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『三太郎物語』

2015年03月23日
『三太郎物語』

№ 1
その日三太郎は学校に行くのが嫌だった。
いや 正確には恐かったのだ。
それは前日に悪童連中に嘘をついたからである・・・・
クラスの悪童達は クラスメートの女の子の話をしていた。
「あの子が可愛いぞ」「いやあの子の方が良い」「でもあいつは馬鹿だぞ」「馬鹿でも美人がいい」「でも話をしてて面白くないぞ」云々・・・・
他愛も無い話であったが そのうち誰が好きか という話に変わっていった。

三太郎は何時も蚊帳の外で後ろの物語方で聞いているだけであったが その日は違っていた。
めいめい好きな相手を言い合った。
そして誰と誰が交際してるかとの話に及んだ。
突然の事であった「ところで三助(皆は三助とか三公とか呼んでいた)は誰が好きなんだ、勿論付き合っているんだろうなー」
彼にはそんな相手など居ようはずがなかった。

何時も眩しそうに遠くから眺めている女の子は居たが・・・・
美人で頭の良い清美ちゃんだったが 彼女はそれに気付いてはいない。
併し彼はつい言ってしまった。
「俺だって居るさ」「誰だそんな物好きは」「清美ちゃんだよぅ」皆大笑いした。
そして「その証拠をみせろ、ラブレターでも貰ったんか?」と・・・・
「見せてみろよ ラブレターを」
時の勢いである、三太郎は「明日見せてやるよ」と言ってしまったのである。

それは日頃馬鹿にされ続けてパシリをされていた彼等への反抗心から出てしまった言葉ではあるが その時には後の事など頭に無かったのだった。


№ 2
ここで三太郎がクラスでどう思われていたのか書いて置こう。
身長は低く 決して男ぶりはどうひいき目に見ても良いとは云えない。
勉強は下の下、頭も良くない。
普通なら苛めの対象になりかねない存在なのだが 不思議なひょうきんさを持ち合わせていた。
そして誰にも従う。
だから 教室の便利屋の様な存在で 苛めの対象にはならなかったのである。
幾ら馬鹿にされてもヘラヘラ笑ってる。
女生徒達にも馬鹿にされ・・・・でも憎まれない得な男であった。

しかし今度はそうは行かない。
きっと苛められるだろう、いや絶対に殴られるに違いない。
学校に行くのを止そうか・・・・でも家まで迎えに来られたらどうしよう・・・・
三太郎は学校が好きであった。
家では父親がすぐ怒る、愚図の三太郎には学校は一種の逃げ場所でもあったのだ。

小さな町工場を経営してた父親は三太郎の性格が歯がゆかった。
何とか跡継ぎとして逞しく育って欲しい と願っていたのだ。
だが彼は叱られるとすぐメソメソと泣く。
このまま消えてしまいたいとも思った。
が、考えてみると何処にも逃げ場はない。
彼は意を決して学校に向かった。


№ 3
校門の前で優等生の宮本が待っていた、そしてそっと彼に手紙を渡した。
「これを持って行け」と・・・・

教室に入った途端悪ガキ共に囲まれた。
彼は宮本から受け取った手紙を大事そうに鞄から取り出し 彼らに渡した。
その手紙には「三ちゃん好きよ、清美」と唯それだけが書かれてあったのだ。
葵の印籠宜しく それは彼等の彼を見る目が変わったのは確かである。
宮本の代筆に他ならないが 全ての悪ガキを黙らせるには充分であった。
宮本は日頃からお人好しの馬鹿の三太郎に,つい仏心を出したのであるが・・・・
三太郎は舞い上がってしまったのである。

「清美ちゃんは俺を好いてくれている」
とんだ勘違いを犯したものだ。
それからの三太郎は金魚の糞の如く清美の後を付いて歩く 訳の判らない清美はそれが気持ち悪くて堪らない。

親友の綾子に相談した。
綾子は男勝りの気性で悪ガキ達にも一目置かれている。
彼女は三太郎を校舎の隅に呼び出し一括した。
彼は偽のラブレターを取り出し 綾子に殴られた頬をさすりながら「清美ちゃんは俺に手紙をくれたんだ」

頭の回転の速い綾子はすぐ宮本の悪戯と感じた。
烈火の如く怒った綾子はすぐ宮本を問い詰めた。
事の顛末を知った綾子はひとつのアイデアを思いついた。
帰宅部(何処も部活をしていない)の三太郎を自分の属してる新聞部に入れて鍛えてあげようと、そこには清美も居る。

嘘から誠・・・もしかしたら三太郎は清美と仲良くなれるかも・・・・・
底抜けの大馬鹿者と校内きっての美女・・・・
案外いけるカップルになるかも・・・
茶目っ気が湧いてきた。
これは綾子のちょっとした病気でもあるが・・・・

№ 4
まだ偽ラブレターとは知らない三太郎は 清美と会える事で有頂天になった。
清美はどうも三太郎が疎ましくて堪らない。
綾子の提案で渋々入部を認めたのだが・・・・
使い走りには丁度良いか と・・・・の思いも働いて。

三太郎は嬉々として働いた。
しかし必要以上の口をきいてくれない清美に、彼は「この人は口数の少ない人だなー」と単純に考えていたのである。
清美と三太郎の仲はたちまち皆の知るところとなったのだが清美は面白くない。

一方三太郎は・・・・言うに及ばずである。
学校が楽しくて堪らなかった。
しかし偽ラブレターの件はふとした清美の愚痴で知られてしまったのである。
三太郎は悪ガキ達に呼び出された。
「よくも俺達を騙してくれたな!ヤキを入れてやるから覚悟しろ!」
殴られ蹴られボロボロにされた三太郎はそれでもまだ気が付かなかった。
ラブレターは清美が書いてくれたと信じて疑わなかったのだ。

鼻血を出し顔中にアザを作りながら新聞部の部室に入って行った。
清美は「気持ち悪い」と逃げ出してしまったが、綾子は医務室に連れて行き怪我の手当てをしたのである。

「馬鹿だねー殴られる前に此処に逃げて来ればいいのに」「私が助けてあげるのに」
しかし彼にも弱いながらも意地があった。
綾子にだけは助けて欲しくなかったのだ。
何でも綾子の後ろには恐いお兄さんが付いてると云う話を聞いていたから・・・・
だが実際は只綾子の家の職業が運送業である為 厳つい男達が多かっただけの事であったが・・・・
それからの三太郎は彼等の格好の苛めの対象となってしまった。


№ 5
それからの三太郎は事有るごとに 連日の様に彼等悪ガキ連中に殴られ蹴られした。
次第にひょうきんな笑顔も消え教室でもメソメソとする日が多くなった。
そんな姿を見兼ねて綾子は心を痛めた。
宮本が綾子に言った「綾の通う空手道場に連れて行ったらどうだ?」
しかし綾子は何をやってもドジで運動オンチの三太郎には無理だろうと思った。
かと云って何時も守ってやれる訳でなし・・・・
ここは宮本の言うように道場に連れて行くしか方法は無いか、と心に決めたのである。
思った通り三太郎は準備運動の段階から根をあげた。
師範の竹刀の音を聞いただけでおどおどしてベソをかく始末・・・・・

「これは駄目だ・・・」師範が呟いた。
仕方なく道場の掃除をさせる事にした。
三太郎は喜んだ、これなら叱られる心配はない。
意外にも彼は几帳面な性格で隅から隅まで綺麗に拭きあげて行く。
師範は「こんなところから慣れさせるか」と彼の入門を許した。

彼の父親は非常に喜んだ。
「やっと少し男らしくなってきたか」と・・・・・
毎日道衣を担いで家を出てゆく姿に逞しくなった姿を想像して・・・・
だが三太郎は明けても暮れても掃除、洗濯に追われていた。
型を少し習ったが腰がふらついて一向に上達しない。
師範は仕方なく綾子に指導を任せる事にしたのだ。
今度は綾子が自分の練習時間が取られる事に腹を立てた。
しかし顔には出さず根気よく指導を重ねた。
周囲の努力も空しく彼は一向に上達しない。

学校では相変わらず苛めは続いた。
だが三太郎は「空手に先手なし」と 馬鹿の一つ覚えで殴られ続けた。
しかし以前の様に泣くことは少なくなった。
それは空手の効果かもしれない。


№ 6
何時も苛められながら彼は考えた。
「どうして僕だけが殴られるんだろう?」
まだ最初の原因がラブレター事件だとは気付いていない彼には理解できなかったのである。
彼は綾子の強さが欲しかった。
しかしまるで運動オンチの三太郎には無理な事である。
又 宮本の様な秀才にも憧れた。

相変わらず清美には冷たくあしらわれていた。
だが三太郎にとって彼女はビーナスなのだ。
唯一緒にいるだけで楽しかった。
近くで働いているだけで自分が特別の存在に感じていたのだ。

体育祭が近ずいてきた。
クラス全員が何かの種目に出場しなければならない。
三太郎は一番簡単だと思った100メートル走に出る事にした。
これだと一番出場する時間が少ない。
後はフィナーレ直前の騎馬戦だ。
これは皆の後ろを付いて走ってれば目立たない。

いよいよその日がやって来た。
100メートル走には宮本も出る。
彼は文武両道 スポーツも得意であった。

競技が始まった。
三太郎は必死に走る 走る走る・・・・ビリで走った。
皆ははるか彼方に遠ざかって行く。
ハプニングは半分ほど走った辺りで起こった。
集団の数人がぶつかり合って倒れたのである。
皆起き上がって走り出したが一人足を捻挫したらしく起き上がらない。

三太郎はそれを追い越して振り向いた。
まだ痛そうに足を押さえてうずくまっている。
三太郎は走るのを止めてその生徒に掛け戻った。
そして抱え上げ必死にゴールを目指した。
トップでゴールした宮本も掛けて来た。
そして三人揃ってゴールしたのだった。
見物してた人々から拍手が巻き起こった。
ビリではあるが感動の黄金のゴールであった。

   第一章完

№ 7
ここでこの物語に登場する人物の簡単なプロフィールを述べて置こう。

三太郎のマドンナ(ビーナス)清美はある大企業の社長令嬢、成績優秀ではあるが自分より劣る者に対して馬鹿にする傾向がある。
少しばかり宮本に好意を持っている。

宮本は文武両道に優れ眉目秀麗の好漢、父親はこの町の議員で人望も厚い。
ハードボイルドを決め込んでいるが何処か困った者をほって置けない熱い血を持った男である。

綾子は行動派の美少女、世話焼きで三太郎の良き理解者だ。
愛とか恋とかでは無く三太郎の事が気になって仕方が無い。

最終学年の遠足の日となった。
平家の落人部落を訪ねる旅だった。
ローカル線の無人駅を降りてそれから徒歩で山道を行くのである。
紅葉が美しく細い山道も苦にならない。
途中 小鳥の鳴き声や野ウサギも見られた。
日頃見る事の出来ない風景と清水で顔を洗ったり、皆多いに楽しんだ。

小さなつり橋を渡る事になった。
それはブラブラと揺れて足元を脅かした。
皆は恐がって渡るのを躊躇してたが宮本が「俺が先に渡るから皆見てろ」とすいすいと渡り終えた。
綾子が続いた。
そして次々と生徒達が渡り始めたのだった。
三太郎は眼下の清流の間から頭を覗かせている岩を見て眼が廻った。
もし落ちたら・・・・と恐怖心が躊躇させたのだ。
そろりそろりと前に進んだ。

急にグラリと橋が大きく揺れた。
必死に手すりのロープにしがみついたのだが・・・・・
前を渡っていた生徒が足を滑らせて落ちかけたのだ。
三太郎は彼の手を掴んだが共に絡み合ってつり橋から水の中へ落ちて行った。
後ろを渡っていた悪ガキ連中が悪戯でわざと揺らしたのだ。

「大丈夫かっ!」
三太郎は涙と全身水にぬれた身体で「どんまいどんまい」と大声で叫んだ。
しかし膝のあたりを岩に打ちつけ打撲と裂傷で清流に赤いものが流れていった。


№ 8
宮本は渡り終えた悪ガキ達を怒りのあまり殴り倒した。
先生が止めるのも聞かずに・・・・・

一方三太郎はベッドでヘラヘラ笑って一緒に落ちた仲間の怪我が無かった事を喜んだ。
綾子はそんな三太郎をいとおしく思った。
そして清美に「あんな優しい子をどうして嫌うの?」と責めた。
清美は「私は宮本さんが好きなんよ、あんな不細工な馬鹿はお呼びじゃないの」

途端に綾子の平手打ちが飛んだ。
「あんたに宮ちゃんを好きになる資格はないわ!」「宮ちゃんもそんなあんたを好きにはならないよ」と・・・・

三太郎には妹がひとり居た。
反面教師と云うのでもないが活発で勉強家だった。
そして兄思いの優しい性格ではあるが よく三太郎にプロレスの技を掛けギブアップさせて「弱虫、私に位勝ちなさいよ」と叱咤してた。
そして兄の友である宮本に対しても「おい、宮本」と呼び捨てにする。
綾子に対しても「綾ぴん」と自分の友の様に呼ぶ。
密かに綾子に憧れている節がある。
「私も道場に通おうかな」等と言う始末。

三太郎はそれが恐かった。
もし妹が通えば自分が道場で何をしてるかバレるのが嫌だったのだ。
そのまさかが起きてしまった。
突然妹が入門してきたのである。
妹洋子は眼で兄の姿を探した。
道場の隅で一生懸命拭き掃除をしてる姿を見て感激したのである。
人の嫌がる事を黙々とやってる兄の姿を見て嬉しくなった。

「お兄ちゃん すごい」副師範が「偉いだろう、空手は組み手や型だけじゃないぞ」「人の嫌がる事を率先してやる、忍耐力が大事なんだ」と・・・・・
三太郎は嬉しかった。
強くはないが空手の心、根性は学び実践していたのだ。
それを師範達はちゃんと見て居てくれてた事が。


№ 9
冬休み前 新聞部ではその年の特集を出す事になった。
学校からの予算では足りない。
皆で広告収入を集めようと云う事になった。
三太郎は近所の商店を一軒一軒廻って歩いた。
だが簡単には集まらない。
彼は果物屋で手伝いをする事にした。
手伝いをして広告を入れて貰おうと思ったのだった。

しかし積み上げてある箱につまずいたり、ひっくり返ったり失敗ばかりして大して役に立たなかった。
しかし店に出るとくしゃくしゃの笑顔で「おばちゃんこれ美味しいよ」と愛想が良い。
それが受けて結構評判もいい。

さっぱり部活に顔を出さなくなった三太郎を心配した綾子は放課後すぐに帰る彼を付けて見る事にした。
そんな事を知らない三太郎は店に入って行く。
暫くすると大きな声で叱られている気配だ。
綾子は慌てて店に飛び込んだ。
すると【りんご箱】をひっくり返してうつむいている。
「キズだらけにして売り物にならないじゃないか!」咄嗟に綾子は「おばさんこれ売ってください」と言ってしまった。

「おや 綾ちゃんの友達かい、この子が手伝ってくれるのはいいんだけど売り物を駄目にする事が多いんだよ」「いい子なんだけどドン臭いねー」
そこで綾と彼、おばさんといろいろ話をした。
「いいよいいよ広告は出してやる事にしてるんだから、只この子が何処まで頑張るか見たかったんだから」と笑って言った。

「でも店に出ると売り上げは上がるんだよ、変な愛嬌があるからねー」
そして「綾ちゃんも大変だねーこの子の面倒見るのは骨が折れるだろう」と・・・・
綾子は笑って「優しい子なんですよ」と答えた。
キズついたりんごは「皆で食べな」と貰ったのである。
「三ちゃん明日も来てくれるね」おばさんはそう言って送り出してくれたのだ。


№ 10
二学期最後の新聞は大変評判が良かった。
皆の集めた広告代も多くページ数も増やした豪華な新聞になった。
最初の校長の言葉として『思いやりの心』として名前こそ出さなかったが三太郎の行為が書かれていた。

体育祭の記録では宮本の棒高跳び4メートル、綾子の走り高跳び1,8メートルの文字が躍っていた。
悪ガキ達の事は何も書かれていなかった。
彼等は甚だ面白くない。
何か仕返しを考えている様子である。

冬休みのある日 三太郎の家に皆遊びに来た。
銘々の進路について話をした。
宮本は高校、大学を出たら父の跡を継いで政治家を目指すと云う。
綾子は家の跡継ぎ、女社長になるから商業高校に行くと言った。
それについて宮本は「高校は普通高校に行き大学で経営学を学んだ方がいいぞ」と言った。

清美は女子高に行き花嫁修業をするのだと。
女子高はところてん式に大学まで行ける。
三太郎はまだ何も考えていなかった。
妹の洋子が「お兄ちゃんは学校はどうでもいいよ、お父ちゃんに鍛えて貰って旋盤を覚えトラックを運転してれば」と・・・・・
三太郎も高校は行きたかった。
でも何処も受け入れてくれる成績ではない。
情けなかった。

正月のある日 悪ガキ達に呼び出された。
「小使い沢山貰ったんだろう、少し俺達に回せ!」と・・・・
不審に思った洋子はすぐ綾子に連絡を取り呼び出された神社の裏に走った。
押し問答をしてる姿を見つけ「コラッ!お兄ちゃんに何をするんだ」
遅れてやってきた宮本、綾子の姿を見て彼等はスタコラと逃げ去ってしまった。
三太郎は無事であった。


№ 11
洋子は腹を立てていた。
幾ら綾子に突き、蹴りを入れようとしても軽くあしらわれ身体に触る事さえ出来ない。
思いっ切り飛びついて行ってもヒラリとかわされる。

無理も無い事である。
彼女は有段者、何時も男達に混じって組み手をやっている。
洋子がいくら頑張っても叶う相手ではない。
「三太郎!ちょっと来い」洋子は兄に八つ当たりをして「相手をしろ!」と言った。
師範は笑いながら「さあ どうなるかな」と皆に言い見物する事にした。

洋子は果敢に向かっていった。
だが三太郎はそれを巧く交わし自分は攻撃しない。
何時か洋子は息が切れてへたり込んでしまった。
「これが空手なんだよ」師範は洋子にそう言って笑った。
今まで兄をちょっと馬鹿にしてた彼女は兄を見直したのであった。

いよいよ卒業の時が近ずいた。
宮本はT大進学率の高いA校に行く事が決まった。
綾子は地元の普通高校、三太郎は何処にも入る事の出来ない者ばかり集まる落ちこぼれの高校に進学する事になった。

清美はお嬢さん学校。
それぞれの進路は決まり別れ別れになるのであるが不思議とこの友情はその後も続いたのである。
三太郎の父は息子の友達に感謝してた。
「いい友達に恵まれて幸せな奴だ」と・・・・

学校は比較的校則も緩やかで自由な所だった。
毎日が楽しかった。
クラスメートも又のんびりした人間ばかりだ。
授業も何とか付いて行く事ができた。
部活は又(帰宅部)になってしまった、新聞部が無かったからである。
毎日家に帰ったらパソコンを習いピコピコやっている。
空手だけは一生懸命頑張った。

宮本も綾子も勉強が大変そうである。
しかし一ヶ月に一度位は三太郎の家に集まった。
いつか清美は来なくなったが・・・・
妹の洋子は道場ではもう組み手に加わっていた。
三太郎も時々組み手の中に入ったが何時も皆のおもちゃにされてしまう。
つくずく自分の運動神経の無さが情けなかった。


№ 12
ある日、良からぬ噂を耳にした。
清美が変な男と付き合っていると・・・・・
皆心配した が綾子が「直接聞いてみるよ」と言った。
そしてその男の事を聞きだした。
男はゲームセンターで知り合ったそうだが,最初は何処かの社長の息子だと言ってたが・・・
実はパチスロに出入りしている遊び人だった。
金も相当貸している様子である。
だが本人は「まだ好きだ」と言う・・・・・

皆 頭を悩ませた。
三太郎の父は「痛い思いをしないと判らないだろう」「もう少しほって置いたら目が覚めるだろう」と・・・・・
綾子は直接男と会って話をしようと思った。
綾子の会社の者達は「お嬢さん一人では危ない、俺達が話を着けてやる」と言ったが「これは私の友達の問題だよ」と聞かなかった。
しかし結果は思わぬ形でケリが付いたのである。
その男が恐喝の疑いで逮捕されたのだ。

清美は皆の前で泣いた。
三太郎も可哀想な清美の心を思い一緒に泣いていたのだった。
「本当の男は見栄えや口の巧さではない、お前は三太郎を馬鹿にしてるがあいつは本当の男だぞ」宮本は清美に吐き捨てる様にそう言った。

三太郎は宮本が自分の事をそんな風に思っていてくれた事にも嬉しかった。
何時も何処でもそう言ってくれた者は居なかったからである。

道場で昇段試験があった。
三太郎は見事に落ちたのだった。
しかし妹の茶帯を見た時嬉しくもあったが悔しさが込み上げてきた。
生まれて始めて味わう屈辱の気持ちである。

しょんぼりと道場を出る姿は痛々しくもあった。
綾子は「三ちゃん、餡蜜でも食べて帰ろう」と声をかけたが聞こえない振りをして黙って帰った。
うっすらと涙が光っていた。

ー第二章完ー


№ 13
三太郎のパソコンの腕はかなり上達した。
ある日ファイナンスをクリックしてみた。
毎日それを見てるとなかなか面白そうである。
只見てるだけであったが株価の上下が一刻一刻と変わるのが面白い。
そのうち自分でも出来るかな・・・・と思う様になった。
自分の小使いを父親の口座に入れ一株でも買える株を探した。

有った、今少し評判になりかけているモリエモンの株である。
少し父親への後ろめたさも有ったが一株だけ買ってみることにした。
あれよあれよと云う間に値上がりして行く。
僅かの小使いが数十倍にもなった。
これを誰かに言いたくなった、小躍りしながら父親に報告した。

父は「株なんてものは素人が手を出すものではない、すぐに止めろ」と言われてしまった。
残念ではあるが父親の言う通りすぐ売ってしまったのである。
僅かを残し・・・・未練がそうさせたのだ。
その後は見るだけにしたのだが一度儲けた為、誘惑は常に頭の中を駆け回っていた。
しかし彼は父親の言い付けを忠実に守った。
それは父親が三太郎の為を思って言ってくれてる事が判っていたからだ。

三年生も半ばを過ぎていた。
宮本も綾子も大学入試の追い込みであまり来なくなった。
三太郎は寂しかった。
でも綾子は道場で会えたからまだ話が出来たから色々な情報が解って助かった。
宮本は猛烈に勉強に打ち込んでいるらしい。
清美は以前よりよく来る様になった。
そして事務所で父親から簡単な事務を習っている様子である。

別に三太郎が好きになった訳ではない。
清美は自分の欠点に気が付いたのだ。
そして何故三太郎がそれだけ優しく、何時も笑顔でいられるのか知りたいと思ったのである。
彼の家族、暮らし振りを知れば何かが解る と思ったのだ。


№ 14
三太郎の父親はかなり厳しい。
すぐに手を上げる、だが妹の洋子は負けてはいない。
しかし叱った後には必ず「お前のここがいけないんだ」と諭すのだ。
そして母親も含めよく笑う。
兎に角明るい家族である。

清美は大きなカルチャーショックを受けた。
彼女の家庭は実に静かだ。
父も母も大きな声を出した事がない。
あまり話をした事もない。
裸でぶつかり合った事がないのである。
だからいい子であれば問題は起きないのだ。

今度の事も父母は知らない。
もしもこれが三太郎の家庭であったらもっと早く父親が身体を張ってでも阻止してくれただろう。
何でも言える素晴らしい家族を持ってる三太郎が羨ましくなった。
三太郎の父親が「清美ちゃん,三太郎の嫁さんになるか」と言った。

清美は自由な恋愛も出来ない。
全ては親の敷いたレールの上を走るだけの人生であろう。
勿論三太郎への気持ちは以前とは違ってきてはいたが結婚の対象には入っていなかった。
三太郎も又中学時代とは違って彼のビーナスでは無くなっていたのである。
それより綾子の方に心は移っていたのだ。
一方綾子は友情以外何ものも無かったのであるが・・・・・

三太郎は淋しかった。
皆ガールフレンドとデートしてるのに・・・もうすぐクリスマスだと云うのに・・・・・
「今年も一人っきりだなー・・・・・」と・・・・・

宮本の父親は今では代議士となっていた。
若手のホープとして将来を嘱望されている。
彼はひたすら勉学に励んでいた。
正月元旦、久しぶりに皆三太郎の家に集まった。

大学入試の事、将来の事など話は尽きなかった。
「お兄ちゃんは大学よりも彼女の事で頭が一杯なのよ」洋子が笑って言った。
宮本が「いい人出来たのか?」洋子が「いないいない いれば苦労しないけどね」
「お兄ちゃんは格好悪いから ま 一生無理だろうけど可哀想ね」

宮本は『こんないい奴いないけどな』と思った。
どうして外見や学歴で人を判断するのか、彼には不思議に思ったのだ。


№ 15
その日の夕方 近くの神社に出掛ける事にした。
別に初詣と云う訳でもないが・・・・・
境内に入る手前で三太郎は急に走り出した。
階段の手前で上がる事が出来ずに困っている老夫婦がいたのだ。
ご主人の方は車椅子に乗っている。

「ありがとう御座います」「あ いや、ご苦労様」
訳の解らない挨拶を交わし皆の元に戻った。
清美の心の中で何かが弾けた。
三太郎の本当の心の優しさが判ったのだ。
心が熱くなったのである。

卒業と同時にそれぞれの新しい旅立ちが始まる。
宮本は希望通りT大の政治経済学部に進んだ。
綾子も又N大文学部 清美はところてん式に私大へと・・・・
三太郎は進学を諦め家業の従業員として油にまみれ働く事になった。

しかし彼は晴れ晴れとしていた。
友達が皆希望通りの大学に入学出来た事が嬉しかったのだ。
東京へ旅立つ宮本の送別会をしようと綾子に持ちかけた。
ささやかな送別会ではあったが楽しい集いであった。
当分は皆と会えないのかなーと思ってた三太郎に綾子は言った。

「三ちゃんはそれでいいの?本当にやりたい事は無いの?」
「うん、やりたい事はあるけど難しいもんな」・・・・
宮本は「チャレンジしてみなきゃ分らんぞ」「何になりたいんだ?」と聞いた。
「実は看護士になりたいけど頭悪いからな」と三太郎・・・・
「おじさんに頼んでみたら?」綾子は彼の父親の了解を取れば後は何とかなると思ったのだ。
三太郎の父親は「跡継ぎは洋子が婿さんでも取ればいいが あいつに出来るかな」と・・・・


№ 16
宮本の父親の紹介で結構大きな病院だった。
どきどきしながら面接を受けた。
院長は優しい眼をして「当分はヘルパーの見習いをしながらここに慣れてゆく事にしよう」と採用してくれた。
彼は一生懸命働いた がヘマも続いて先輩に叱られもした。
しかし患者さんたちには評判が良かった。
皆より時間はかかるが丁寧でその笑顔が和ませたのである。

衆議院選挙が始まった。
モリエモンも与党の看板として立候補した。
株価はうなぎ上りに上がってた。
三太郎は少し恐くなってきた。
自分のお金が想像もしない大きなものになっている。
「これは普通の事ではないな」すぐ全部売り払ったのだ。

父は薄々それを知っていた。
「やっと恐さが解ったか」と・・・・
「おい 三太、もう少し大人になったら株もやってもいいぞ」「但しよく会社の事を調べてから買う事だな」
父も資産株をそこそこ買っていたのだ。
許しを受けた三太郎は企業調査の本を買って来てむさぼる様に読み漁った。
そして少しずつ買って楽しんだのである。

病院では時間を忘れて働いた。
時には同僚、先輩達から「手抜きをしろ」と苦情を言われたが彼の性格からそれが出来なかった。
時間外でも「三ちゃんに身体を拭いて欲しい」と言われれば快く引き受けた。
何時か「変な奴だ」と相手にされなくなったが彼には何処吹く風 知らない振りをして黙々と働く。

院長は「彼は看護士よりヘルパーの方が適職だろう」と考える様になった。
「これからはヘルパーの仕事が重要になる、三太郎 プロ中のプロのヘルパーを目指さないか」「うん、でも看護士は難しいの?」と院長に聞いた。

「これから老人の患者が増える、看護士より良いヘルパーが必要な時代がくるぞ」「その時には本当のプロの方がやりがいが有る」と・・・・・三太郎は又悩んだ。
綾子に相談してみる事にした。


№ 17
綾子は既に師範代になっていた。
久しぶりの道場である。
洋子も黒帯をキリリと締めて妹ながら眩しく輝いてみえた。
「お兄ちゃん、一丁揉んでやるから道衣に着替えなよ」笑って妹にからかわれながら綾子に会った。
そして院長の言葉を伝えたのである。
綾子は「三ちゃんはどうしたいの?」と聞いた。
「うーん、分らない・・・んだなー」
彼女は「自分で考えて答えを出しなさい、只先生の言う事も一理有るわね」と言った。

ナースの秀美が「三ちゃん一緒にお茶しようか」と声を掛けてきた。
生まれて始めての出来事である。
三太郎は舞い上がった。
病院近くの喫茶店・・・彼は何を喋っていいか解らないでカチンカチンになっていた。
「三ちゃんウブだねー もっとリラックスしなさいよ」彼女はそんな三太郎を可愛いと思った。

早速綾子に報告をした。
そしてデートの時どんな話をしたらいいのか指導してくれる様頼んだ。
「三ちゃんそんな事自分で考えなさい」綾子はケラケラ笑いながら答えた。
三太郎は益々悩んだのである。。

その間にモリエモンが逮捕された。
三太郎は何故か解らなかったが悪い事したんだろうなーと思った。
宮本が帰って来た。
彼は三太郎に判る様噛んで含める様にこの事件の事を話して聞かせた。
只 彼はモリエモンだけが悪いわけじゃない、踊らされた国民も悪いと。
短い夏休みも終わり宮本は又東京に帰っていった。


№ 18
秀美はどんな事が好きなんだろう?
休みは何をしてるのか?
いろいろ考えてみても思いつかない。
洋子は「お兄ちゃんの好きな事言えばいいんよ」と言った。
しかし彼にはパソコンの話位しか思い付かなかった。

二度目にお茶に誘われた時モリエモンの話をした。
その時株で儲けた事をポロッと話してしまったが・・・・・
黙ってそれを聞いていた秀美は「実は・・・・」と母親が病気でお金に困っている事を綿々と話し出したのである。
そして「少しお金を貸して欲しい」と言ったのである。
三太郎は悩んだ。
そして綾子に相談した。
綾子は「私が会ってみるよ」と・・・・・

秀美は例の喫茶店に三太郎と共に綾子が現れたのに驚いた。
二言三言話をした後「お母さんに会わせてくれ」と綾子の言葉に動揺を見せた。
そして「この次家に連れて行く」ことで話は終わった。
お茶もそこそこに秀美は帰っていった。

「嘘だよ、三ちゃん騙されなくて良かったね」
三太郎はもしかしたらと思って50万円用意して来ていた。
「三ちゃんは人がいいから騙され易いんだよ」三太郎はちょっとがっかりした。
彼は秀美の言う事が本当であって欲しいと願っていたのだ。
翌日彼女は病院を辞めていった。

洋子は「お兄ちゃん馬鹿だね、そんな悪い子は何処にも居るのよ、絶対お金を持ってるって云っては駄目だよ」「良かったね、綾ピンにお礼しなさいよ」
次の休日洋子とデパートに出掛けた。
妹は手馴れたものでブランドショップでバッグを二つ選んだのである。
「すみませーん このふたつをください」三太郎は何故二つか解らなかった。
「これは綾ピン、もうひとつは私のよ」結局彼はふたつ買ったのである。

綾子は受け取らなかった。
「三ちゃん、お茶だけでいいよ」綾子は喫茶店に誘ってくれたのだ。
そして女性との付き合い方を教えてくれた。
「三ちゃんは空手をやってたんでしょう、そんな話とか最近見た映画とか将来の夢とかを話せばいいのよ」「それで気が合えばお付き合いは出来るのよ」
レジで金を出そうとしたら「友達同士は割りかんだよ」いろいろ勉強させられた。

結局バッグは二つとも洋子の物になったのだ。
洋子は綾子が受け取らない事を予測していた。
だから自分の好みのバッグを選び”にんまり”したのだった。


№ 19
突然院長に呼ばれた。
「どうだ、三太郎 お前ヘルパーの責任者になる気はないか?」
院長は日頃からの働き振りを見ててそう切り出したのだ。

三太郎は悩んだ。
自分には無理だと思っていた。
人の上に立った事など未だかって無かったから。
皆にも疎まれている。
しかし院長は彼なら出来る、と思っていたのだ。
「考えさせてください」そう言って院長室を後にした。

綾子も清美も大賛成した。
何となく病院に行くのが気が重い、ずる休みをしようと思った。
しかし洋子にケツを叩かれ病院に向かった。
病院では患者のお婆ちゃんたちが「出世したね」「三ちゃんなら安心だよ」と喜んでくれた。
仕事は何時もと変わらない。
唯 新しいヘルパー達に老人への接し方,身体の洗いかた掃除、シーツの取替え、配膳の仕方を身をもって教える事が増えたことである。
かいがいしく三太郎は働いた。

その頃清美の家では・・・・ちょっとした彼女の反乱が始まっていた。
父親の持って来る縁談を彼女は全て断るのである。
「お前 誰か好きな人いるのか?」父は聞いた。
「お父さん許してくれないでしょう」清美は逆に聞き返した。
「氏素性の解らん相手なら許さん、一度連れて来い」
だが彼女はまだ相手に打ち明けてはいない。
「お父さんの知ってる人よ」「きっと反対するでしょう」
父親はいろいろ考えてみた。
だが思い当たる男は浮かんでこない。

「誰だ、怒らないから言ってみろ」
「三太郎さんよ」父親は絶句した。
「まさか・・・あの三太郎ではないだろうな」「そうよ まだ打ち明けてもいないけど」
「あの人の優しさが欲しいのよ」
「お前馬鹿にしてたんじゃないのか?」「うちの家風には合わないだろう、一度連れて来てみろ」
父親は最初から反対する意思を持って会う事にしたのだ。

清美は綾子に相談した。
「ふーん、清美が三ちゃんをねー」彼女は清美が三太郎の良さを解った事に驚きと喜びを感じていた。
「三ちゃんの何処に引かれたの?」と聞いた。
馬鹿でマヌケでおっちょこちょいの三太郎・・・・・
底なしの優しさは有るが・・・・・
「まず三ちゃんに聞いてみな」「三ちゃんも昔の三ちゃんじゃないのよ」
綾子のセッティングで喫茶店で会う事になった。


№ 20
清美は殊勝な顔して現れた。
何時もの傲慢さは消えいきなり「三太郎さん私が嫌い?今までゴメンね」と言ってボロボロ涙を流したのである。
三太郎は驚いた。
そんな清美を見た事が無かったからである。
今まで彼女は幾つか恋をした。
しかし三太郎の様な優しい男には出会う事はなかったのだ。
何時も正月の出来事を思い出していた。
「もし嫌でなかったら私と結婚して・・・・」

三太郎は戸惑っていた。
かっての憧れのビーナスがプロポーズしてくれている。
夢ではないかと疑った。
綾子は「しっかりしなさい、女が頭を下げているのよ!」そして清美に「少し時間が必要だね」と言った。
「しかし清美も変わったね やっと三ちゃんの良さが判るようになったとはね」と・・・・
綾子は宮本に電話を入れた。
宮本は「そうか、随分回り道したな」と笑った。
男性経験の多い清美と全く女性を知らない三太郎・・・どうなるものやらと宮本は思った。

三太郎は整体師の免許を取るべく学校に通う事にした。
ヘルパーの仕事に役に立つと思ったからである。
株も多少の増減はあるが自分の給料程は収入になったがこれは水物である。
だから無いものと思って楽しんでいた。
政権も代わり少しは期待してた株価も上がる気配はない。
併し元々ほんの小使いから始めたものである。
三太郎は動揺する事もなかった。
只何時か一億の大台に乗せる事を夢見ていた。
出来れば肢体不自由な人たちの憩いの場でも作りそこで整体を施してあげたい。
別に大それた目標ではないが・・・・ただ漠然と考えてみていた。

ついにその日がやってきた。
清美の父は以前の三太郎しか思い浮かんでいなかった。
相変わらずおかしな顔ではあるが笑顔が可愛い。
そして逞しくなった身体つき、驚きが彼への先入観を一掃した。
そしていろいろな話の中に仕事への情熱、誇りを感じ取り交際を許可したのである。
自分の娘だって誉められた生き方をしてきてはいない。
親の直感でそれは承知していた。
そして彼の優しさなら娘を幸せにしてくれるだろう・・・・・と


№ 21
三太郎の父親と清美の父は互いに盃を酌み交わしていた。
「それにしてもおかしなもんですなー あの馬鹿息子がお宅の様な いい娘さんとご縁が出来るとは」
「いや、今時あんないいご子息が居たとは驚きました」「この世知辛い世の中に心が洗われる思いですわ」
「まあ結婚式は二人に任せて見守ってやりましょう」
こんな会話を交わしながら旨い酒を呑んでいたのだった。

さてさて しおらしくなったとは云え元々鼻っ柱の強い清美と底抜けにお人好しの三太郎・・・
どんな夫婦になるのやら・・・???
『天のみぞ知る』 と云うところか・・・

洋子は大学のキャンバスで恋人と語り合っていた。
綾子も又道場の先輩とデートを楽しんでいる。
宮本は父親の跡を継ぐべく秘書として政治学の勉強をしている。

只 人の心の痛みが解る三太郎の様な男が本当の政治家に相応しいのではないか・・・
宮本はは彼のの様な男が政治家に相応しいのだろう と思って居たのだった。

        ー完ー


『三太郎物語』

2015年03月20日
『三太郎物語』

№ 1
その日三太郎は学校に行くのが嫌だった。
いや 正確には恐かったのだ。
それは前日に悪童連中に嘘をついたからである・・・・
クラスの悪童達は クラスメートの女の子の話をしていた。
「あの子が可愛いぞ」「いやあの子の方が良い」「でもあいつは馬鹿だぞ」「馬鹿でも美人がいい」「でも話をしてて面白くないぞ」云々・・・・
他愛も無い話であったが そのうち誰が好きか という話に変わっていった。

三太郎は何時も蚊帳の外で後ろの物語方で聞いているだけであったが その日は違っていた。
めいめい好きな相手を言い合った。
そして誰と誰が交際してるかとの話に及んだ。
突然の事であった「ところで三助(皆は三助とか三公とか呼んでいた)は誰が好きなんだ、勿論付き合っているんだろうなー」
彼にはそんな相手など居ようはずがなかった。

何時も眩しそうに遠くから眺めている女の子は居たが・・・・
美人で頭の良い清美ちゃんだったが 彼女はそれに気付いてはいない。
併し彼はつい言ってしまった。
「俺だって居るさ」「誰だそんな物好きは」「清美ちゃんだよぅ」皆大笑いした。
そして「その証拠をみせろ、ラブレターでも貰ったんか?」と・・・・
「見せてみろよ ラブレターを」
時の勢いである、三太郎は「明日見せてやるよ」と言ってしまったのである。

それは日頃馬鹿にされ続けてパシリをされていた彼等への反抗心から出てしまった言葉ではあるが その時には後の事など頭に無かったのだった。


№ 2
ここで三太郎がクラスでどう思われていたのか書いて置こう。
身長は低く 決して男ぶりはどうひいき目に見ても良いとは云えない。
勉強は下の下、頭も良くない。
普通なら苛めの対象になりかねない存在なのだが 不思議なひょうきんさを持ち合わせていた。
そして誰にも従う。
だから 教室の便利屋の様な存在で 苛めの対象にはならなかったのである。
幾ら馬鹿にされてもヘラヘラ笑ってる。
女生徒達にも馬鹿にされ・・・・でも憎まれない得な男であった。

しかし今度はそうは行かない。
きっと苛められるだろう、いや絶対に殴られるに違いない。
学校に行くのを止そうか・・・・でも家まで迎えに来られたらどうしよう・・・・
三太郎は学校が好きであった。
家では父親がすぐ怒る、愚図の三太郎には学校は一種の逃げ場所でもあったのだ。

小さな町工場を経営してた父親は三太郎の性格が歯がゆかった。
何とか跡継ぎとして逞しく育って欲しい と願っていたのだ。
だが彼は叱られるとすぐメソメソと泣く。
このまま消えてしまいたいとも思った。
が、考えてみると何処にも逃げ場はない。
彼は意を決して学校に向かった。


№ 3
校門の前で優等生の宮本が待っていた、そしてそっと彼に手紙を渡した。
「これを持って行け」と・・・・

教室に入った途端悪ガキ共に囲まれた。
彼は宮本から受け取った手紙を大事そうに鞄から取り出し 彼らに渡した。
その手紙には「三ちゃん好きよ、清美」と唯それだけが書かれてあったのだ。
葵の印籠宜しく それは彼等の彼を見る目が変わったのは確かである。
宮本の代筆に他ならないが 全ての悪ガキを黙らせるには充分であった。
宮本は日頃からお人好しの馬鹿の三太郎に,つい仏心を出したのであるが・・・・
三太郎は舞い上がってしまったのである。

「清美ちゃんは俺を好いてくれている」
とんだ勘違いを犯したものだ。
それからの三太郎は金魚の糞の如く清美の後を付いて歩く 訳の判らない清美はそれが気持ち悪くて堪らない。

親友の綾子に相談した。
綾子は男勝りの気性で悪ガキ達にも一目置かれている。
彼女は三太郎を校舎の隅に呼び出し一括した。
彼は偽のラブレターを取り出し 綾子に殴られた頬をさすりながら「清美ちゃんは俺に手紙をくれたんだ」

頭の回転の速い綾子はすぐ宮本の悪戯と感じた。
烈火の如く怒った綾子はすぐ宮本を問い詰めた。
事の顛末を知った綾子はひとつのアイデアを思いついた。
帰宅部(何処も部活をしていない)の三太郎を自分の属してる新聞部に入れて鍛えてあげようと、そこには清美も居る。

嘘から誠・・・もしかしたら三太郎は清美と仲良くなれるかも・・・・・
底抜けの大馬鹿者と校内きっての美女・・・・
案外いけるカップルになるかも・・・
茶目っ気が湧いてきた。
これは綾子のちょっとした病気でもあるが・・・・

№ 4
まだ偽ラブレターとは知らない三太郎は 清美と会える事で有頂天になった。
清美はどうも三太郎が疎ましくて堪らない。
綾子の提案で渋々入部を認めたのだが・・・・
使い走りには丁度良いか と・・・・の思いも働いて。

三太郎は嬉々として働いた。
しかし必要以上の口をきいてくれない清美に、彼は「この人は口数の少ない人だなー」と単純に考えていたのである。
清美と三太郎の仲はたちまち皆の知るところとなったのだが清美は面白くない。

一方三太郎は・・・・言うに及ばずである。
学校が楽しくて堪らなかった。
しかし偽ラブレターの件はふとした清美の愚痴で知られてしまったのである。
三太郎は悪ガキ達に呼び出された。
「よくも俺達を騙してくれたな!ヤキを入れてやるから覚悟しろ!」
殴られ蹴られボロボロにされた三太郎はそれでもまだ気が付かなかった。
ラブレターは清美が書いてくれたと信じて疑わなかったのだ。

鼻血を出し顔中にアザを作りながら新聞部の部室に入って行った。
清美は「気持ち悪い」と逃げ出してしまったが、綾子は医務室に連れて行き怪我の手当てをしたのである。

「馬鹿だねー殴られる前に此処に逃げて来ればいいのに」「私が助けてあげるのに」
しかし彼にも弱いながらも意地があった。
綾子にだけは助けて欲しくなかったのだ。
何でも綾子の後ろには恐いお兄さんが付いてると云う話を聞いていたから・・・・
だが実際は只綾子の家の職業が運送業である為 厳つい男達が多かっただけの事であったが・・・・
それからの三太郎は彼等の格好の苛めの対象となってしまった。


№ 5
それからの三太郎は事有るごとに 連日の様に彼等悪ガキ連中に殴られ蹴られした。
次第にひょうきんな笑顔も消え教室でもメソメソとする日が多くなった。
そんな姿を見兼ねて綾子は心を痛めた。
宮本が綾子に言った「綾の通う空手道場に連れて行ったらどうだ?」
しかし綾子は何をやってもドジで運動オンチの三太郎には無理だろうと思った。
かと云って何時も守ってやれる訳でなし・・・・
ここは宮本の言うように道場に連れて行くしか方法は無いか、と心に決めたのである。
思った通り三太郎は準備運動の段階から根をあげた。
師範の竹刀の音を聞いただけでおどおどしてベソをかく始末・・・・・

「これは駄目だ・・・」師範が呟いた。
仕方なく道場の掃除をさせる事にした。
三太郎は喜んだ、これなら叱られる心配はない。
意外にも彼は几帳面な性格で隅から隅まで綺麗に拭きあげて行く。
師範は「こんなところから慣れさせるか」と彼の入門を許した。

彼の父親は非常に喜んだ。
「やっと少し男らしくなってきたか」と・・・・・
毎日道衣を担いで家を出てゆく姿に逞しくなった姿を想像して・・・・
だが三太郎は明けても暮れても掃除、洗濯に追われていた。
型を少し習ったが腰がふらついて一向に上達しない。
師範は仕方なく綾子に指導を任せる事にしたのだ。
今度は綾子が自分の練習時間が取られる事に腹を立てた。
しかし顔には出さず根気よく指導を重ねた。
周囲の努力も空しく彼は一向に上達しない。

学校では相変わらず苛めは続いた。
だが三太郎は「空手に先手なし」と 馬鹿の一つ覚えで殴られ続けた。
しかし以前の様に泣くことは少なくなった。
それは空手の効果かもしれない。


№ 6
何時も苛められながら彼は考えた。
「どうして僕だけが殴られるんだろう?」
まだ最初の原因がラブレター事件だとは気付いていない彼には理解できなかったのである。
彼は綾子の強さが欲しかった。
しかしまるで運動オンチの三太郎には無理な事である。
又 宮本の様な秀才にも憧れた。

相変わらず清美には冷たくあしらわれていた。
だが三太郎にとって彼女はビーナスなのだ。
唯一緒にいるだけで楽しかった。
近くで働いているだけで自分が特別の存在に感じていたのだ。

体育祭が近ずいてきた。
クラス全員が何かの種目に出場しなければならない。
三太郎は一番簡単だと思った100メートル走に出る事にした。
これだと一番出場する時間が少ない。
後はフィナーレ直前の騎馬戦だ。
これは皆の後ろを付いて走ってれば目立たない。

いよいよその日がやって来た。
100メートル走には宮本も出る。
彼は文武両道 スポーツも得意であった。

競技が始まった。
三太郎は必死に走る 走る走る・・・・ビリで走った。
皆ははるか彼方に遠ざかって行く。
ハプニングは半分ほど走った辺りで起こった。
集団の数人がぶつかり合って倒れたのである。
皆起き上がって走り出したが一人足を捻挫したらしく起き上がらない。

三太郎はそれを追い越して振り向いた。
まだ痛そうに足を押さえてうずくまっている。
三太郎は走るのを止めてその生徒に掛け戻った。
そして抱え上げ必死にゴールを目指した。
トップでゴールした宮本も掛けて来た。
そして三人揃ってゴールしたのだった。
見物してた人々から拍手が巻き起こった。
ビリではあるが感動の黄金のゴールであった。

   第一章完

№ 7
ここでこの物語に登場する人物の簡単なプロフィールを述べて置こう。

三太郎のマドンナ(ビーナス)清美はある大企業の社長令嬢、成績優秀ではあるが自分より劣る者に対して馬鹿にする傾向がある。
少しばかり宮本に好意を持っている。

宮本は文武両道に優れ眉目秀麗の好漢、父親はこの町の議員で人望も厚い。
ハードボイルドを決め込んでいるが何処か困った者をほって置けない熱い血を持った男である。

綾子は行動派の美少女、世話焼きで三太郎の良き理解者だ。
愛とか恋とかでは無く三太郎の事が気になって仕方が無い。

最終学年の遠足の日となった。
平家の落人部落を訪ねる旅だった。
ローカル線の無人駅を降りてそれから徒歩で山道を行くのである。
紅葉が美しく細い山道も苦にならない。
途中 小鳥の鳴き声や野ウサギも見られた。
日頃見る事の出来ない風景と清水で顔を洗ったり、皆多いに楽しんだ。

小さなつり橋を渡る事になった。
それはブラブラと揺れて足元を脅かした。
皆は恐がって渡るのを躊躇してたが宮本が「俺が先に渡るから皆見てろ」とすいすいと渡り終えた。
綾子が続いた。
そして次々と生徒達が渡り始めたのだった。
三太郎は眼下の清流の間から頭を覗かせている岩を見て眼が廻った。
もし落ちたら・・・・と恐怖心が躊躇させたのだ。
そろりそろりと前に進んだ。

急にグラリと橋が大きく揺れた。
必死に手すりのロープにしがみついたのだが・・・・・
前を渡っていた生徒が足を滑らせて落ちかけたのだ。
三太郎は彼の手を掴んだが共に絡み合ってつり橋から水の中へ落ちて行った。
後ろを渡っていた悪ガキ連中が悪戯でわざと揺らしたのだ。

「大丈夫かっ!」
三太郎は涙と全身水にぬれた身体で「どんまいどんまい」と大声で叫んだ。
しかし膝のあたりを岩に打ちつけ打撲と裂傷で清流に赤いものが流れていった。


№ 8
宮本は渡り終えた悪ガキ達を怒りのあまり殴り倒した。
先生が止めるのも聞かずに・・・・・

一方三太郎はベッドでヘラヘラ笑って一緒に落ちた仲間の怪我が無かった事を喜んだ。
綾子はそんな三太郎をいとおしく思った。
そして清美に「あんな優しい子をどうして嫌うの?」と責めた。
清美は「私は宮本さんが好きなんよ、あんな不細工な馬鹿はお呼びじゃないの」

途端に綾子の平手打ちが飛んだ。
「あんたに宮ちゃんを好きになる資格はないわ!」「宮ちゃんもそんなあんたを好きにはならないよ」と・・・・

三太郎には妹がひとり居た。
反面教師と云うのでもないが活発で勉強家だった。
そして兄思いの優しい性格ではあるが よく三太郎にプロレスの技を掛けギブアップさせて「弱虫、私に位勝ちなさいよ」と叱咤してた。
そして兄の友である宮本に対しても「おい、宮本」と呼び捨てにする。
綾子に対しても「綾ぴん」と自分の友の様に呼ぶ。
密かに綾子に憧れている節がある。
「私も道場に通おうかな」等と言う始末。

三太郎はそれが恐かった。
もし妹が通えば自分が道場で何をしてるかバレるのが嫌だったのだ。
そのまさかが起きてしまった。
突然妹が入門してきたのである。
妹洋子は眼で兄の姿を探した。
道場の隅で一生懸命拭き掃除をしてる姿を見て感激したのである。
人の嫌がる事を黙々とやってる兄の姿を見て嬉しくなった。

「お兄ちゃん すごい」副師範が「偉いだろう、空手は組み手や型だけじゃないぞ」「人の嫌がる事を率先してやる、忍耐力が大事なんだ」と・・・・・
三太郎は嬉しかった。
強くはないが空手の心、根性は学び実践していたのだ。
それを師範達はちゃんと見て居てくれてた事が。


№ 9
冬休み前 新聞部ではその年の特集を出す事になった。
学校からの予算では足りない。
皆で広告収入を集めようと云う事になった。
三太郎は近所の商店を一軒一軒廻って歩いた。
だが簡単には集まらない。
彼は果物屋で手伝いをする事にした。
手伝いをして広告を入れて貰おうと思ったのだった。

しかし積み上げてある箱につまずいたり、ひっくり返ったり失敗ばかりして大して役に立たなかった。
しかし店に出るとくしゃくしゃの笑顔で「おばちゃんこれ美味しいよ」と愛想が良い。
それが受けて結構評判もいい。

さっぱり部活に顔を出さなくなった三太郎を心配した綾子は放課後すぐに帰る彼を付けて見る事にした。
そんな事を知らない三太郎は店に入って行く。
暫くすると大きな声で叱られている気配だ。
綾子は慌てて店に飛び込んだ。
すると【りんご箱】をひっくり返してうつむいている。
「キズだらけにして売り物にならないじゃないか!」咄嗟に綾子は「おばさんこれ売ってください」と言ってしまった。

「おや 綾ちゃんの友達かい、この子が手伝ってくれるのはいいんだけど売り物を駄目にする事が多いんだよ」「いい子なんだけどドン臭いねー」
そこで綾と彼、おばさんといろいろ話をした。
「いいよいいよ広告は出してやる事にしてるんだから、只この子が何処まで頑張るか見たかったんだから」と笑って言った。

「でも店に出ると売り上げは上がるんだよ、変な愛嬌があるからねー」
そして「綾ちゃんも大変だねーこの子の面倒見るのは骨が折れるだろう」と・・・・
綾子は笑って「優しい子なんですよ」と答えた。
キズついたりんごは「皆で食べな」と貰ったのである。
「三ちゃん明日も来てくれるね」おばさんはそう言って送り出してくれたのだ。


№ 10
二学期最後の新聞は大変評判が良かった。
皆の集めた広告代も多くページ数も増やした豪華な新聞になった。
最初の校長の言葉として『思いやりの心』として名前こそ出さなかったが三太郎の行為が書かれていた。

体育祭の記録では宮本の棒高跳び4メートル、綾子の走り高跳び1,8メートルの文字が躍っていた。
悪ガキ達の事は何も書かれていなかった。
彼等は甚だ面白くない。
何か仕返しを考えている様子である。

冬休みのある日 三太郎の家に皆遊びに来た。
銘々の進路について話をした。
宮本は高校、大学を出たら父の跡を継いで政治家を目指すと云う。
綾子は家の跡継ぎ、女社長になるから商業高校に行くと言った。
それについて宮本は「高校は普通高校に行き大学で経営学を学んだ方がいいぞ」と言った。

清美は女子高に行き花嫁修業をするのだと。
女子高はところてん式に大学まで行ける。
三太郎はまだ何も考えていなかった。
妹の洋子が「お兄ちゃんは学校はどうでもいいよ、お父ちゃんに鍛えて貰って旋盤を覚えトラックを運転してれば」と・・・・・
三太郎も高校は行きたかった。
でも何処も受け入れてくれる成績ではない。
情けなかった。

正月のある日 悪ガキ達に呼び出された。
「小使い沢山貰ったんだろう、少し俺達に回せ!」と・・・・
不審に思った洋子はすぐ綾子に連絡を取り呼び出された神社の裏に走った。
押し問答をしてる姿を見つけ「コラッ!お兄ちゃんに何をするんだ」
遅れてやってきた宮本、綾子の姿を見て彼等はスタコラと逃げ去ってしまった。
三太郎は無事であった。


№ 11
洋子は腹を立てていた。
幾ら綾子に突き、蹴りを入れようとしても軽くあしらわれ身体に触る事さえ出来ない。
思いっ切り飛びついて行ってもヒラリとかわされる。

無理も無い事である。
彼女は有段者、何時も男達に混じって組み手をやっている。
洋子がいくら頑張っても叶う相手ではない。
「三太郎!ちょっと来い」洋子は兄に八つ当たりをして「相手をしろ!」と言った。
師範は笑いながら「さあ どうなるかな」と皆に言い見物する事にした。

洋子は果敢に向かっていった。
だが三太郎はそれを巧く交わし自分は攻撃しない。
何時か洋子は息が切れてへたり込んでしまった。
「これが空手なんだよ」師範は洋子にそう言って笑った。
今まで兄をちょっと馬鹿にしてた彼女は兄を見直したのであった。

いよいよ卒業の時が近ずいた。
宮本はT大進学率の高いA校に行く事が決まった。
綾子は地元の普通高校、三太郎は何処にも入る事の出来ない者ばかり集まる落ちこぼれの高校に進学する事になった。

清美はお嬢さん学校。
それぞれの進路は決まり別れ別れになるのであるが不思議とこの友情はその後も続いたのである。
三太郎の父は息子の友達に感謝してた。
「いい友達に恵まれて幸せな奴だ」と・・・・

学校は比較的校則も緩やかで自由な所だった。
毎日が楽しかった。
クラスメートも又のんびりした人間ばかりだ。
授業も何とか付いて行く事ができた。
部活は又(帰宅部)になってしまった、新聞部が無かったからである。
毎日家に帰ったらパソコンを習いピコピコやっている。
空手だけは一生懸命頑張った。

宮本も綾子も勉強が大変そうである。
しかし一ヶ月に一度位は三太郎の家に集まった。
いつか清美は来なくなったが・・・・
妹の洋子は道場ではもう組み手に加わっていた。
三太郎も時々組み手の中に入ったが何時も皆のおもちゃにされてしまう。
つくずく自分の運動神経の無さが情けなかった。


№ 12
ある日、良からぬ噂を耳にした。
清美が変な男と付き合っていると・・・・・
皆心配した が綾子が「直接聞いてみるよ」と言った。
そしてその男の事を聞きだした。
男はゲームセンターで知り合ったそうだが,最初は何処かの社長の息子だと言ってたが・・・
実はパチスロに出入りしている遊び人だった。
金も相当貸している様子である。
だが本人は「まだ好きだ」と言う・・・・・

皆 頭を悩ませた。
三太郎の父は「痛い思いをしないと判らないだろう」「もう少しほって置いたら目が覚めるだろう」と・・・・・
綾子は直接男と会って話をしようと思った。
綾子の会社の者達は「お嬢さん一人では危ない、俺達が話を着けてやる」と言ったが「これは私の友達の問題だよ」と聞かなかった。
しかし結果は思わぬ形でケリが付いたのである。
その男が恐喝の疑いで逮捕されたのだ。

清美は皆の前で泣いた。
三太郎も可哀想な清美の心を思い一緒に泣いていたのだった。
「本当の男は見栄えや口の巧さではない、お前は三太郎を馬鹿にしてるがあいつは本当の男だぞ」宮本は清美に吐き捨てる様にそう言った。

三太郎は宮本が自分の事をそんな風に思っていてくれた事にも嬉しかった。
何時も何処でもそう言ってくれた者は居なかったからである。

道場で昇段試験があった。
三太郎は見事に落ちたのだった。
しかし妹の茶帯を見た時嬉しくもあったが悔しさが込み上げてきた。
生まれて始めて味わう屈辱の気持ちである。

しょんぼりと道場を出る姿は痛々しくもあった。
綾子は「三ちゃん、餡蜜でも食べて帰ろう」と声をかけたが聞こえない振りをして黙って帰った。
うっすらと涙が光っていた。

ー第一章完=

№ 7
ここでこの物語に登場する人物の簡単なプロフィールを述べて置こう。

三太郎のマドンナ(ビーナス)清美はある大企業の社長令嬢、成績優秀ではあるが自分より劣る者に対して馬鹿にする傾向がある。
少しばかり宮本に好意を持っている。

宮本は文武両道に優れ眉目秀麗の好漢、父親はこの町の議員で人望も厚い。
ハードボイルドを決め込んでいるが何処か困った者をほって置けない熱い血を持った男である。

綾子は行動派の美少女、世話焼きで三太郎の良き理解者だ。
愛とか恋とかでは無く三太郎の事が気になって仕方が無い。

最終学年の遠足の日となった。
平家の落人部落を訪ねる旅だった。
ローカル線の無人駅を降りてそれから徒歩で山道を行くのである。
紅葉が美しく細い山道も苦にならない。
途中 小鳥の鳴き声や野ウサギも見られた。
日頃見る事の出来ない風景と清水で顔を洗ったり、皆多いに楽しんだ。

小さなつり橋を渡る事になった。
それはブラブラと揺れて足元を脅かした。
皆は恐がって渡るのを躊躇してたが宮本が「俺が先に渡るから皆見てろ」とすいすいと渡り終えた。
綾子が続いた。
そして次々と生徒達が渡り始めたのだった。
三太郎は眼下の清流の間から頭を覗かせている岩を見て眼が廻った。
もし落ちたら・・・・と恐怖心が躊躇させたのだ。
そろりそろりと前に進んだ。

急にグラリと橋が大きく揺れた。
必死に手すりのロープにしがみついたのだが・・・・・
前を渡っていた生徒が足を滑らせて落ちかけたのだ。
三太郎は彼の手を掴んだが共に絡み合ってつり橋から水の中へ落ちて行った。
後ろを渡っていた悪ガキ連中が悪戯でわざと揺らしたのだ。

「大丈夫かっ!」
三太郎は涙と全身水にぬれた身体で「どんまいどんまい」と大声で叫んだ。
しかし膝のあたりを岩に打ちつけ打撲と裂傷で清流に赤いものが流れていった。


№ 8
宮本は渡り終えた悪ガキ達を怒りのあまり殴り倒した。
先生が止めるのも聞かずに・・・・・

一方三太郎はベッドでヘラヘラ笑って一緒に落ちた仲間の怪我が無かった事を喜んだ。
綾子はそんな三太郎をいとおしく思った。
そして清美に「あんな優しい子をどうして嫌うの?」と責めた。
清美は「私は宮本さんが好きなんよ、あんな不細工な馬鹿はお呼びじゃないの」

途端に綾子の平手打ちが飛んだ。
「あんたに宮ちゃんを好きになる資格はないわ!」「宮ちゃんもそんなあんたを好きにはならないよ」と・・・・

三太郎には妹がひとり居た。
反面教師と云うのでもないが活発で勉強家だった。
そして兄思いの優しい性格ではあるが よく三太郎にプロレスの技を掛けギブアップさせて「弱虫、私に位勝ちなさいよ」と叱咤してた。
そして兄の友である宮本に対しても「おい、宮本」と呼び捨てにする。
綾子に対しても「綾ぴん」と自分の友の様に呼ぶ。
密かに綾子に憧れている節がある。
「私も道場に通おうかな」等と言う始末。

三太郎はそれが恐かった。
もし妹が通えば自分が道場で何をしてるかバレるのが嫌だったのだ。
そのまさかが起きてしまった。
突然妹が入門してきたのである。
妹洋子は眼で兄の姿を探した。
道場の隅で一生懸命拭き掃除をしてる姿を見て感激したのである。
人の嫌がる事を黙々とやってる兄の姿を見て嬉しくなった。

「お兄ちゃん すごい」副師範が「偉いだろう、空手は組み手や型だけじゃないぞ」「人の嫌がる事を率先してやる、忍耐力が大事なんだ」と・・・・・
三太郎は嬉しかった。
強くはないが空手の心、根性は学び実践していたのだ。
それを師範達はちゃんと見て居てくれてた事が。


№ 9
冬休み前 新聞部ではその年の特集を出す事になった。
学校からの予算では足りない。
皆で広告収入を集めようと云う事になった。
三太郎は近所の商店を一軒一軒廻って歩いた。
だが簡単には集まらない。
彼は果物屋で手伝いをする事にした。
手伝いをして広告を入れて貰おうと思ったのだった。

しかし積み上げてある箱につまずいたり、ひっくり返ったり失敗ばかりして大して役に立たなかった。
しかし店に出るとくしゃくしゃの笑顔で「おばちゃんこれ美味しいよ」と愛想が良い。
それが受けて結構評判もいい。

さっぱり部活に顔を出さなくなった三太郎を心配した綾子は放課後すぐに帰る彼を付けて見る事にした。
そんな事を知らない三太郎は店に入って行く。
暫くすると大きな声で叱られている気配だ。
綾子は慌てて店に飛び込んだ。
すると【りんご箱】をひっくり返してうつむいている。
「キズだらけにして売り物にならないじゃないか!」咄嗟に綾子は「おばさんこれ売ってください」と言ってしまった。

「おや 綾ちゃんの友達かい、この子が手伝ってくれるのはいいんだけど売り物を駄目にする事が多いんだよ」「いい子なんだけどドン臭いねー」
そこで綾と彼、おばさんといろいろ話をした。
「いいよいいよ広告は出してやる事にしてるんだから、只この子が何処まで頑張るか見たかったんだから」と笑って言った。

「でも店に出ると売り上げは上がるんだよ、変な愛嬌があるからねー」
そして「綾ちゃんも大変だねーこの子の面倒見るのは骨が折れるだろう」と・・・・
綾子は笑って「優しい子なんですよ」と答えた。
キズついたりんごは「皆で食べな」と貰ったのである。
「三ちゃん明日も来てくれるね」おばさんはそう言って送り出してくれたのだ。


№ 10
二学期最後の新聞は大変評判が良かった。
皆の集めた広告代も多くページ数も増やした豪華な新聞になった。
最初の校長の言葉として『思いやりの心』として名前こそ出さなかったが三太郎の行為が書かれていた。

体育祭の記録では宮本の棒高跳び4メートル、綾子の走り高跳び1,8メートルの文字が躍っていた。
悪ガキ達の事は何も書かれていなかった。
彼等は甚だ面白くない。
何か仕返しを考えている様子である。

冬休みのある日 三太郎の家に皆遊びに来た。
銘々の進路について話をした。
宮本は高校、大学を出たら父の跡を継いで政治家を目指すと云う。
綾子は家の跡継ぎ、女社長になるから商業高校に行くと言った。
それについて宮本は「高校は普通高校に行き大学で経営学を学んだ方がいいぞ」と言った。

清美は女子高に行き花嫁修業をするのだと。
女子高はところてん式に大学まで行ける。
三太郎はまだ何も考えていなかった。
妹の洋子が「お兄ちゃんは学校はどうでもいいよ、お父ちゃんに鍛えて貰って旋盤を覚えトラックを運転してれば」と・・・・・
三太郎も高校は行きたかった。
でも何処も受け入れてくれる成績ではない。
情けなかった。

正月のある日 悪ガキ達に呼び出された。
「小使い沢山貰ったんだろう、少し俺達に回せ!」と・・・・
不審に思った洋子はすぐ綾子に連絡を取り呼び出された神社の裏に走った。
押し問答をしてる姿を見つけ「コラッ!お兄ちゃんに何をするんだ」
遅れてやってきた宮本、綾子の姿を見て彼等はスタコラと逃げ去ってしまった。
三太郎は無事であった。


№ 11
洋子は腹を立てていた。
幾ら綾子に突き、蹴りを入れようとしても軽くあしらわれ身体に触る事さえ出来ない。
思いっ切り飛びついて行ってもヒラリとかわされる。

無理も無い事である。
彼女は有段者、何時も男達に混じって組み手をやっている。
洋子がいくら頑張っても叶う相手ではない。
「三太郎!ちょっと来い」洋子は兄に八つ当たりをして「相手をしろ!」と言った。
師範は笑いながら「さあ どうなるかな」と皆に言い見物する事にした。

洋子は果敢に向かっていった。
だが三太郎はそれを巧く交わし自分は攻撃しない。
何時か洋子は息が切れてへたり込んでしまった。
「これが空手なんだよ」師範は洋子にそう言って笑った。
今まで兄をちょっと馬鹿にしてた彼女は兄を見直したのであった。

いよいよ卒業の時が近ずいた。
宮本はT大進学率の高いA校に行く事が決まった。
綾子は地元の普通高校、三太郎は何処にも入る事の出来ない者ばかり集まる落ちこぼれの高校に進学する事になった。

清美はお嬢さん学校。
それぞれの進路は決まり別れ別れになるのであるが不思議とこの友情はその後も続いたのである。
三太郎の父は息子の友達に感謝してた。
「いい友達に恵まれて幸せな奴だ」と・・・・

学校は比較的校則も緩やかで自由な所だった。
毎日が楽しかった。
クラスメートも又のんびりした人間ばかりだ。
授業も何とか付いて行く事ができた。
部活は又(帰宅部)になってしまった、新聞部が無かったからである。
毎日家に帰ったらパソコンを習いピコピコやっている。
空手だけは一生懸命頑張った。

宮本も綾子も勉強が大変そうである。
しかし一ヶ月に一度位は三太郎の家に集まった。
いつか清美は来なくなったが・・・・
妹の洋子は道場ではもう組み手に加わっていた。
三太郎も時々組み手の中に入ったが何時も皆のおもちゃにされてしまう。
つくずく自分の運動神経の無さが情けなかった。


№ 12
ある日、良からぬ噂を耳にした。
清美が変な男と付き合っていると・・・・・
皆心配した が綾子が「直接聞いてみるよ」と言った。
そしてその男の事を聞きだした。
男はゲームセンターで知り合ったそうだが,最初は何処かの社長の息子だと言ってたが・・・
実はパチスロに出入りしている遊び人だった。
金も相当貸している様子である。
だが本人は「まだ好きだ」と言う・・・・・

皆 頭を悩ませた。
三太郎の父は「痛い思いをしないと判らないだろう」「もう少しほって置いたら目が覚めるだろう」と・・・・・
綾子は直接男と会って話をしようと思った。
綾子の会社の者達は「お嬢さん一人では危ない、俺達が話を着けてやる」と言ったが「これは私の友達の問題だよ」と聞かなかった。
しかし結果は思わぬ形でケリが付いたのである。
その男が恐喝の疑いで逮捕されたのだ。

清美は皆の前で泣いた。
三太郎も可哀想な清美の心を思い一緒に泣いていたのだった。
「本当の男は見栄えや口の巧さではない、お前は三太郎を馬鹿にしてるがあいつは本当の男だぞ」宮本は清美に吐き捨てる様にそう言った。

三太郎は宮本が自分の事をそんな風に思っていてくれた事にも嬉しかった。
何時も何処でもそう言ってくれた者は居なかったからである。

道場で昇段試験があった。
三太郎は見事に落ちたのだった。
しかし妹の茶帯を見た時嬉しくもあったが悔しさが込み上げてきた。
生まれて始めて味わう屈辱の気持ちである。

しょんぼりと道場を出る姿は痛々しくもあった。
綾子は「三ちゃん、餡蜜でも食べて帰ろう」と声をかけたが聞こえない振りをして黙って帰った。
うっすらと涙が光っていた。

ー第二章完ー

「仇討ちの彼方に 3」  ー寒椿ー
一方新九郎も過酷な旅を続けていた。

仇として追われる身、路銀も底を付き かと云って雇ってくれる所もなし・・・
頼るところと云えば無頼の輩 ヤクザの用心棒位しかない。
だが腕は立つ、何処の組でも喜んで迎えてくれた。
が 彼には其処まで落ちた自分に腹を立て、心だけは立派な侍でいたいと思っていたのだった。
が すさんで行く心は次第にそうなるまいと思う気持ちとは裏腹に、逆の方向に流されてゆく。

何度か愛する妻に手紙も書いた。
そして出す事もなく破り捨てた。
どうか幸せに生きて欲しいと願いながら最後の手紙をしたためた。
「私の事は忘れてくれ、良い伴侶を見つけて暮らしてくれる様に」と・・・

そして故郷の山河を思い出し、又自分を追って来る相手を思っていた。
「確か彼には元服前の息子と娘が居たはずだ、彼等も又辛い旅を続けているのであろう」「私が討たれてやれば国に帰る事が出来るはずだ、こちらから探し出して討たれてやろう」
新九郎はそう思った。
それからの旅は自分を討つ兄妹を探す旅に代わったのである。

仇を討つ叔父、兄妹も苦しい旅を続けていた。
国許からの仕送りも滞りがちになった。

そして二年後、叔父甲子郎が病に倒れたのである。
安い旅籠で少し療養していたが、医師を呼ぶ金も無くなり 二人の兄妹を枕元に「いいか、絶対に父上の仇は討つのだぞ、奴を討たねば家名断絶となってしまう、如何にしても首を取って故郷に錦を飾るのだ」【仇討赦免状】を兄金之助に渡し息を引取ったのであった。

故郷では甲子郎の遺体の引取り手も無く 一通の手紙とわずかの金子が送られてきただけであった。
「遺体はそちらで処分されたし、送金もこれが最後と思われよ」と・・・
事実上孤立無援となったのだ。

金之助十五歳、静香十歳の時の事である。
それからの旅はまさに辛酸をなめるが如き辛いものに変わった。
無人の祠に潜り込み寝起きして畑の大根、野菜等を盗み喰い 命を繋ぎ仇を探すのである。
もう武士の誇りも何も無い。
藤堂新九郎を討ち果たすまでは故郷には帰りたくとも帰れない。

が しかしこの兄妹には新九郎の顔さえ覚えていなかった。
名前だけしか解らない相手を探すのである。
吹雪の北陸道を凍える手足をさすりながら歩く・・・
霜焼け、皸は云うに及ばず頬にまで凍傷に掛かり 刀を杖に歩いては倒れ、倒れては歩く。

「お兄様 もう歩けません、私はもう駄目です 死なせてください」「頑張るんだ、必ず仇を取って故郷に錦を飾るんだ」だが金之助も又 意識も途切れそうになりながら必死の思いであったのだ。
と、ある番小屋が眼にとまった。
「しめた、あそこで少し休もう」
転がり込む様に小屋の中に入った、壁板をはがし暖を取る。
それからの金之助は高熱に犯され 意識も失い 乾いた咳が続いたのである。

そして静香に「もう私は駄目だ、お迎えが来た様だ、後は静香 お前に頼む」と・・・
その翌日息を引取ったのであった。
静香は涙枯れるまで泣いた。

それから三日後 嵐は嘘の様に晴れた。
漁師達が見回りに来た時には泣き疲れて眠っている静香と 既に冷たくなった金之助の二人が手を握り締め 重なり合っていたのであった。
彼等はそれを見て哀れんだが 金之助の墓を掘って埋めてやる事位しか出来なかったのである。

彼等も又 極貧の生活をしていた為 せいぜいそれが精一杯の思いやりであったのだ。
金之助二十歳、静香十五歳の二月の寒い朝の事である。
風に吹かれ椿の花びらが侘しく落ちる日であった。

少しばかりの食事を頂き 静香ひとり 新九郎を求め旅立って行ったのである。
辛く苦しい旅は続いた。
だが藤堂新九郎の名前は何処で聞いても判らない。
唯、名前だけで探すのは海辺の砂の中から宝石を探すのと一緒である。
しかし静香は家名の為、死んでいった兄の為、必死で探し歩いた。
野宿をし 祠で寝泊りしながら飢えをしのいで 一歩一歩前に進むより手立ては無かったのだ。

そうしたある晩、野宿をしている所を夜盗の群れに見つかってしまった。
「おい、お前 ここで何してる」と肩を掴まれた。
「無礼な、近付くと斬りますよ」と懐剣の鞘を祓った。
「何だ、まだ小娘じゃないか」「少し可愛がってやろう」
夜盗達は眼と眼で合図しあって いきなり襲いかかったのである。
必死の抵抗もむなしく彼等のおもちゃにされたのだ。
着ている物は全て剥がされ、陵辱の限りを尽くされ静香は失神したのだった。
そして持ち物を物色し始めた。

「何 仇討赦免状、こいつ仇討ちの相手を追っているのか」と笑って赦免状を引き裂いた。
何人の男が身体の上を通り過ぎたのか・・・
朦朧とした頭で考えたのは自害する事であった。

が、しかし仇にめぐり合う事も無く死ぬのは如何にも悔しい。
叔父、兄の無念さを思い、思い留まった静香は川の水で 皮が破れる程身体を洗ったのである。
破れた赦免状をかき集め籐の小箱に入れふらつく足で歩き始めたのであった。
月が冷たく照らしていた。

下腹部が痛い・・・無理やり大勢の男達に犯された静香には 今まで男の人と親しく話をした事も無かったのだ。
一ヶ月ばかりその傷は癒えなかった、出血も二週間ばかり続いた。
だがそれが彼女の人生を変える事になろうとは まだ気が付いていなかったのである。
十六歳の秋の事であった。

三ヶ月も過ぎた頃・・・
「お兄さん、遊んで行かない?」「楽しませてあげるわよ」
夜鷹の群れに混じって客を物色する静香の姿が其処にはあった。
「おう、名前は何て言うんだ」
川岸に狂い咲きの様に【あやめ】の花が一輪咲いていた。
それを横目で見て「あやめと云います、よろしくね」と流し目で答え男を誘う。
そうしてある程度金が貯まると 又新九郎を探す旅が始まる。

宿場宿場でそれを繰り返す。
そして客に藤堂新九郎と云う男の事を尋ねるのであった。
そんな生活が六年余り続いた。
だが何ひとつ得られる手掛かりは見つからない。
静香は「このまま歳を取って死んでゆくのではないか」と思い身震いしたのだった。

敦賀の宿場での出来事であった。
自分のねぐらを確保した後、木綿の手拭いを頭からかぶり 夜の川沿いで客を拾おうとしてた時、土地のヤクザに捕まったのである。
「ショバ代を払え」と・・・勝手に商売をする事を許されなかったのだった。
「まだ客が付いておりません」と答えると「ふてーアマだな、見せしめに木に吊るして置け」と親分らしき者がそう言った。
 
抵抗もむなしく両手を縛られ 町外れの大木の枝に吊るされたのである。
彼等は横のつながりで宿場宿場で稼いで消える女を捜していたのだ。
それは紛れもないあやめと名乗る女 つまり静香の事であった。
腕の皮は剥がれ抜ける様に痛い、そのうち痺れが走り気を失ってしまった。

「やーい、夜鷹 ざまーみろ」「気持ち悪い、早く死ね」口々に罵られ石を投げられ 棒で突付かれ気が付いた。
上半身裸にされ見るも無残な姿であった。
又 竿竹で胸のあたりを殴られ失神する。
全身傷だらけで五日目におろされた。
その間に雨にさらされ傷口から血が滴り落ち道を這いずる跡には赤い血の帯が続く。
隠した荷物の所まで辿り着いたが金は全て抜き取られていたのである。

彼女はこの旅からの十七年余りの出来事を回想してた。
まだ旅の始まりの頃 三人の藩内の人の言葉「そもそも左衛門が悪い」「死んでくれて皆助かった」「新九郎殿は哀れよのう」・・・
何故敵討ちなどしなければならないのか?
解らない事が一杯あった。
傷の癒えるまで祠の下でじっと隠れ ふらふらとこの宿場を後にしたのであった。

「仇討ちの彼方に 4」  ー寒椿ー
飲まず喰わずで辿り着いた町で 懐かしい故郷の名の看板を上げた店を見つけた。
吸い込まれる様に中に入って 番頭らしき人に「お頼みします、藤堂新九郎様を探している者ですがご存知ありませんか?」

最初、何処の乞食が入って来たのかと驚かれたが「藤堂様のゆかりの方ですか? ここでは何ですから奥へどうぞ」と居間に通された。

そこで聞いた話は 叔父から聞かされた話とは全然違うものであった。
この店は『西国屋』の支店であって 当時の出来事の真相が良く解ったのである。
今でも新九郎を悪く言う者は誰も居ないと云う事も・・・
そして、もっと驚かされた事は主君の不祥事により幕府により藩が取り潰された事であった。

「一体何の為に苦しい旅を続けなければならなかったのか」
自分は何の為に生きてきたのか・・・
呆然と店を後にした静香は 自分の中の心の支えがガラガラと崩れて行く音を聞いた。
習性とは恐ろしいものである。
目的を失った静香は尚も新九郎を求めて 歩き始めたのである。
只 当てもなく苦しい旅を続けるのであった。

もう夜鷹はやめた。
だが草を食み泥水をすすって前に前に進む。
糸の切れた凧のような放浪の旅であった。
そして加賀百万石の城下町で遂に力尽きたのであったのであった。
その時良庵に助けられたのだ。

「仇討ちの彼方に 5」  ー寒椿ー
美雪は遠い日の思い出に浸っていた。
そして【西国屋】の主人の話、又その主人の好意で当時の出来事を知る人達の所在を確かめ 何通もの手紙を書いた。
返って来た返事には 傍若無人な父親の事が事細やかに書いてあった。

賭け将棋の立会人 多田兵庫からの手紙には もし藤堂新九郎が居たならば藩のお取り潰しも避けられたであろう と書いてあったのである。

元々貧乏な藩の財政を救う為に 山の中腹まで果樹園を作り、又赤穂の塩田を見習い塩の生産に力を注ぎ 豊かな財政の藩に作り上げた功績は新九郎在って出来た事。
不正を嫌い藩主に『絹着せぬ物言い』が出来たのは 新九郎唯ひとりであった。
ゆくゆくは勘定奉行と剣術師範を兼任する話もあったそうだ。
美雪はその立派な方を仇と狙い十八年もの間探し歩いた事になる。
涙が頬をつたって流れて落ちた。
又 風花の様に雪が舞い降り 椿の花びらを紅色に染めて行く。

何時しか蝉時雨の鳴く季節となった。
美雪はこの医院の[アイドル]となっていた。
良庵が診察室にいると患者達は眼で美雪を探す。
中には「大先生より美雪先生がいい」と言う患者まで表れる始末だ。
無理もない、女性の患者は大抵男性に肌を見せるのに抵抗感はあるものだ。
それが例え名医、良庵と云えどもである。

良庵は苦笑して「美雪、お前が所望だそうだ」と奥へ引っ込むのであった。
そして仁斎と酒を酌み交わし囲碁を楽しんだ。
仁斎も又 城中で何事もなければ暇を持て余していたのである。
「お前は人使いが巧いよのう」「みんな美雪に任せてのんびり碁かよ」
家の中も見違える程綺麗に片付いて 庭の手入れも行き届いていた。
佐吉夫婦ものんびり楽しく仕事してる。

過去にこんな事があった。
藩主前田公が良庵を見込んで 他藩への仕官を勧めた事がある。
勿論その藩の御殿医としてである、が・・・
良庵は「碁仇と離れるのが辛ろうござる」と断ったのだ。
前田公は面目を失ったのであるが「うん、さもあろう」と笑って答えた。
加賀藩には名医が二人居る、それが又自慢の種でもあったのだ。
他藩からも良庵を頼って来る患者もいた。 

そして城中への出入りも特別に許されていた。
その訳は仁斎一人では手の廻らぬ場合 良案が居てくれる事により多いに助かったからだ。
藩主前田公はその位 良庵を高く評価してたのである。

ある日仁斎が困った顔でやって来た。
そして「一時美雪を貸して欲しい」と言ったのである。
「実は側室のお蓮の方の事だが わしはどうもあの方が苦手でのう、美雪なら巧くやってくれると思って頼むんだが引き受けてくれんかのう。病は偏食と陽に当たらないところから来てるんだが、わしが言っても聞いてくれんのじゃ、美雪なら女同士、巧くやってくれると思って頼むんだがひとつ城中について来てくれんかのう」
良庵はこれも美雪の修行のひとつだと引き受けたのである。

側室お蓮はかなり我侭であった。
魚を食べる時には小骨まできれいに抜いてある。そして屋敷から一歩も出ようとしない。
そして仁斎が居ないと大騒ぎして「痛いの痒いの」と駄々をこねる。
遠くから眺めて仁斎は「ほら、あの方だが美雪・・・頼むぞ」と手を合わせて逃げる様に去っていった。

美雪が近付くと「誰じゃ!お前は」・・・涼しい顔して「はい、お方様専属の医者であります」「仁斎はどうした!仁斎は・・」「殿の所に参っております、今日から当分私で辛抱してくださいませ」

それから美雪のスパルタが始まった。
「お方様、外に出ましょう」まず陽の光を浴びる事から手を付けたのである。
「嫌じゃ、お前ひとりで歩いて参れ」

途端に美雪は「死にとう御座いますか!死にたくなければまず私に付いて来てくださいませ」と強い口調で言ったのであった。
今まで自分に命令した者は殿意外にいなかった。
それがこの若い医者が、それも女の医者が命令するとは・・・怒りが全身に走ったのである。

しかし死にたくはない、渋々庭の散歩をする羽目になったのだ。
最初は少し歩いて休み、休んでは歩く。
するとどうであろう、食事が美味しく戴ける。
しかしこの我侭な側室の食事には柔らかい物しか並んでいない。
それも美雪は取り上げてしまったのである。

例えば魚は小骨まできれいに抜き取ってある、根菜類は固いものはお膳の上には無い。
美雪は眼の前で骨の付いた魚をガブリと咬んで食べて見せた。
そして当分は一緒に食事を取ったのである。
其の上残った骨はもう一度油でカリカリになるまで揚げ、少し塩を振っておやつとして食べさせたのであった。

一日五~六時間の散歩、そして柔剣術の指導、これは若い藩士の教えを受けてだが、最初は根を上げていた側室も次第に元気を取り戻していった。

夜、家に帰っては良庵に逐一報告する。
「お城の中は大変ですね、庭は広いし何度も迷ってしまいました」「食事も私たちと違って固いものは食べないんですよ」と笑いながら話すのであった。

それでも十ヶ月もしたらお蓮の方は元気を取り戻したのだ。
藩公は非常に喜び「仁斎、いい弟子を持ってるのう」と・・・
「いえ、あの娘は良庵の弟子で御座います、これからは医師も女子が必要で御座いましょう」と答えたのであった。
藩公は頷きながら「良庵も偉い奴だのう、女子をあそこまで育てるとは大した奴だ」と・・・
美雪も又城内への出入りを許されたのであった。

又、こんな事もあった。
時代が落ち着いてきた今、武士も武術よりも算盤勘定ばかり考える者が多くなってきていた。
それを嘆いた藩公は 侍の魂を取り戻すべく多いに武道を奨励した。
そして城内で御前試合を度々行った。
ある時仁斎は「良庵を試合に出す様に」と進言したのである。
藩公は「仁斎、それは無理であろう、良庵は医者だぞ、剣術なんて出来る訳が無かろう」と・・・
すかさず仁斎は「だから面白う御座る、武士が医者に遅れを取っては恥、余計頑張ろうと思うのでは」

結局良庵は引っ張り出されてしまった。
そして良庵は決勝戦まで勝ち上がったのである。
決勝戦では、この藩の指南役と戦う羽目になってしまった。
良庵の竹刀は冴えた、セキレイの様に正眼の構えの切っ先が震える。
指南役は右へ左へと動き回るが 良庵の身体は静かに相手の動きに合わせ追い詰めてゆく。
最後は竹刀を置き「参りました」と頭を下げたのであった。
「いや、私こそ打ち込む隙がありませんでした、参りました」と良庵も答えたのである。

勝敗の行方は藩公には判っていた。
が 恥を欠かせない良庵の態度に感心したのだった。
藩公は頷いて「見事な試合であった」と両者を褒め称えた。
これほどの人物が市井に居る事は・・・何か仔細があっての事だろうが・・・
しかし藩公はそれを詮索する気はなかった。
だが良庵はもとより仁斎の株も上がった事は確かである。
その後、指南役も良庵宅によく訪れ 世間話をして行く様になったのである。

「仇討ちの彼方に 6」  ー寒椿ー
仁斎は言った「お前と初めて長崎で出会った頃を覚えているか」「悲壮感が漂って近付き難かったぞ」
良庵は「それはそうだろう、あの頃はわしも若かった」「医術を習得出来なかったら切腹する覚悟だったからなー」しみじみと懐かしむ様にそう言った。

お互い何でも言える仲なればこその会話であった。
良庵が「覚えているか、若君が死にかけた時のお前の慌てぶりは無かったぞ」
「うん、あの時は俺の首が飛ぶかと思った」「お前が居てくれなかったらあの治療は難しかった、助けられたよ」お互い助けたり助けられたり 今日まで過ごして来たのであった。

最初の出会いはすれ違いざまの鞘当だった。
普通ならお互い譲らず果し合いになるところだ。
だが互いが「失礼仕った」「いやいや拙者こそ」
それから身の上話を繰り返し 肝胆相照らす間柄となったのである。
医術の勉強も二人で足らざる所を補い合って切磋琢磨したのだった。

一方美雪は密かに良庵に思慕の情を持つようになっていた。
いつも優しく指導し、身を持って手本を示してくれる。
そして思慮深く誰にも分け隔てをしない。
金の無い患者にも親切に心を砕いた。

しかし美雪には言うのも恥ずかしい過去の生活がある。
それを言ったら嫌われるのではないか、との恐れを抱いて悶々としていたのであった。

そうした気持ちを知ってか知らずか 良庵は淡々と誰にも優しく接していた。
美雪の心など解っていないが如く。
美雪は淋しかった、悲しくもあった。

ついに佐吉夫婦に相談したのである。
「先生が大好きなのに察しても貰えない、どうしたら解って貰えるのかなー」
佐吉の女房は「思ってるだけでは駄目よ、旦那様は朴念仁だから言わなきゃ一生気が付かないよ」
又佐吉は「何か過去に辛い思いをなさったんだろう、美雪様が本当に旦那様に恋をしてなさるんなら思い切って言ってごらん、我々も応援してあげるから」・・・

紅葉の季節も過ぎ雪混じりの木枯らしが吹く頃になった。
美雪が此処に来て三年の月日が経っていた。
時の経過と共に美雪は益々若々しく美しくなってゆく。
それは本当に心の傷の癒えた証拠でもあった。

思い切って仁斎の屋敷を訪れた美雪は 雪吊りの続く庭先を歩いて玄関に向かっていた。
「おや、美雪さん、元気のない顔してるわねー、何かあったの?」仁斎の妻お涼が声を掛けた。
泣きそうな顔で「先生 いらっしゃいますか?」「ええ、座敷で鼻くそでも掘ってるでしょう、上がりなさいな」とお涼・・・・・
「おう、美雪 来たか、思い詰めた顔してどうした?」
「実は先生にお話したい事がありまして・・・教えてください」と・・・

そして自分の十八年間の仇討ちの旅の話、父親の犯した罪などを淡々と語ったのである。
「今の幸せを失いたくないのです、良庵先生をお慕いしてるのですがそれを言ったら嫌われるでしょうか?」
「うーん、難しい問題だな、さて良さんどう出るかな・・・」「しかし美雪が心から惚れたのなら当たって砕けろ だな」

その夜、良庵の前に座った彼女は全てを話し「女の私から言うのは はしたない事は解っているのですが先生が大好きです、愛しているんです」と 涙混じりで訴えたのである。
「少し時間をくれないか」良庵も困惑した表情でそう言ったのだった。
暫くは良庵も押し黙って考えていた。

そして五日後に仁斎の家に赴いたのである。

「おう、待ってたぞ色男」と仁斎・・・「お前まさか死ぬ気じゃないだろうな」
良庵は何故知ってるんだ、と訝ったが 図星を指され戸惑ったのであった。
「うん、俺のお陰であの娘に苦労かけたかと思うと居ても立っても居られなくてな」
「あの娘は思慮分別のある聡明な娘だ、お前の生きて来た道をきちっと話してやれよ」と仁斎。

「お前が首を差し出しても喜ばないぞ、美雪はもう何年も前から仇討ちなんて捨てておる」「いじらしい娘じゃのう、恋するとはそう云うものかな」と笑った。
そして「お内儀の事だが、今は大店の女将として旦那を尻の下の敷いて幸せに暮らしているそうじゃ、安心しろよ」
「しかし女は怖いのう、お前の話では貞淑な妻だったと聞いていたが 何でも今は完全な『かかあ殿下』だそうじゃ」
良庵は常日頃から妻の無事息災を祈っていた。

肩の力が抜けてゆくのを感じたのである。

『寒椿』                    

「仇討ちの彼方に 1」  ー寒椿ー
木枯らしの吹く寒い夜であった。
「旦那様、あんな所に人が倒れてますよ」下男の佐吉が指を指した。
医師良庵は「行き倒れであろう、どれどれ」と道端の天水桶の陰で 息も絶え絶えの人影に近ずいて行った。

「佐吉、何処かで大八車を探して来なさい」「早く治療しないと仏さんになってしまう」
早速家に連れ帰り念入りに診た結果 寒さと栄養失調でそのまま置いておいたら死んでいただろう と思われる状態であった。
咳も酷い、肺もやられているかも知れない。
見たところ三十前後の女性の様である。

三日三晩 熱にうなされうわごとの様に何かを言ってるが 聞き取れる状態ではなかった。
佐吉は「助かりますかねー?」と心配したが良庵にもそれは判らぬ事であった。
「唯 助かりたいと思う気持ちがあれば助かるがその気が無ければ駄目だろう」と・・・

良庵はここ加賀百万石の城下町でも評判の名医ではあったが この行き倒れの女性を治す自信はなかった。
相当荒れた生活を送っていたのであろう、そしてここ数日は何も口に入れた事も無い程衰弱しきっている。

佐吉は夜昼なく必死に看病した。
おも湯を開かぬ口に流し込み、身体のあちこちの冷えた所をさすりながら 女房に身体が冷えない様にと添い寝をしてあげる様指示し 献身的に尽くしていた。
四日目にしてようやく肌に赤みが差してきた時 佐吉夫婦は手を取り合って喜んだ。

しかしまだ起き上がる事は出来ない。
時々乾いた咳をコンコンと吐き良庵を悩ました。
やがて松も取れ梅の花のほころぶ季節になった頃、やっと床の上に座る事が出来る様になったのである。
女性はほとんど口を利くことが無かったが 礼儀は正しく言葉は武家言葉であった。

佐吉は「これだけ世話になって何故いろんな話をしてくれないのか」と愚痴をこぼしたが 良庵は「人に言えない苦しい過去が有ったのであろう、そのうち心を開いてくれる日が来る」と佐吉を嗜めたのだった。

御殿医の仁斎がやって来た。
町医者と御殿医とはいわば商売仇、だが良庵の人柄の良さと医術の確かさでお互い認め合った仲、大の親友である。
「ほう、大分元気になった様じゃのう」「ところで名は何と申す?」「あやめと申します」「おう、武家の出か・・・で、国は何処かな?」
その女性、あやめは口をつぐんだままそれ以上は語ろうとしなかった。
良庵は「そのうち心の氷も溶けるだろう 性急に聞く事もなかろう」と笑って仁斎に答えたのである。

桜咲き蝉の鳴き声が騒がしくなる頃、やっと庭先に出て歩く事が出来る様になった。
そして佐吉夫婦とぼつりぼつりと話をする様になったのである。
だが相変わらず肝心のところは話をしたがらない。
不思議な女だな と佐吉は思った。

中秋の名月の頃 あやめの病気は全快した。
その頃には頬の肉もつき めっきり女らしく明るくもなったのであるが 何かを逡巡してる様子が見て取れたのである。
良庵が「もう大丈夫だ、路銀はあるのか?」「まだ旅は長いのであろう」と言っても「ええ・・・」と答えるだけで一向に旅立つ気配が無い。

もうすぐ年を越そうと云うある日、あやめは佐吉に相談した。
「此処に置いて欲しいんですけど先生はお許しくださるかしら?」と・・・
佐吉は「それは旦那様の気持ち次第だが あやめさんは何か目的が有っての旅をしているんでしょう、それを正直に話してお許しを得る事ですね」と答えたのであった。
あやめは良庵が許すかどうか不安な気持ちで 彼の前に座った。
そして努めて冷静に話を始めたのである。

ここ十年以上ある人物の消息を求めて 旅を続けていた事。
しかしもう 7~8年前からその力も失せ 全て路銀も使い果たし 乞食の様な生活をしながら、時には春をも売って身を汚し此処まで辿り着いたのだと・・・
倒れる10日前から水しか飲んでいなかったと・・・
もうここで死ぬのも運命だと諦め死を覚悟して倒れ込んだ と云う訳だ。
目的半ばで死ぬのも悔しいが 会ってみたところでどうにも成らない事だと。

全てを捨て新しい人生を歩けたらどんなにか幸せであろう・・・と
黙って良庵は聞いていたがおよその察しは付いていた。
「少し私にも時間をくれないか、悪い様にはしないから」
こうして大晦日を迎えたのである。
月明かりに照らされ 夜目にも鮮やかに寒椿が咲いていた。

良庵は仁斎に相談した。
巷では「あの良庵先生ともあろう方が『夜鷹』を拾って来て面倒を見てる」「ちょっと変だとは思わないか」口さがない連中の噂にもなっていたのである。
仁斎は「良さん、人の噂なんて気にする事はないが 素性が判らぬのが引っかかるのう」「人間は悪い女では無さそうだが、後は良さんの気持ち次第だな」と・・・

その夜、再び良庵はあやめを呼び「何故此処で働きたいのか、十年の長きに渡って捜し歩いた心を捨てて良いのか?」とたずねた。
彼女は言った「私は一年前に死にました、どうにもならない旅を続けて死んで行くより 先生のところで生まれ変わりとう御座います」

除夜の鐘の鳴る頃 皆の集まる席で良庵は言ったのである。
「あやめは今から此処の家族になる、皆もそのつもりで労わって教えてやってくれ」と・・・
あやめは良庵に「先生、出来たら名前を代えとう御座います、今までの私で居たくありません、新しい年から新しい名で出発しとう御座います、私に名前を付けてくださいませ」
「うん、それも良かろう」

暫く考えて「美雪・・・と云うのはどうじゃ、ほら美しい雪が振り出したであろう、除夜の鐘が鳴り終わったら皆 美雪を宜しくな」と・・・
皆、一様に驚き、又 歓声で沸き返った。
美雪も新しい晴れ着に袖を通し喜びに溢れていた。

事実 最初のやつれ果てた姿が嘘の様に 二十五歳の年齢の明るい笑顔がはじけて可愛かったのである。

皆で初詣に出掛け、今年の無事息災を祈り帰って来た時にはもう患者が待っていた。
医者の仕事には盆も正月も無い。
早速診察に取り掛かる。
美雪は良庵の指示に従って てきぱきと良く働く。
そんな姿に「これはよい拾い物をしたな」と良庵は眼を細めた。

佐吉夫婦も 日頃診療室以外の掃除がなおざりになっていたのが出来る事に喜んでいた。
庭の植え込みを刈り上げながら 綺麗になって行く姿に顎を撫でながら満足したのだった。
真っ赤な寒椿が雪の白に映え美しく輝いていた。

それから一年の後
町の人の信頼も得た美雪は 生き生きと師匠の代わりに簡単な治療を任せられ 診察室で治療を行っていた。
仁斎と碁を打ちながら良庵は「どうだ、良い娘だろう」
仁斎は「しかし不思議な縁じゃのう、でも俺の立場だったら雇う事は出来んからのう」「町医者なればこそ出来る芸当だな、羨ましい限りじゃ」と・・・
なるほど御殿医では身元の解らぬ者は雇い入れる事は出来ない。
町の医師なればこそ出来る事であった。

この一年美雪はめっきり明るくなった。
そして自分から冗談を言う様になったのである。
良庵に非常に懐いた。

佐吉が「美雪様の昔話を聞きたいなー」と言ったところ「全てはお先生にお話してからね」と笑って答えたのである。
そして「庭の椿が美しいわね」と、遠くを見る様な顔で静かに見ていた。
今の幸せが夢の様な気がする。
突然逃げて行きそうな不安も感じた。
再び椿の花を見つめ長い長い旅の終わりも感じていた。

「仇討ちの彼方に 2」  ー寒椿ー
今を去る事十八年・・・
さる西国の小藩での出来事から始まる。
その藩に木村左衛門なる人物が居た。
藩の重臣ながら非常に粗暴ですぐ刀を抜きたがる。
そして無頼の輩と組み 賭け事をして町人から金を巻き上げ『呑む、打つ、買う』の三拍子。
怖い者知らずの暴れ者、朋輩からも嫌われ誰も相手にはしなかった。
とは云え重役となればどうしても関わりを持たねばならぬ。

その男が一番好きな遊びと云えば将棋であった。
大して強くも無いが皆 後々の事を考えて負けてやる事にしていたのである。
だから自分が一番強いと思い込んでいたのだ、が・・・
だがしかし 彼にはどうしても目障りな存在の男が居たのである。
軽輩ながら藩内随一の剣の達人、そして学問も優れた男が・・・

彼は思慮分別をわきまえた人望も厚い男であった。
その名を藤堂新九郎・・・人呼んで『音無し新九郎』(相手と刃を交えずして一撃で倒す所からそう呼ばれた)と云った。
道場に於いても決して禄高で手加減はしない。
何時もの事ながら左衛門もしたたかに打ち据えられ 床に這いつくばって歯軋りを咬んでいたのであった。

左衛門は考えた。
「よし、将棋なら苦も無くひねってやれる、ひとつ将棋で勝負をしてやろう」
左衛門は新九郎に賭け将棋を申し込んだのである。
どちらかが負ければ禄高の半分を差し出す、と云う条件で・・・
立会人には同藩の朋輩を付けての勝負である。

最初は新九郎は丁重に断ってはいたが 町中に「受けて立たぬのは卑怯者のなせる技だ」と言いふらし 噂を流したのであった。
やむなく新九郎も受けざるを得なくなったのである。
いよいよその当日がやって来た。
新九郎の妻 香奈枝は「あのお方はどんな卑怯な事も平気でなさる方、くれぐれもご用心なさいますよう」と送り出したのである。

勝負は左衛門の「待った待った」の連続でなかなか進まない。
「こんな筈ではなかったが・・・」「俺は今まで負けた事がないのに」左衛門は焦った。
そして数回の「待った」の末、新九郎は「もう終わりましょう、この勝負引き分けでいかがで御座ろうか」
見る見る顔が高潮した左衛門は 侮辱されたと思い いきなり抜刀して新九郎に襲い掛かってきたのだ。

身を交わしながら「止められよ、たかが将棋であろう、引き分けで良いのでは」しかし逆上した左衛門には 余計恥をかいた思いがしたのである。
ついに部屋の隅に追い詰められた新九郎は 脇差を抜くなり横に祓ったのだった。
それが胴を深々と斬り裂いてしまった。

「しまった」新九郎は慙愧の思いで一杯になった、そして家で待つ妻を思った。
そして我が家に急ぎ戻り妻に事情を話すと共に『離縁状』を書いたのである。
親戚、縁者に類が及ぶのを避ける為 最愛の妻を里に戻したのであった。
そして旅支度も早々にその城下から姿を消した。

町中は大騒ぎとなった。
そして新九郎の行為に拍手喝采を送ったのである。
戦乱の世も終わり 太平を享受できる様になった頃の事である。

又 城中でも新九郎の心中を察し同情する者も多く居たが 脱藩する者に対する処分は死罪と決められている以上 口にする事は出来なかった。
唯、皆、無事に逃げてくれる事を祈るのみであった。

左衛門の息子(金之助)はまだ十二歳、そして娘(静香)は七歳であったが【仇討赦免状】が出て 新九郎を討つべく旅立つ事になった。
叔父甲子郎も同道する事になった、子供二人では到底返り討ちになるのは目に見えていたからである。

又 藩内からも脱藩者成敗の為の腕達者の者が三名、新九郎を追う事になった。
しかし藩命とは云え 三人の刺客は新九郎を殺す気持ちはさらさら無かったのである。
「あれは元々左衛門が悪いんだ、死んでくれてありがたいと藩も感謝しなきゃーな」
「そうだ町人たちも俺達もホッとしとるんじゃからのう」「あいつは藩の恥曝しだったからな」銘々声高に喋る。

それを金之助、静香は黙って聴いていた。
甲子郎は苦々しげに聞いてはいても 反論する事も出来なかった。

刺客達は何とかして新九郎に出会わなければ良い、と思ってわざとゆっくり歩く。
新九郎の強さはよく解っていたが それより彼の人望がそうさせていたのである。
甲子郎はそんな刺客達に苛立ちを見せた。
が 彼等は何処吹く風、気ままに旅を楽しんでいたのであった。

やがて一年が過ぎた。
「これ以上の探索無用」と藩からの使者が来たのである。
甲子郎は怒った。
「藩命に背いた者をそのままにして良いのか!」と・・・

だが彼等は「これが藩命、武士の掟よ」と冷たく言い放ち 去って行ったのである。
叔父と兄妹は呆然と見送るだけであった。
甲子郎は「いざ対決する時には用心棒を雇わねば」と考えていた。
「彼に勝つにはそれしか無い」と・・・