入る、裏通りに入ると其処は警察権力の及ばない無法地帯なのだ。
得体の知れない者がウジャウジャ居る、訳の解らない所だ。
その奥に都探偵事務所が有った。

ある夜の事・・・
何時もの様に、夜鳴きソバ屋で一杯食べて車に戻ったところ・・・中で女が3人隠れていた。
警察の取り締まりを逃れ車に逃げ込んだ者達である。

誠司(譲治)は、ニヤリと笑い車を発進させた、「お前、見掛けない顔だが何処から流れて来た?」 「助けてくれて有難う、私は長野からよ・・・貴方は?」 一番若い女がそう答えた。
「俺の事を訊いてどうする?只のお前を助けただけの男だぜ、風来坊のな」

ふたつばかり信号を越えた所で、後の二人を下ろし其の侭 街外れの宿に入って行く。
「俺が一晩買い切る、それでいいな?」 「嬉しい・・助けて貰って買ってくれるの?」 「俺は嘘はつかん、その代わりちょっと乱暴だぞ」そう言うなり身体を押し倒し圧し掛かって行った。
誠司にとっては初めての経験だった、唯 少しばかりのテレが有ったのだろう、又若い欲望はそれにも増して激しかったのである。
そして彼は、それを悟られまいと荒々しく彼女の衣服を剥ぎ取ったのだった。
彼女は、すぐにそれを見抜いたが黙って為すがまま身体を与けて行った。
君塚京子、誠司にとって初めての女だった。
貪る様に彼女を求めた、そして『おとこ』に成った。

彼女は彼の背中の刺青を見て、「初めてでしょう・・・立派な紋々を背負っててもすぐ判るわよ」と、笑った、そして「私が教えてあげるわよ」と・・・
暫くは、その関係が続いた。
が、やがて俊介の知るところと為ってしまったのだ。

裏町挽歌  5

2016年03月08日
順々に亜起子は彼に女の心、虐げられた自分の悲しい気持ちを伝えたのであった。
そして、彼は素直に彼女の言葉に耳を傾けた、初めて会話らしい会話をする様になったのだった。
その後の彼は全く手を挙げる事も無くなった、時々は癖で手を挙げそうになるものを、ぐっと堪えたのである。
少し前の彼とは別人の様に変わった。
カマボコハウスのアメリカ兵の家庭が大いに参考になった様だ。
彼等国民はレディーファースト、非常に女性を大事にする。
誠司はそれを参考にしたのだった。



























それから1年・・・
彼の気持ちが、少しずつ亜起子に伝わってきた。
愛されている・・・と、確信が持てる様になった。
無口ではあるが、彼女を大切に思ってくれてる事が・・・
普段の態度から違ってきている。
荒い言葉を吐かなくなった、何時も彼女の心を傷付けまいと気を使ってくれる様になったのだ。
それは、愛の営みの時に顕著に表れた。
彼は優しく抱き締める、壊れ物を扱う様に優しく愛撫する。
そして・・優しい言葉を掛けてくれる・・・
目くるめく快楽のひと時、狂わんばかりの快感の嵐の中・・・ひとつになった悦びの中で実感した、「愛されている」と、やっと心が開放された。

数ヶ月後・・・
亜起子は、自分の運命の不思議さを考えていたのだった。
と、同時に何時の間にか誠司に惹かれ、愛が芽生えてきた事も・・・これが夢なら覚めないで欲しいと・・・
外との接点の少ない彼女にとって頼るべき人は誠司以外誰も居ない。
無理からぬ話であろう。

自由にショッピングも、喫茶店でお茶を楽しむ事も出来る、付かず離れずボディガードが付いてる事も気にならない、寧ろ心強く感じた。
会話も弾む様になった。
彼女にとっては夢の様な生活だった。
自由がある、欲しい物は何でも手に入る、何時も優しく接してくれる。
部屋に花を飾る、庭にも種を蒔く、カーテンを取り替える。
無骨な家が華やいだ。
初めて化粧品を買った、「ちょっとでも彼に可愛がって貰いたい、何時も見詰められていたい」 いじらしい女心であった。
大人びた服に袖を通す、ハイヒールを履いてみる。
何時も誠司を意識してた。
彼も又、「何処へでも連れて歩きたい」と、思ったが、何処から狙われるか解らない身、それは諦めた。
しかし、自慢の妻である、一緒に歩く事は叶わなくても よく喫茶店で落ち合い ひと時の楽しみを求めたのである。

彼は満州の出来事を事細やかに話したのであった。
自分の村が焼かれ皆殺しの中、かろうじて生き残った事、姉が首に縄を打たれ連れ去られた事等・・・
彼女も又、三人姉妹の長女、極貧の中で病弱の母を面倒を看、父親が今度の戦争で片足失った事も、毎日酒浸りで他人の畑から大根、人参等を盗み命を繋いで来た事、父親が不自由な身体に苛立って殴る蹴るの暴行を加えた事などを話したのである。
お互いが、この戦争の被害者である事が 結び付きをより強くしたのは間違い無い。
「妹・奈津子と冬子」は「こんな辛い生活なら早く神様が迎えに来ないかな?」
亜希子は考えた。「私が変えてみせる!」[妹を守るのは私の役目だ...」悲壮な決意だった。

俊介は激怒した、「夜鷹なんぞ相手にするなっ!あいつ等はどう仕様も無い汚い動物だ、病気の心配も有るぞ」「お前の相手は他に居る」 白峰を呼び付けた。

「お前の所の上玉を2~3人連れて来い、出来るだけ若い娘がいいな」 「一体どうなさるんで?」 「どうやら誠司に盛りが付いた様で・・・困ったもんだ、夜鷹なんぞに手を出しやがって・・・」とは言いながらも俊介は「奴も一人前になったか・・・」と、ある感慨に耽っていた。

白峰は笑って言った、「分かりやした、今度入って来た娘に震い付きたいほどの上玉が居やすから・・・未だ口開け前の生娘ですぜ」「唯、ちょっと・・・」 「何だ?その娘がどうかしたか?」 「秋田から連れて来る途中、車から飛び降り逃げようとして川に飛び込んだんで・・・」「今、縛り上げて座敷に閉じ込め吊るして居るんですがね」「手こずるかも知れませんぜ」「俺も二箇所ばかり噛み付かれたんですわ」腕の噛み傷を見せてそう言った。 俊介は大笑いをした、「それは威勢がいいのう、誠司がどう仕込むか見物だなー」

そして、「で、まさか傷付けたんでは有るまいな?」 白峰は答えて、「それはもう、商品だから傷は付けませんが・・・大した娘ですぜ」「まるで狂犬だ」と、言ったのである。
成る程、美しい・・・が、まだ幼顔が残る少女だった、気性の激しそうな顔をしてる。 不安そうな顔で俊介を見上げていた。 「お前、名前は何と言うんだ?」
おずおずと「亜起子です」 小さな声で答えた。
「お前は俺が買った、いいな」 覚悟を決めた様子だ、怯えた声で「はい・・・」と、小さく頷いたのであった。
それから2日後。 「誠司、この女をお前にくれてやる、煮て喰うなり焼いて喰うなり勝手にしろ」 15才の生娘である。 怯えた表情で俊介と誠司を見上げていた。 今まで考えた事の無い、自分の・・・いや、自分だけの女である、それも非常に見目麗しい・・・

誠司は飛び上がらんばかりに喜んだ。 亜起子は思い掛けない運命に戸惑ったのである。 「煮て喰う・・?焼いて喰う・・・?どう言う意味なんだろう・・・?」恐ろしくて堪らなかった。
「この先どうなるの?・・・又他に売られるんでは無いの・・・?」 東北の寒村の、貧しい農家に生まれ父親は今度の戦争で片足を失い、酒浸りの毎日、口減らしと金の魅力に負け売られた身である。
彼女に取っては真に理不尽な話であるが受け入れなければならない現実だった。 何度も死を考えた、だが死ねなかった。 死んだ心算で自分を捨てた筈だった、がやはり怖い、たらい回しの様に自分のご主人様が代わる。

そして今度は、こんな若い男性に引き渡されて・・・自分はどうされるんだろう?・・・ だが、この人は今まで逢った人とは違う・・・冷たい眼をしてる・・・が・・ 何と澄んだ眼をしてるんだろう・・・がっしりとした体格、淋しそうな笑顔、亜希子は尚更戸惑ったのであった。
「これから私は・・・?」「この人は私をどうする積もりなんだろう・・・?」絶えず不安が付いて回る。
・・・このころの女性に対する躾は殴る蹴る逆さにつるして思いっ切り甚振るのがあたり前の時代だった・・・ 「付いて来い」唯、一言言って車に乗せられた。 「私は何処で働くの?」訊いても答えは返って来ない。 「一体この人は私を何処へ連れて行くんだろう?何処の売春宿で働かされるんだろう?」「それともこの人の玩具になるんだろうか・・・」「・・・???」 郊外の一軒家で車は停まった。
林に囲まれ道筋からはその住宅は全く見えない。
が、しかし立派な家だった、唯、塀が高く如何にも物々しい、亜起子が幾ら背伸びしても外は見えない。 「一体どんな人が住んでるのかしら?」「もしかしたら人買いの巣窟・・・?」 身震いがして来た。 「入れ・・・」言われるまま恐る恐る入った。 彼女は極度の緊張のあまり何も眼に入らなかったのである。 広いリビングだった、それは今まで彼女の生活の中で出合った事の無い大きな空間だった。
高いのか安いのか判らぬが大きな家具が並ぶ中、正面に刀掛けが有り大小の日本刀が掛けてある事だけが彼女の眼に焼き付いた。 恐怖感が全身を包む。

裏町挽歌  2

2016年03月07日
巷ではヒロポン中毒の者達が虚ろな眼をして屯している。
一杯の雑炊を得る為に売血者が群れを為す、未だ仕事を得る事も難しい時代であった。
当時、買出し列車なるものが有り都会から田舎に 闇の食料を得る為、家法の美術品、着物等を僅かな食料と引き換えに交換して来る者も多く居たが、取締り警察官に見付かり苦労して得たそうした物を取上げられる例も多々有った事も・・・
その為自殺者も数多く出たのも確かだ。
しかし、復興の兆しは少しずつでは有るが見える。
「まだ俺が出て行くには早い」 小さく呟いて男はひたすら少年の成長を楽しみにして鍛え続けた。
人間に姿を変えた天狗様、井出俊介はじっと時を待っていたのだった。
「俺は関東軍将校を殺してる、中国はおろかソ連東部において略奪の限りを尽くした、そして日本軍の為のスパイ活動、どの道捕まれば死刑は免れないだろう」 彼は闇の社会で生きる決意を固めていたのである。
その為の布石は打ってある。
満州馬賊達は、井出が何時来ても良い様に中部のある都市に拠点を構え 大きな組織を作りつつあったのだ。
そして、又 4年の歳月が流れた。

密かに山に宇佐美、浅田、白峰、堂本、吉田、井出の配下幹部達が集まった。
何事か長い協議が行われた後、少年 岬譲治に 「おい、山を下りるぞ」と、俊介は言った。
そう、その少年こそ岬貫太郎の忘れ形見 譲治である。
彼は匪賊襲撃の際、咄嗟に死体の陰に隠れ難を逃れ俊介に拾われたのだ。
今では立派な青年に成長し 堂々たる体躯は他を圧する程に成っていた。
底知れぬ戦闘力を身に付けた青年、譲治が其処には在った。
大きな車がこの鄙びた寒村にやって来る。
荷物が運び出され小屋は跡形も無く解体された。
その日、遠巻きに様子を見る村人の前から 『大天狗、小天狗』 は完全に姿を消したのであった。
向かう先は中部地方最大の都市、その駅裏の目立たぬ場所に一先ず落ち着いたのである。

一面の焼け野原だったこの街、もバラック小屋が建ちその後俊介が落ち着く頃には何とか長屋形式の家が建ち並ぶ様になっていた。
そして焼け残ったビルには改装が施され街並みは徐々に整いつつあったのである。
戦火を免れ、昔ながらの佇まいを見せる料亭で昔の仲間が集まり喜びの祝宴は行われた。
井出俊介を迎えた事によりどっしりとした柱が備わったのである。
総勢20数名、此処に満州馬賊の一団が集結した。
筆頭、宇佐美直人は混乱期に乗じて不動産業界に進出、任侠ヤクザとしてガッチリと地盤を固め大きな勢力を誇っている。
浅田は金融会社経営、全ての資金は此処から出されている。
白峰は風俗業界に・・・東北地方によく女性達を買い付けに行く、トルコ風呂、売春宿等を経営。
堂本は遊技場、博打場を取り仕切っている。
吉田はキャバレー等の経営、中部圏内のほとんどは彼等が握っていたのだった。
そこで活動していたのは、所謂 『大陸浪人』そして食い詰めて有り余るエネルギーの吐き所の見付からない無頼の輩達である。
彼等は食(職)に有り付く為、命を賭けて働いて居たのだった。
組織の力は強大なものであった。

大正、明治時代からの物であろうか・・・戦災を免れ路地の入口近くに小さなガス灯が立っていた。
火も灯る事も無い古ぼけたガス灯が、この街の遷り変わりを見詰めている。




井出は柳橋から少し中に入った所、そう、この路地裏に小さな事務所を構えた。
「萬相談承ります」『都探偵事務所』 これが彼等の総司令部、そしてこの興信所が井出の新しい仕事である。
代表には、浅田が就いた、あくまで井出は陰の存在だったのだ。

大阪の埠頭に女性の死体が浮かんだ。
シャブ中のその死体には身元を明かすものは何も発見出来なかった。
警察の発表では、酔って海に転落したもの・・・或いは生活苦から覚悟の自殺・・・と簡単に片付けられたのである。
唯、両腕から肩に賭け、そして太股が黒ずみ ヒロポン中毒との発表が有ったのみだった。
まだまだ科学捜査も無い、警察の捜査も及ばない闇の部分の多い頃の話である。
こうしたお宮入りの事件、事故は後を絶たない状況であったのだ。

井出俊介は譲治に言った、「今日から川島誠司として生きろ、それがこれからのお前の名前だ」と・・・・
譲治は素直にそれに従ったのである。
その名前にはきちっとした住民票も有る、街を大手を振って歩ける鑑札の様なものであったから・・・
「親父、俺は何をすればいいんだ?」 「お前はフリーハンドで動け、全部の仕事を覚えるんだ」 彼は先ず浅田の指示を仰ぎ、米軍キャンプを訪れた。
此処から横流しされる物資(酒類、銃の数々、東南アジアからの麻薬の類も有った) それは組織に取って非常に重要な物である。
一週間に一度は買い付けに行く。
そして、酒類の多くは吉田の下へ、後はそれぞれ必要とされる所に配分された。
大陸から持ち帰った潤沢な資金は、こうして又 多くの利益を生んでいたのだった。
白峰の仕事は大きく云ってふたつに分けられる。
ひとつは日本人相手の売春宿、もうひとつはアメリカ兵相手の売春組織(所謂パンパン宿)である。
人間の欲望と云うものは万国共通だ。
そして、不況時に最も強い職業といえるだろう。

又、ギャンブルの類もそうだろう、一攫千金を狙い人々は集まって来る。
復興の槌音が聞こえる日本に 宇佐美の不動産関係の仕事も忙しい、次々とシマを広げて行く、地回りのヤクザとの抗争も激化する。
戦前から続いたヤクザ組織、新興勢力の若い集団(愚連隊)、そして宇佐美達の組織・・・・

毎日が気が許せない生活である。
だがそこで、多くの資金を持つ井出のグループは存分な武力を発揮出来るのだ。
米軍からの横流し物資は多いに彼らの力に為っていたのだった。
が、しかし彼等はその米軍に対しても陰では牙を剥いていたのである。
鬼畜米英が・・・と・・・
欲望渦巻く裏町で、米兵が襲われる事もしばしばあった。

昼は川島誠司として睨みを利かせ、夜は岬譲治として敵対するヤクザ組織に銃弾を浴びせる。
黒い帽子に漆黒のルパシカ、白いマフラーを風に靡かせて通り過ぎる。
跡には対抗勢力の死体を残し・・・
「岬譲治だっ!頭を貰いに来たっ!」何時の間にか恐怖の代名詞となったのである。
誰も本当の顔を見る事は出来ない、コルシカ帽を目深に被りマフラーで顔を隠す・・・眼だけが異様に光る。
誰云うとも無く、『死神』と、恐れられ白いマフラーは相手方に脅威を与えたのであった。
誠司こと譲治には善悪の基準が判らなかった。
俊介は戦い方は教えた が、物の善悪を教える事を忘れていたのだった。
そして譲治には、村を焼かれ両親が殺され、姉が首に縄を掛けられ数珠繋ぎにされて連れ去られる姿が心に焼き付いて離れなかった。

憎悪の塊はそのまま相手に向って放たれたのである。
冷徹な殺し屋 譲治が其処に在ったのだった。

柳橋界隈には所謂 立ちん坊(売春婦)が大勢屯していた。
戦争未亡人、何処かの廓から逃げ出して来た者、流れ者の売春婦、氏素性の分からぬ女達が春を売って暮らしている。
その中には政府によるアメリカ兵の為の元慰安婦も多く含まれていたのだった。

戦争中(政府「旧陸軍とその組織」は敗戦後一ヶ月もしないうちにそうした施設(性的慰安施設)を全国の駐屯地近くに作ったのである。
良家の子女を守る為・・・との名目で・・・
それは内務省警保局長からの命令により各県警が行った。
その任務に当たったのは他でもない、警察官達だ。
彼等は農村漁村を訪ね歩き、毛布、足袋、砂糖を贈って説得し、協力を求めたのであった。
だがアメリカ政府はその過剰なサービスに不快感を表して撤廃した。
そこで働く慰安婦たちは働き場所を失い行き場所が無くなったのである、故郷に帰りたくとも帰れない。
結果、所謂(立ちん坊、又はパンパンと呼ばれる)売春婦が街に溢れたと云う訳だ。
街娼達はこうした経緯によって生まれたのであるが誠に日本女性を馬鹿にした話であろう。
だが、こうした女性の集まる吹溜りの様な所は又犯罪の温床にもなった。)

追われる者に取っては格好の隠れ場所でもあったのだが・・・
又、この辺りには多くの屋台が軒を連ねる。
総菜屋、夜鳴きソバ屋、訳の判らぬ一杯飲み屋、その他諸々・・・
そして・・・シャブの売人・・・闇の銃の斡旋屋・・・実に多彩である。
警察の取り締まりも多く行われていた。

(おかしなものである、昨日まで慰安婦を集め斡旋してた警察が、今日は逮捕し取り調べをしている。
全ては一貫性の無い日本政府の責任であろう。)

だが、一歩中に入る、裏通りに入ると其処は警察権力の及ばない無法地帯なのだ。
得体の知れない者がウジャウジャ居る、訳の解らない所だ。
その奥に都探偵事務所が有った。




都会ではヒロポン中毒の者達が虚ろな眼をして屯している。
一杯の雑炊を得る為に売血者が群れを為す、未だ仕事を得る事も難しい時代であった。
当時、買出し列車なるものが有り都会から田舎に 闇の食料を得る為、家法の美術品、着物等を僅かな食料と引き換えに交換して来る者も多く居たが、取締り警察官に見付かり苦労して得たそうした物を取上げられる例も多々有った事も・・・
その為自殺者も数多く出たのも確かだ。
しかし、復興の兆しは少しずつでは有るが見える。
「まだ俺が出て行くには早い」 小さく呟いて男はひたすら少年の成長を楽しみにして鍛え続けた。
人間に姿を変えた天狗様、井出俊介はじっと時を待っていたのだった。
「俺は関東軍将校を殺してる、中国はおろかソ連東部において略奪の限りを尽くした、そして日本軍の為のスパイ活動、どの道捕まれば死刑は免れないだろう」 彼は闇の社会で生きる決意を固めていたのである。
その為の布石は打ってある。
満州馬賊達は、井出が何時来ても良い様に中部のある都市に拠点を構え 大きな組織を作りつつあったのだ。
そして、又 4年の歳月が流れた。

密かに山に宇佐美、浅田、白峰、堂本、吉田、井出の配下幹部達が集まった。
何事か長い協議が行われた後、少年 岬譲治に 「おい、山を下りるぞ」と、俊介は言った。
そう、その少年こそ岬貫太郎の忘れ形見 譲治である。
彼は匪賊襲撃の際、咄嗟に死体の陰に隠れ難を逃れ俊介に拾われたのだ。
今では立派な青年に成長し 堂々たる体躯は他を圧する程に成っていた。
底知れぬ戦闘力を身に付けた青年、譲治が其処には在った。
大きな車がこの鄙びた寒村にやって来る。
荷物が運び出され小屋は跡形も無く解体された。
その日、遠巻きに様子を見る村人の前から 『大天狗、小天狗』 は完全に姿を消したのであった。
向かう先は中部地方最大の都市、その駅裏の目立たぬ場所に一先ず落ち着いたのである。

一面の焼け野原だったこの街、もバラック小屋が建ちその後俊介が落ち着く頃には何とか長屋形式の家が建ち並ぶ様になっていた。
そして焼け残ったビルには改装が施され街並みは徐々に整いつつあったのである。
戦火を免れ、昔ながらの佇まいを見せる料亭で昔の仲間が集まり喜びの祝宴は行われた。
井出俊介を迎えた事によりどっしりとした柱が備わったのである。
総勢20数名、此処に満州馬賊の一団が集結した。
筆頭、宇佐美直人は混乱期に乗じて不動産業界に進出、任侠ヤクザとしてガッチリと地盤を固め大きな勢力を誇っている。
浅田は金融会社経営、全ての資金は此処から出されている。
白峰は風俗業界に・・・東北地方によく女性達を買い付けに行く、トルコ風呂、売春宿等を経営。
堂本は遊技場、博打場を取り仕切っている。
吉田はキャバレー等の経営、中部圏内のほとんどは彼等が握っていたのだった。
そこで活動していたのは、所謂 『大陸浪人』そして食い詰めて有り余るエネルギーの吐き所の見付からない無頼の輩達である。
彼等は食(職)に有り付く為、命を賭けて働いて居たのだった。
組織の力は強大なものであった。

大正、明治時代からの物であろうか・・・戦災を免れ路地の入口近くに小さなガス灯が立っていた。
火も灯る事も無い古ぼけたガス灯が、この街の遷り変わりを見詰めている。


井出は柳橋から少し中に入った所、そう、この路地裏に小さな事務所を構えた。
「萬相談承ります」『都探偵事務所』 これが彼等の総司令部、そしてこの興信所が井出の新しい仕事である。
代表には、浅田が就いた、あくまで井出は陰の存在だったのだ。

大阪の埠頭に女性の死体が浮かんだ。
シャブ中のその死体には身元を明かすものは何も発見出来なかった。
警察の発表では、酔って海に転落したもの・・・或いは生活苦から覚悟の自殺・・・と簡単に片付けられたのである。
唯、両腕から肩に賭け、そして太股が黒ずみ ヒロポン中毒との発表が有ったのみだった。
まだまだ科学捜査も無い、警察の捜査も及ばない闇の部分の多い頃の話である。
こうしたお宮入りの事件、事故は後を絶たない状況であったのだ。

井出俊介は譲治に言った、「今日から川島誠司として生きろ、それがこれからのお前の名前だ」と・・・・
譲治は素直にそれに従ったのである。
その名前にはきちっとした住民票も有る、街を大手を振って歩ける鑑札の様なものであったから・・・
「親父、俺は何をすればいいんだ?」 「お前はフリーハンドで動け、全部の仕事を覚えるんだ」 彼は先ず浅田の指示を仰ぎ、米軍キャンプを訪れた。
此処から横流しされる物資(酒類、銃の数々、東南アジアからの麻薬の類も有った) それは組織に取って非常に重要な物である。
一週間に一度は買い付けに行く。
そして、酒類の多くは吉田の下へ、後はそれぞれ必要とされる所に配分された。
大陸から持ち帰った潤沢な資金は、こうして又 多くの利益を生んでいたのだった。
白峰の仕事は大きく云ってふたつに分けられる。
ひとつは日本人相手の売春宿、もうひとつはアメリカ兵相手の売春組織(所謂パンパン宿)である。
人間の欲望と云うものは万国共通だ。
そして、不況時に最も強い職業といえるだろう。
又、ギャンブルの類もそうだろう、一攫千金を狙い人々は集まって来る。
復興の槌音が聞こえる日本に 宇佐美の不動産関係の仕事も忙しい、次々とシマを広げて行く、地回りのヤクザとの抗争も激化する。
戦前から続いたヤクザ組織、新興勢力の若い集団(愚連隊)、そして宇佐美達の組織・・・・
毎日が気が許せない生活である。
だがそこで、多くの資金を持つ井出のグループは存分な武力を発揮出来るのだ。
米軍からの横流し物資は多いに彼らの力に為っていたのだった。
が、しかし彼等はその米軍に対しても陰では牙を剥いていたのである。
鬼畜米英が・・・と・・・
欲望渦巻く裏町で、米兵が襲われる事もしばしばあった。


昼は川島誠司として睨みを利かせ、夜は岬譲治として敵対するヤクザ組織に銃弾を浴びせる。
黒い帽子に漆黒のルパシカ、白いマフラーを風に靡かせて通り過ぎる。
跡には対抗勢力の死体を残し・・・
「岬譲治だっ!頭を貰いに来たっ!」何時の間にか恐怖の代名詞となったのである。
誰も本当の顔を見る事は出来ない、コルシカ帽を目深に被りマフラーで顔を隠す・・・眼だけが異様に光る。
誰云うとも無く、『死神』と、恐れられ白いマフラーは相手方に脅威を与えたのであった。
誠司こと譲治には善悪の基準が判らなかった。
俊介は戦い方は教えた が、物の善悪を教える事を忘れていたのだった。
そして譲治には、村を焼かれ両親が殺され、姉が首に縄を掛けられ数珠繋ぎにされて連れ去られる姿が心に焼き付いて離れなかった。
憎悪の塊はそのまま相手に向って放たれたのである。
冷徹な殺し屋 譲治が其処に在ったのだった。

柳橋界隈には所謂 立ちん坊(売春婦)が大勢屯していた。
戦争未亡人、何処かの廓から逃げ出して来た者、流れ者の売春婦、氏素性の分からぬ女達が春を売って暮らしている。
その中には政府によるアメリカ兵の為の元慰安婦も多く含まれていたのだった。

戦争中(政府「旧陸軍とその組織」は敗戦後一ヶ月もしないうちにそうした施設(性的慰安施設)を全国の駐屯地近くに作ったのである。
良家の子女を守る為・・・との名目で・・・
それは内務省警保局長からの命令により各県警が行った。
その任務に当たったのは他でもない、警察官達だ。
彼等は農村漁村を訪ね歩き、毛布、、砂糖を贈って説得し、協力を求めたのであった。
だがアメリカ政府はその過剰なサービスに不快感を表して撤廃した。
そこで働く慰安婦たちは働き場所を失い行き場所が無くなったのである、故郷に帰りたくとも帰れない。
結果、所謂(立ちん坊、又はパンパンと呼ばれる)売春婦が街に溢れたと云う訳だ。
街娼達はこうした経緯によって生まれたのであるが誠に日本女性を馬鹿にした話であろう。
だが、こうした女性の集まる吹溜りの様な所は又犯罪の温床にもなった。)

追われる者に取っては格好の隠れ場所でもあったのだが・・・
又、この辺りには多くの屋台が軒を連ねる。
総菜屋、夜鳴きソバ屋、訳の判らぬ一杯飲み屋、その他諸々・・・
そして・・・シャブの売人・・・闇の銃の斡旋屋・・・実に多彩である。
警察の取り締まりも多く行われていた。

(おかしなものである、昨日まで慰安婦を集め斡旋してた警察が、今日は逮捕し取り調べをしている。
全ては一貫性の無い日本政府の責任であろう。)

だが、一歩中に入る、裏通りに入ると其処は警察権力の及ばない無法地帯なのだ。
得体の知れない者がウジャウジャ居る、訳の解らない所だ。
その奥に都探偵事務所が有った。

ある夜の事・・・
何時もの様に、夜鳴きソバ屋で一杯食べて車に戻ったところ・・・中で女が3人隠れていた。
警察の取り締まりを逃れ車に逃げ込んだ者達である。
誠司(譲治)は、ニヤリと笑い車を発進させた、「お前、見掛けない顔だが何処から流れて来た?」 「助けてくれて有難う、私は長野からよ・・・貴方は?」 一番若い女がそう答えた。
「俺の事を訊いてどうする?只のお前を助けただけの男だぜ、風来坊のな」
ふたつばかり信号を越えた所で、後の二人を下ろし其の侭 街外れの宿に入って行く。
「俺が一晩買い切る、それでいいな?」 「嬉しい・・助けて貰って買ってくれるの?」 「俺は嘘はつかん、その代わりちょっと乱暴だぞ」そう言うなり身体を押し倒し圧し掛かって行った。
誠司にとっては初めての経験だった、唯 少しばかりのテレが有ったのだろう、又若い欲望はそれにも増して激しかったのである。
そして彼は、それを悟られまいと荒々しく衣服を剥ぎ取ったのだった。

彼女は、すぐにそれを見抜いたが黙って為すがまま身体を与けて行った。
君塚京子、誠司にとって初めての女だった。
貪る様に彼女を求めた、そして『おとこ』に成った。
彼女は彼の背中の刺青を見て、「初めてでしょう・・・立派な紋々を背負っててもすぐ判るわよ」と、笑った、そして「私が教えてあげるわよ」と・・・
暫くは、その関係が続いた。
が、やがて俊介の知るところと為ってしまったのだ。

裏町挽歌 1

2016年03月07日
『裏町挽歌 1』

大きく真っ赤な太陽が地平線を染め、暮れなずむ此処満州北部の村に長い影を落とす頃・・・
岬貫太郎は、「今日も一日ご苦労さん」傍らの妻に微笑み掛け 娘愛子と息子譲治の肩に手を掛け満足そうに呟いていた。
昭和20年9月、まだ彼等は大東亜戦争において日本が無条件降伏をした事も 焦土と化した祖国の事も何一つ知らなかった。
赤々と燃える太陽は彼等の足元を照らしゆっくりと落ちてゆく。
貫太郎は、この幸せが永遠に続くものと信じてた、そして満蒙の大地にどっしりと根を張り 此処に大きな桃源郷を作る事を夢見てたのである。
東北の貧農の三男坊、彼は仲間達と未来の桃源郷を夢見てこの満州北部の原野に鍬を入れた。
それから8年、豊穣な作物と羊の群れから多くの賜物を得られる様になった今、此処が彼等の『故郷』となっていたのだ。
その間には口には表せない苦労もあった。
匪賊にも何度か襲われた、干ばつで明日の食物も得られない時も・・・
そんな時、決まって現れ、彼等を救ってくれた一団が居た。



風の様に現れ風の様に去って行く・・・
彼等には生神様の様に思えたその一団とは・・・井出俊介率いる満州馬賊の一団だった。


その一団に守られた家族はもちろん現在の日本は遠い過去の思い出しかない。


しかし確実にいつもの遠い日が迫っていることを感じていた。

彼等は馬を塒とし、一時も一箇所に留まる事は無い。
此処満蒙の大地が彼等の塒でありフランチャイズなのだ。
遠くは、シベリアの低地を越えウラル山脈の麓まで駆け、多くの獲物を得て帰って来るのであった。
ソビエト連邦共和国(ロシア)のブルジョアージ達は、彼等を『白い稲妻』と呼び恐れ 自らの手で私兵を雇い防御策を講じていたが、彼等の迅速な行動を阻止する事は出来なかった。
夜陰に紛れ襲撃し、何処とも無く去って行く。
白いマフラーと漆黒のルパシカを靡かせて・・・
まさに悪魔に魅入られたかの如く 全てを奪い去り、煙の様に消え去る・・・なす術も無かったのだ。

昭和17年6月・・・・・
ミッドウエイ海戦に於いて日本軍惨敗。
既に井出は知っていた。
陽出る国が敗れ、ソ連軍が参戦するであろう事も・・・
彼等の目的は、他に日本国軍部の為の重要な任務、そう スパイ活動も入っていたから・・・・
彼は仲間と共に関東軍総司令部に馬を進めていた。



昭和20年4月。
「少尉殿、農民を捨て転進ですか?体のいい退却ですなー・・・それで農民はどうなるんで?」 「知らん、彼等農民は元々北の守りと位置付けてきたんだ」「其れを忘れた訳じゃ無いだろう」 本来北の守りである筈の、関東軍は既に撤退の準備を進めていたのだった。
多くの開拓住民を残し、何も知らせないまま・・・ 
「それは軍人の論理でしょう、農民はそうは思っちゃいませんぜ、軍隊が守ってくれると信じてるから安心して暮らしてるんと違いますか?」「見捨てて何処へ逃げるんで?」 「何っ、貴様、逃げるとは何だ!・・・帝国軍人を侮辱するのかっ!天皇陛下の命令だっ!」「井出っ!死にたくなかったらとっとと出てけっ」 途端に俊介の同田貫が唸りを挙げた。
返す刀で傍に居た将校を斬り倒して何処となく去って行った。
それは関東軍への怒りでもあり、内地で のうのうと暮らしている軍幹部への憤りでもあったのだ。 

後に残されたのは一刀両断に斬り捨てられた2名の将校の遺体・・・彼は帝国陸軍への反逆罪として追われる身となったのである。
関東軍達は、略奪、強盗、殺人、陵辱の限りを尽くし去って行った・・・僅かの満州馬賊『井出俊介一味』討伐隊を残し・・・
だが、北の大地は広い。
井出達は彼等の庭である広漠たる大地を駆け回っていた。
「一刻も早く開拓村の人々に知らせ 日本に引き上げさせねば」・・・だが情勢は非常に厳しいものであった。
関東軍の行いは、中国国民の怒りに火を点け行く手を阻んだのである。
だが、井出の配下には優秀な中国人、蒙古人も居た。
傀儡政権に異を唱える者、関東軍に追われ死の寸前に俊介に救われた者達・・・・
彼等は井出に心酔し、決してどんな状況になろうと離れる事は無かったのだ。
日毎に増す匪賊(中国軍とか流民の群れ)の勢力は 井出達馬賊を悩ませた。
「何とかして開拓農民を助けねばならない」「早く祖国に戻る様 説得しなければ」 しかし開拓農民に対する匪賊達の攻撃は熾烈を極める。
又、農民達は「此処が俺達の古里だ」と、土地を離れる事を躊躇したのである。
農民に取って土地を奪われる事は如何に辛い事か・・・それは俊介とて解らぬ訳ではない。
が、生きてさえいれば、又夢の続きは見られる・・・彼は必死になって村々を説得して歩いた。
そして・・・一足遅れで焼討ちに遭い無残な死体の山を見せられた事も・・・

ソ連軍が参戦した。
最初は犯罪者で構成される荒くれ集団・・・
彼等は略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし満州各地の開拓農民を襲った。
開拓農民には戦う武器等有りはしなかったのである、だが若し有ったとしても戦いを知らぬ彼等には、自分の身を守る事さえ出来なかったであろう。
唯、逃げ廻るのみ・・・・
集団自決する哀れな例も有ったのだ。
こうして村を追われ南に避難する訳だが北の大地での死者は3万とも5万とも云われる。
だが彼等の逃避行は厳しく辛いものだった。
匪賊ばかりでは無い・・・
今まで虐げられていた多くの中国人、そして俄仕込みの強盗団・・・・
その中を石炭列車に揺られ南へ南へと下って行く。
そして祖国の土を踏む事が出来なかった者が どれだけ居たであろうか?
中には親切な中国人に拾われ、或いは子供の居ない一部の優しい彼等の情けに縋り、与けて内地を目指す者も居たにはいたが。
やはり、敗戦国の日本人には 冷たかったのは事実である。

こうなる事を予見してた彼はいち早く行動を起こしていた。
これまでに蓄えた全ての財産を中立国の銀行に預け、又日本国内の仲間に送り隠匿させたのである。
『赤』の烙印を押され中国まで逃げ 俊介の部下となった浅田英俊が、その任に当たった。
彼は語学にも精通しており、又経理担当能力は素晴しいものがあった。



もし、赤の烙印を押されなければ 然るべく要職に就き多いに力を発揮出来たであろう、と 思われる。
普通、馬賊の集団と云えば寄せ集めのごろつき集団が圧倒的に多い。
だが、俊介の仲間達は彼等と一線を画す。
鉄の結束を誇り、一騎当千の強者揃いだった。
頭目、俊介を慕い集まった仲間には、立派に他の一団に行けば頭の務まる者も多く居たのだ。
原野を駆け抜け匪賊の集団を襲う、そして得た数々の宝の山を惜しげも無く村々に配る。
「早く逃げろ」と・・・

貫太郎の村に、腹心の宇佐美が出向いた。
「ソ連軍の侵攻が始まったぞ!此処は捨てろ」「時間が無い、早く日本に帰れ」 「日本が負けたって?神国日本がどうして・・・?」彼等には理解出来なかった。
「この戦争、何時かは勝つ、『神の国』日本が負ける筈が無い」そう信じて疑わなかった彼等に取って この現実は俄かに受け入れ難い事だったのだ。
「負けたのは事実だ、すぐロ助(ロシア人)が攻めて来る、兎に角南に行く事だ!」宇佐美の声が険しくなる。
その夕方、村は炎に包まれた。



匪賊に襲われたのだった。
瀕死の重傷を負い息も絶え絶えの老人が言った、「女達は首に縄を掛けられ 手を数珠繋ぎにされ皆引きずられて行った」と・・・
俊介は「もう生きて居られるのも数時間だな」 心を鬼にして老人の頭を撃ち抜いた、楽に死なせてやろうとしたのだった。
匪賊、『戴』 片耳の男を追って南へ・・・・満蒙の大地を後にして俊介達一行は散り散りに散って行った。

昭和21年夏・・・
先の見えない日本は、舵を失い羅針盤の無い船となり多くの苦難と戦っていた。
夢も希望も無く、食べる物も満足に無い多くの民衆は只 夢遊病者の様に瓦礫と化した街を彷徨っていたのである。
そんな中、舞鶴港では引き揚げ船が到着する。
中国全土から大きな挫折感と無力さを肌に沁み込ませ全国に散って行く、その中には満蒙の大地から本土の土を踏む者も多く居た。
絶望と焦燥感が彼等を襲う・・・
だが、有ったとすれば襲われる事の無い祖国に戻って来た・・と云う安堵感だけであろう。

昭和22年秋・・・
少しずつではあるが復興の兆しが見え始める頃・・・・
何時もの様に舞鶴港では多くの涙と歓声が響いていた。
だが帰る故郷には、食べる物も無く無頼の輩が街を闊歩して歩いている。
一艘の引き揚げ船が入って来た。
そして・・・見覚えのある宇佐美、浅田達が埠頭に降り立った。
皆、其々が全く面識の無い顔をして何処と無く消えて行く。
その夜更け・・・夜陰に紛れ小さな漁船が港に停泊した。
夜目にも鮮やかな白いマフラーをなびかせ 身軽に船を降りたその男は、小さな子供を連れて伊吹山中の奥深く入って行ったのである。
それから2年の年月が流れた。

「この山には天狗様が居てよ、それが村の衆を守ってくれてるんじゃ」「大天狗と小天狗とが居るんだとか」 麓の村の評判である。
山間部の僻地の事だ、まだまだ迷信を信じる人もたくさん居た時代だ。
時々街から、この村では見る事の出来ない外車がやって来て祠に供え物をしてゆく。
それを夜中に天狗様が取りに来ると云う。
毎日の様に山が鳴る、轟音を立てて木霊が響く・・・
村人達は恐れて近付かない。
「又、山の天狗様が吼えておいでじゃ」と・・・・
ある日の事、村に強盗の一味が押し入った事がある。
何処から現れたのか解らないが、天狗様が出て来て一瞬のうちに3人の強盗を打ちのめしたのだ。
そして、何事も無かった様に山の中に消えて行ったのである。
見た事も無い服を着て、髭は伸ばし放題、彫の深い顔立ち、180cmの体躯、村人は彼等の守り神と信じたのも無理の無い話だろう。
祠の供え物が多くなった、村人の心ばかりのお礼だった。

駐在の巡査が山に入って来た。
強盗の一味を退治した男の姿を一目見たいと・・・
巡査 潮見は端から村人の天狗説を信じてはいなかった。
「絶対人間だ、それもかなり腕の立つ・・・」 其処で見たものは、少年を相手に激しく剣術を教えている姿だった。
防具も何も無し、鬼気迫る指導をしてる姿だった。
「この山奥でどうして?何故村に住みなさらんか?」 「村では充分に鍛える事が出来んからなー」 高らかに笑った。
「ところで先日の強盗の件、失礼しました」「そこでお願いだがあの手柄、本官の手柄にして置いてくれませんか?」 井出は微笑んで「どうぞ、ご勝手に」と・・・
小屋に案内されて潮見は驚いた。
当時、警察官でも持つ事が許されない拳銃の数々・・・そしてマシンガン、奥には同田貫が無造作に置いてある。
当然銃刀法違反である。
しかし一介の駐在所巡査塩見には逮捕する能力は無かった、町から応援をと思ったが・・と 同時に自分の助け手となるな、との思惑も働いたのである。
名も名乗らない、「この男・・・何か臭うな・・・」早速 駐在所に戻り過去の事件を調べてみる事にした。
だが日本国内での事件を調べても何も出てこない。
「これは大陸での事件の可能性も有りか?」 服装から考えても『コサックの帽子、ルパシカ、そして毛皮のブーツ』彼の推理は当たらずとも遠からずであった。
「あの子供は一体何者なんだ?まさか親子では・・・?」 潮見の疑問は膨らんだ。
「終戦前のドサクサに何が有ったんだ?」 調べてみたところで何の得が有るのか・・・潮見は今回の事件で手柄を譲って貰った事に気付き 負い目も感じたのだ。
「触らぬ神に祟り無しか・・・」 小さく頷いて調べ書き帳を閉じた。
並々ならぬ彼の男の実力を考えると 下手に穿れば我が身が危ない・・・と、考えたのだった。
しかし好奇心は彼の心を揺さ振った。
何と無くでは有るが、彼の行動を監視する訳でも無く、見守る様になってしまった事は事実だ。
時々、銃の練習をしてる、轟音が山に木霊する。
ましらの様に子供が逃げる、男はそれを弓矢で打つ、木から木へと飛び移って逃げ回る。
容赦なく矢は放たれる。

「この男には愛は有るのか?」塩見は疑った。
「あのう・・もし、子供は学校にやらなくても大丈夫で?」 「いや、なまじ学校にやるより俺が教えた方が早い」そう笑って答えるのだった。
未だ日本国内 何の教育の整備もされていない状態の頃の事である。
成る程、学校より知識の有る人間なら自分で教えた方が早い・・・そんな混沌とした社会情勢の中・・・

ブーの日常♪

2016年03月03日
「やーい」「おいらを見つずけして落ちてらー」
窓の下には大きなどら猫がだいの字になって落ちてる。
親父とは大の仲良し・・・いつもおいらは窓の外を見てる。
だが親父は決して外に出してくれない。
「他の猫と混じると良くない」
それが少々不満ではあるが、ま・・・大事にしてくれるから、
ま、いいか。
でも外にはいろんなものが沢山ある。
よくいろんな猫が来る。
特別美人ではないがいろんな猫がおいらを訪ねてくる。
でもおいらには器量よしの彼氏がいる。
ちょっと気取り屋ではあるがまー良き男だ。
[何分よく持てる]♪ 
ひとつには親父が窓の外にめざしを投げてやる♪
きっと寂しいんだろう?おいらがいるくせに・・・
おいらにはよく解らん。
何しろおいらの世界には解らん事だらけだ。

おいらは箱入り娘だ。
彼はよく泣く猫だ。
時々うるさく泣く。
おいらは決して泣かない。
泣くのがうるさいからだ。
ある時おいらの見てる前で親父が蹴っ飛ばした。
おいらはどちらの味方してもよいか解らん。
だから黙ってみてる事にした。
時々おいらは風呂にはいる。これは彼氏が飛び込んで見せたからだがおいらも夢中になって真似したんだが・・・
最初は何の気なしに飛び込んだけれどとっても気持ちがいい・・・第一不潔なのは嫌いだ。
だからちょいちょい飛び込んでみる。
親父が怒る。
バスタオルを持って追いかけられる
しかしこの瞬間が溜らん。
だが最近は無い・・・寒くなってきたから炬燵の方がいい・・・

親父の奥さんがレオを撫でてやっていた。
おいらも撫でて欲しくなった。
だが親父の手前ちょっと悔しいが我慢した。
こんな時にはどうすればいいのか?
たの猫ならどうしたのか?
毎日窓の外を見てる。

時々沢山の雀がやって来る。
美味そうな雀だ。よく肥ってる。
おいらは舌なめずりして見てる。
「早く外に出たいのに」
相変わらず今日も外を睨んでる。
野犬がちょっと近着いてきた。
おいらは身体を大きくして「フウー」と言ったが窓の中ではどうにもならない。雀は見事に四方八方飛び立っていった。
おいらはほっとして見送ったのである。
おいらが味見するまで決して捕まるなよ・・・と小さく頷いた。

その頃あずみは岐阜県の家でのんびりとオリビアと亮二の話をしていた。
オリビアは出会った頃の亮二の話をしてる。
彼はとんでもない無法を犯してもケロッとしてオリビアの前に現れた。
元は外人部隊の戦闘員だがオリビアの前では唯のバイク乗り・・・
オリビアはそんな亮二が大好きだった。
あずみは知られざる亮二の過去を知りますます父親が好きになった。
「いいなー、あずみは亮二と一緒に行動してる」わたしは家で待ってるだけか・・・

そんなあずみにチャンスが訪れた。
北深いこの地にある事件の容疑者が逃れてきた。
偶然の事ではあるがこの山村に逃げてきた訳だが 勤務先では大変な事である。
地理的に勝手に知ったる山に逃げ込んだある容疑者はあずみのパトカーの前に立ちはだかった。
相手は女性と知った犯人は銃を突き付けてパトカーに乗り込んできた。
あずみの彼がやってきた。所轄の聞き込みを終えて帰ってきたのだ。
何でもこの地方に置き引きの犯人がいる。
あずみは「ここにいるよ」と叫びたかったがミニパトの音には気が付いてない。
なんて「ドンくさい彼か?」彼が疎ましく思った。