テッツィアーノはドメニコスのデッサンを見て、癖の強いところが気になった。
が タブローの色彩に驚いたのである。
「自分の持っていない才能がある、特に青の見事さには斬新な響きを感じる」と・・・
当時テッツィアーノはその時代でも代表的な画家であった。
そこで彼は弟子として採用されたのである。
デッサンの癖も徹底的に直された。
何とか採用された事により食べる事には心配は無くなったが遊び回る程の収入ではない。
そこで又女性の肖像を描く事にしたのだが相変わらずヴェネチア時代と同様に詐欺師まがいの生活から抜け出そうと云う考えには至らなかったのである。
元々才能はあった。
しかし女性を口説く才能の方が勝っていたのである。
テッツィアーノはそんな彼の行動を苦々しく思っていたが特別注意する事もなかった。
彼の才能を惜しむと同時に女性も口説けない男はイタリーでは変人扱いされたのである。
こうしてドメニコスはテッツィアーノの片腕としての技術を身に付けてゆくのであるが彼のデッサンの悪い癖はなかなか直らなかった。
その訳は彼の心の中の美意識がローマ人のそれと全く違っていたからである。
縦に流れる線は あくまで伸びやかに顔の輪郭はギリシャ人の顔が最高に美しいと信じていたからに他ならない。
しかし師匠に認めて貰うにはローマ独特の美意識を持ち制作しなければならない。
そこで自分が独立するまでは、と彼の『美に対する考え』を封印したのである。
独立すれば王侯貴族からの注文も沢山来る、贅沢な暮らしも出来る。
そうしたスポンサーが付けばもうこっちの物だ。
彼の頭の中ではもう師匠の技術を追い越した と思っていたのである。
テッツィアーノの様に多くの女性に囲まれて暮らすのも夢ではない。
そうしてドメニコスは独立した。
だが彼の周りにはあまりお金持ちのスポンサーとなりそうな人物は現れなかった。
その訳は相変わらずのずぼらな性格が知れ渡っていたからである。
注文してもなかなか描かない。
金の要求ばかりする。
腕は認めても人間としての信頼性に欠けていたからに他ならない。
相変わらず街の女に声を掛ける生活を送っていた。
テッツィアーノはそんな弟子を哀れに思い貴族達にドメニコスを紹介したのである。
師匠の紹介となれば真面目に描かねばならない。
彼は懸命に描いた。
評判は上々、彼の名は徐々に知られていった。
そして貴族社会への進出も果たしたのであった。
と 同時に貴族の侍女からも「自分を描いて欲しい」との注文も来る様になったのである。
ベッドの上で自分は師匠より巧い等と とうとうと言ってのける始末。
あきれた男であった。
何度か貴族たちの注文を受けるうちにドメニコスの我侭が眼を覚ました。
自分の考えているフォルムで作品を仕上げたのである。
事もあろうに肖像画をギリシャ人独特の面長の顔、手足を必要以上に長く描いたのだ。
これは注文主を怒らせた。
そうだろう、肖像画はその人に似せて描くのが普通である。
それが評判になり次第に注文は無くなっていった。
だがドメニコスは譲らなかった「これが貴方の本当の顔だ、真の姿なんだ」と・・・
仕事の途絶えた彼は焦った。
そして又街角で女を物色するのであった。
が しかし一度貴族社会の仕事をし贅沢な暮らしを知った今、街の女たちを描いても生活は良くはならない。
事もあろうにある貴族の奥さんを篭絡したのである。
その貴族はテッツィアーノに「奴を殺す」と宣言したのだった。
もう庇い切れなくなったテッツィアーノは彼を破門してローマから追放したのであった。
行き場を失った彼はスペインを目指したのである。
「ここなら俺を知る者はいないだろう」彼は自分のイメージを一新してマドリッドに乗り込んだ。
ローマの貴族である画家として・・・
腰には剣を携え派手なマント、羽飾りの付いた帽子をかぶり立ち居振る舞いも高貴なしぐさをして街を闊歩したのであった。
元々美形である。
その姿は人々の目を引いた。
たちまち女達を虜にしたのであるが この国ではローマの様にはなかなか行かない。
一声掛ければすぐ付いて来る様な女はなかなか居ない。
一応のプロセスを踏んで口説かなければならなかったのである。
しかしそこはマメな男だ。
そして小道具のナイトのいでたちも物を云った。
だが女性をその気にさせ最後まで持って行くのが大変である。
簡単に付いて来るのはジプシーの女達くらいであった。
彼はフラメンコダンサーに眼をつけた。
そして そのヒモになり好きな絵を描いたのだった。
そのうちある貴族から声が掛かったのである。
だが結果は無残なものであったのだ。
しかしある教会の司教の目の留まったのである。
「面白い絵を描く、一度壁画を描かせてみよう」運命とは解らぬものである。
スペインは偉大な芸術家の多いところである。
画料の安さも手伝って教会のお抱え画家の道が開けたのであった。
次第に司教の肖像、大聖堂の壁画まで依頼されるまでになったのである。
スペインはマリア信仰の強い国である。
彼は顔の表情を使い分けて描く事が苦手であった。
そこで 事の終わった後の満ち足りた顔、鞭で叩いて泣き叫ぶ顔、時には手足を縛り苦しむ顔など懸命にスケッチしたのであった。
その後は優しく愛撫して女を満足させるのである。
教会側ではそうした行為をしている事など知る由もなかったが【真に迫った表情】は人々の話題を呼んだ。
颯爽と歩く姿も魅力的である。
「さぞ剣の腕も見事だろう」
噂は噂を呼びマドリッドの名物男になってしまった。
すると又女たちが寄ってくる。
ドメニコスは有頂天であった。
「もう俺には怖い物は何もない」あきれた大馬鹿者である。
が タブローの色彩に驚いたのである。
「自分の持っていない才能がある、特に青の見事さには斬新な響きを感じる」と・・・
当時テッツィアーノはその時代でも代表的な画家であった。
そこで彼は弟子として採用されたのである。
デッサンの癖も徹底的に直された。
何とか採用された事により食べる事には心配は無くなったが遊び回る程の収入ではない。
そこで又女性の肖像を描く事にしたのだが相変わらずヴェネチア時代と同様に詐欺師まがいの生活から抜け出そうと云う考えには至らなかったのである。
元々才能はあった。
しかし女性を口説く才能の方が勝っていたのである。
テッツィアーノはそんな彼の行動を苦々しく思っていたが特別注意する事もなかった。
彼の才能を惜しむと同時に女性も口説けない男はイタリーでは変人扱いされたのである。
こうしてドメニコスはテッツィアーノの片腕としての技術を身に付けてゆくのであるが彼のデッサンの悪い癖はなかなか直らなかった。
その訳は彼の心の中の美意識がローマ人のそれと全く違っていたからである。
縦に流れる線は あくまで伸びやかに顔の輪郭はギリシャ人の顔が最高に美しいと信じていたからに他ならない。
しかし師匠に認めて貰うにはローマ独特の美意識を持ち制作しなければならない。
そこで自分が独立するまでは、と彼の『美に対する考え』を封印したのである。
独立すれば王侯貴族からの注文も沢山来る、贅沢な暮らしも出来る。
そうしたスポンサーが付けばもうこっちの物だ。
彼の頭の中ではもう師匠の技術を追い越した と思っていたのである。
テッツィアーノの様に多くの女性に囲まれて暮らすのも夢ではない。
そうしてドメニコスは独立した。
だが彼の周りにはあまりお金持ちのスポンサーとなりそうな人物は現れなかった。
その訳は相変わらずのずぼらな性格が知れ渡っていたからである。
注文してもなかなか描かない。
金の要求ばかりする。
腕は認めても人間としての信頼性に欠けていたからに他ならない。
相変わらず街の女に声を掛ける生活を送っていた。
テッツィアーノはそんな弟子を哀れに思い貴族達にドメニコスを紹介したのである。
師匠の紹介となれば真面目に描かねばならない。
彼は懸命に描いた。
評判は上々、彼の名は徐々に知られていった。
そして貴族社会への進出も果たしたのであった。
と 同時に貴族の侍女からも「自分を描いて欲しい」との注文も来る様になったのである。
ベッドの上で自分は師匠より巧い等と とうとうと言ってのける始末。
あきれた男であった。
何度か貴族たちの注文を受けるうちにドメニコスの我侭が眼を覚ました。
自分の考えているフォルムで作品を仕上げたのである。
事もあろうに肖像画をギリシャ人独特の面長の顔、手足を必要以上に長く描いたのだ。
これは注文主を怒らせた。
そうだろう、肖像画はその人に似せて描くのが普通である。
それが評判になり次第に注文は無くなっていった。
だがドメニコスは譲らなかった「これが貴方の本当の顔だ、真の姿なんだ」と・・・
仕事の途絶えた彼は焦った。
そして又街角で女を物色するのであった。
が しかし一度貴族社会の仕事をし贅沢な暮らしを知った今、街の女たちを描いても生活は良くはならない。
事もあろうにある貴族の奥さんを篭絡したのである。
その貴族はテッツィアーノに「奴を殺す」と宣言したのだった。
もう庇い切れなくなったテッツィアーノは彼を破門してローマから追放したのであった。
行き場を失った彼はスペインを目指したのである。
「ここなら俺を知る者はいないだろう」彼は自分のイメージを一新してマドリッドに乗り込んだ。
ローマの貴族である画家として・・・
腰には剣を携え派手なマント、羽飾りの付いた帽子をかぶり立ち居振る舞いも高貴なしぐさをして街を闊歩したのであった。
元々美形である。
その姿は人々の目を引いた。
たちまち女達を虜にしたのであるが この国ではローマの様にはなかなか行かない。
一声掛ければすぐ付いて来る様な女はなかなか居ない。
一応のプロセスを踏んで口説かなければならなかったのである。
しかしそこはマメな男だ。
そして小道具のナイトのいでたちも物を云った。
だが女性をその気にさせ最後まで持って行くのが大変である。
簡単に付いて来るのはジプシーの女達くらいであった。
彼はフラメンコダンサーに眼をつけた。
そして そのヒモになり好きな絵を描いたのだった。
そのうちある貴族から声が掛かったのである。
だが結果は無残なものであったのだ。
しかしある教会の司教の目の留まったのである。
「面白い絵を描く、一度壁画を描かせてみよう」運命とは解らぬものである。
スペインは偉大な芸術家の多いところである。
画料の安さも手伝って教会のお抱え画家の道が開けたのであった。
次第に司教の肖像、大聖堂の壁画まで依頼されるまでになったのである。
スペインはマリア信仰の強い国である。
彼は顔の表情を使い分けて描く事が苦手であった。
そこで 事の終わった後の満ち足りた顔、鞭で叩いて泣き叫ぶ顔、時には手足を縛り苦しむ顔など懸命にスケッチしたのであった。
その後は優しく愛撫して女を満足させるのである。
教会側ではそうした行為をしている事など知る由もなかったが【真に迫った表情】は人々の話題を呼んだ。
颯爽と歩く姿も魅力的である。
「さぞ剣の腕も見事だろう」
噂は噂を呼びマドリッドの名物男になってしまった。
すると又女たちが寄ってくる。
ドメニコスは有頂天であった。
「もう俺には怖い物は何もない」あきれた大馬鹿者である。
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