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その後の私3

2016年12月20日
真夜中の電話・・・
彼女からの電話だった。
妻の言う事を聞けばよかったが私には解らない・・・
睡眠剤を飲んでどうかしてたのかもしたのか?
私には解らないが電話の声を聴いて私は動揺した。
彼女は「私はいつも不幸だ・・?」と訴えた。
哀しい日が300日・・どうぞ助けてくれ・・・と
早速彼女のアパートに車を走らせた。
彼女は風邪をこじらせて寝ていた。
そんな彼女を看病してた時彼女が抱き着いてきた。
私は自分の心に正直に抱いた。
彼女には男がいた。
私は彼女にはめられた。
そして罠に落ちた。

私はベルサイユの市民だ。
だが彼女の罠に落ちた。
そしてヨーロッパに連れてゆくことにした。
そこで問題が起きた。
彼女はジュエリーの店でダイアモンドが欲しいと駄々をこねた。
当日は名誉諮問の表彰のある日。
私は全ての予定をキャンセルして彼女の0意見に従った。
大きな仕事もすでに捨てて・・・
そして彼女がヒェレンツエで怪我をした。
日本に帰って来た時私の居場所は無かった。
私の妻は私の財産をすべて奪って消えた。
家も何もかも私は無くした。
そして3月 東日本大震災で彼女が病気{精神病}になった。
病院からは入院を勧められたが彼女が拒否した。
それから長く病院との付き合い。
そして気分転換の為に旅行もした。
多くの借金を抱え・・・彼女は治った。
私は小さな家を建て再出発を誓った。
だが最後には脳梗塞で倒れた。
そして下半身不随になり私はもい一度水彩を取ろうと筆を買ってきた。
まっすぐの線を引けるまで水彩を描こう・・・
と まだ油絵を描こうと考えてる。
人生は生まれてきた時も裸だ・・・
死ぬときもやはり裸だろう・・・
私は良い時代に生きたのかもしれん・・・
ボタンの掛け違いをすればこんな時代もあるか??


その後の私2

2016年12月18日
警察が訪ねてきた。
私が誘拐罪で訴えられてると・・・
その両親が私を訴えたのである。
警察署に連れて行かれ私は取り調べをされる所だ・・・
「相思相愛だよ」これは調べる必要はないね。
警察の見解は、そう判断出来た。
彼女を取り調べた刑事が言った。私たちは解放された。
私は東京の画商の求める通り海の見える岬町の少し引っ込んだところに住まいを構えた。元々動物好きだった私はいろんな動物を飼った。犬《九匹》ヒヨドリそれがアトリエの中を走り回る。そして十年以上が経った。
いろんなところで個展を開いた。こうして私の人生を終わるのか・・・?
私の晩年はこれで終わりか・・・
妻を連れ欧州各地を回った。
俺はこのルーブルに絵を飾るんだ。
私の口癖だった。
アンデーが撃たれた。
私は同じ時代0を生きた仲間を失った。
なんだか寂しくなった。アンデイーは大理石会社の社長をしてたはずだ・・・
だが親父のボスの身代わりになって撃たれたそうだ。
妙にセーヌの風がむなしく吹いた。
家には沢山の動物が暮らしている。
私にはこの動物達と暮らす生活が一番合ってるのかな・・・
そうなればもう少し大きな家を持たないと・・・
私が家を建てる気になったのはそんな訳だった。
そうすれば好きな家を持ち楽しく暮らせるんじゃないか・・・?
大きなアトリエ、池には鯉を飼って。
仕事も一生懸命して個展活動をして。
そんな折ある会場に女性が訪ねて来た。
《魔がさしたとしか言えない》
私は網にかかった昆虫の様に感じた。
《地獄から天国へ 私の心は漂っった》

その後の私

2016年12月16日
私はその後転々と職場を変わりヨーロッパ飛んだ。
ひろい世界を見れば何かが変わるかもしれないと思ったからだ・・・
そしてパリアカデミーに入学した。
卒業後ヨーロッパ中を転々としながら絵を描き続けた。
そして大きな賞を得た。
日本では法律も変わり私の生きるところはなくなっていた。
ㇰリスチャン・ラングレアー彼は私の母校の教師だった。
彼は私にグローリーを紹介した。
そして又私にはレオとアンデイーと云う友人もできた。
私には夢の様な暮らしだった。
決して金持ちではない。
が楽しい暮らしだった。レオはフォーミュラーのレーサーだった。
アンデイーの父親はマヒュアのボス・・・
グローリーは金髪の美女、私の可愛い少女だった。
私の人生は多いに変わった・・・かに見えた。私たちレオ、アンデイーと組んで悪さをして歩いた。
また三人と組んでパリダカールとモンテカルロれースにも出た。
金を儲ける為にフランス外人部隊にも入った。
だがアンデイーは反対した。
そしてパレスチナでレオが頭を飛ばされ死んだ。弾き飛ばされた我々は夢中で引き金を引いた!!
そしてフランスに帰った私はグローリーの一言であった。
「私は人殺しと結婚する気はない」「貴方は私の結婚するべき人ではない」焼身の私は帰国する事になった。!

帰国した私は全国を廻って歩き多くの作品を発表して数々の賞を得た。
またいろんな所で働き作品を発表した。私は糸の切れたタコの様に放浪の生活をした。そんな中にもある教室で見知らぬ少女と出会った。
私はその少女に恋をした。
その少女は私のアパートに訪ねてきた。

その年の夜中 伊勢湾台風が襲った。
私は先生の家に向かった。私は先生の家に向かった。風速40メートル立つ事も難しい風の中・・・先生の家は無事だったが・・・あちらこちらに家が飛ばされむき出しに中に人が座っていた。
その後瀬尾俊平の家に向かった。
女子生徒たちがみんなで握飯を作ってた。
南の海岸通りには五千人以上が死んだそうだ。
南岸にはそうした死体が材木の下に眠っている。
男たちはその死体をトラックに積み「カコウ山」の火葬場まで運んだ。

私の成績は決して良くはない。
だが寛さんの(物理)授業はいつも及第点だった。
そして俊平の点数も又良かった。体育の先生だけは「体育祭だけ元気がいいのは駄目」と叱られた。三年の時には大口先生から油絵を習った。
その年の夏 私は空手初段を取った。
そして卒業式前日に校長に呼ばれた。「俺はお国の為に三人の子供を亡くした」「お前みたいな不良を卒業させる訳にはいかん」校長は私に卒業させないと宣言した。

だが私は大学に入った。
当時の大学は60年安保でもめていた。
私も安保闘争に加わった。
社会党の浅沼稲次郎が暗殺された。
そして6月のある日、全学連は国会議事堂に雪崩れ込んだ。
府中になって機動隊の車をひっくり返し火を付けた。
東大生、樺美智子さんが機動隊のこん棒で殺された。
私たちは逮捕されて拷問に似た取り調べを受けた。
そして解放された時待っていたのは大学からの自主退学の手段だった。
その後私は美大に進んだ・・・

少年時代3

2016年12月11日
岡崎さんは酒癖が悪い。
酔うとすぐ喧嘩をする。
私はなだめるのに必死だった。
良く殴られた。 相手は行き掛かりの住人である。
私は強くならねば・・・と思った。
そして講道館の門をくぐった。時の城主である『三船十蔵』先生に頭を下げた。
祖s手私の柔道人生は始まった。先生は私に「常盤台の家に遊びに来るように・・・」と言われた。私の直接の師匠は醍醐六段だった。
先生は師匠仕込みの立ちい振る舞いは厳しかった。
だがそこで食った ぜんざいの味は忘れられない。鏡開きのその日は忘れられない。私は13人抜きをして2段を取った。
もう恐れる者はいなかった。岡崎さんは相変わらず暴れまわっていた。
ある時は壁をぶち壊し、刃物を持って会社に殴り込みをかけたり・・・
その尻拭いは私の役目だった。
私はそんな私自身に腹がッ立った。
だが黒田さんの御婆ちゃんには良くして貰った事がそうした我慢を和ませた。
その年二月の夕方頃・・・
工場に一人の男が現れた。
それが私の生涯の恩師『山本寛』さんである。
社長黒田総ノ粂との寛さんは長い間話をしてた。
寛さんはわたしに言った「おい山口どこ等に
そして私が呼ばれたおい山口、どこかに借金をしてるんじゃないか?」「私はどこにも借金はしてないよ」黒田さんは「そんな男じゃない」と笑ってた。
寛さんは懐の財布を仕舞いながらそうかそんな男じゃないか?」
そして二人は駅前の旅館に行った。
私はトボトボと付いて行った。
旅館に着いた。
「ここでは本当の名前で書こうな」私は岡田先生の所では「山智舟一」と名乗っていたから・・・
寛さんは何も聞かなかった。
私は学校に戻った。
私の担任は瀬尾俊平・・・寛さんとさほど変わらぬ年頃だったと記憶してる。
私の同級生は三年・・・私は二年生・・・
私はよく問題を起こす生徒だった。
しょっちゅう喧嘩をする。相手は街の愚連隊・・・警察に寛さんが引き取りに来た。ある日真夜中の事だ。寛さんが警察の帰りに 夜泣きそばでも食べて帰ろう・・と言った。其処でボソッと「蛮勇と真の勇気は違う」と私に言った。
頭を撃ち抜かれた様な気がした。俊平は言った。職員会議で寛さんが「自分の首を掛けてもいい・・・私を「助けたい」と高長いに言って私の下に来たのだ。
私は「もう喧嘩は出来ないな・・・」と誓った。

青年時代3

2016年12月10日
私の妹だろうか?
「どちらさんですか?」「私は山口のぼるだが親父はいるかな?」
「父は出かけていますけど・・・どちらの方ですか?」
「息子ののぼるだが・・・?」「あなたの事は存じ上げません」
話はならなかった。
「また出直してくるよ・・・」と家を出た。
だが何度行っても駄目だった。私は途方に暮れた。
数回の訪問の後「私にはあなたの様な兄はおりません」
との返事の後突然の引越し、
私は途方に暮れた・・・
「やっぱり私には親がいないんだ・・・」
私は行くところが無かった。
今更、学校に戻る事は出来ん。
私は東京の出版社を訪ね「漫画家になりたいんだけどどこか紹介してくれないか?」と頼み込んだ。
丁度そこに居合わせた 岡田あきら という表紙絵を描く先生に拾われた。
その先生は手塚治虫のレイアウトをやってた。
私はいつもその仕事の色付け、とか使い走りをした。
しかし自分の食い扶持は稼がねばならない。
必死になって製本屋に飛び込んだ。その製本屋は黒田製本屋と言う。
角川の続本屋だった
小さな小屋の住み込みだった。
「そこには茂さん、勇さん、岡崎さんとが住んでいた」
四畳半の小屋である。

少年時代2

2016年12月07日
中学校の先生は言った「とにかく勉強しておけよ」「人生何が起きるか解らん」
「お前なら何かできるかもしれん」私は何ができるか解らんが兎に角勉強しておこう・・・と思った。
いつの間にか私はクラスの人気者になった。
絵がうまい、漫画が描ける 新聞部の加藤の依頼で表紙絵のデザインも書かせてもらう。
その中に肉屋とかケーキ屋のレイアウトも描いた。意地悪な生徒の嫌がらせに合い何度か殴られもしたが。
今は勉強する時だと 我慢した。
私は強くなった。だがまだどう強くなったのか?解らん!
たが目標が出来た事は確かだ。余りにも勝手な事には腹がたたなくなった。
ただ勉強にマイナスすることで能力を使いたくなかった。

それから一年がったった。
私は中学生になった。

そしてまた一年・・・
学校の帰りに警察署の道場があった。
いつもの様に窓から覗いてみると後ろから声が聞こえた。
師範の柴崎先生だ「坊主教えてやるから上がってこい」こうして許可を得て柔道を教えてもらう事になった.
高校は中学の隣・・・
師範の先生は西の方にある米田道場の先生でもあった。
私は先生の助手として道場の下働き・・・
必死になって働いた。
人ず手ではあったが・・・私の親父らしい人に会ったという話を聞いた。
いても経ってもおられずに府中刑務所を訪ねた。
彼はその刑務所の所長だそうだ。
その家を訪ねた。

少年時代!

2016年12月07日
転校した私に貸せばれたのは先日行った遠足の思い出の絵を描いて来いとの宿題だった。勿論私は宿題には行ってない。私は自由に描いて由との先生の指示・・・
私は自由にのびのびと描いた。
だが先生の「これは子供の描いた絵ではない」と却下された。
違う「これは私の絵だ!」と言ったがこの嘘つきと往復ビンタをくった。
私はもう絵なんか描くもんか!と思った。
私は文学にのめり込みいろんな物を読んだ。
そして学校には絵も描かず一人で目に見える景色を何でも描いた。

その頃巷では手塚治虫の漫画がヒットしてた。
私も真似して描いてみた。
いつか学校では漫画の上手い山口と評判になった。
私はその弟子の「武内つなよし」の弟子になろうと手紙を出した。
その返事は「これからの時代はただ絵が描けるだけでは駄目だ、しっかり勉強して高校卒業してから、その気があったら弟子にしてあげよう」と言われた。
私には親は居ない。
だが勉強して高校に行こう。

私は一生懸命勉強して時間担当の先生に相談した。

記憶に残ってることは私の街に如何しようもないガキ大将がいた。
1920年代どこの町でもこうした輩はいた。
そしてその町でもこうしたグループが町を闊歩していたのだ。
年下の子供たちはこうした仲間が仕切りその町を仕切り絶対な力を誇っていた。
私の町のボスは豆腐屋の倅で腕っぷしが強かった。彼等の「いう事は絶対だ」
森の中に寝起きをして悪の限りをした。
鰻屋のいけすを襲いウナギを逃がして・・・
みたり大木に登っている隣町のガキを落として骨折をさせたり・・・
また隣町の女の子を襲ったり・・・(まだ子供の体だから生理などないが)
ガキ大将が持って来た春画を参考にポーズを付けるのである。
私達は忠実にガキ大将の言う事に従ったのだが・・・
近くの漁師たちが仕掛けた網を夜中に行って魚を盗んだりして追いかけられて必死になって川向こうの岸まで泳ぎいつの間にか対岸の岸に泳ぎ着き・・・知らないうちに泳ぎを覚えてしまった。
或る日を境に私は矛を収めてきた。
ウナギ屋のキャラメルを買うとおまけで(世界の名作集)の本が貰えた{良い時代}の話であるが・・・
集るように本を集めて読んだ。
そして肥桶の柄でたたき付けた。
そして背負い投げでたたき付けた。
全ての思いをこめて・・・
私は転校をしたのだが・・・ウナギ屋のキャラメルを買うとおまけで(世界の名作集)の本が貰えた{良い時代}の話であるが・・・
集るように本を集めて読んだ。
私はそれを期に転校したのだが・・・

ある人生(アホ)

2016年12月04日
今日久しぶりにコーヒーを飲んでパソコンの前に座った。
これは私の小説ではない。
人生いろんな生き方がある。
私は良いことも悪い事もやってきた。
何も残さずに生きる事に疲れた。
思い残さずに書き記しておこう。
私の人生は実に波乱に富んでる  或いは好んでこんな人生を選んだ訳でもないが人生の折々に変わった道を選んだのかもしれない。
私はこれは好んでこの道を選んだ訳でもない しかし選んだ道である以上この道を歩かねばならない。
死を考えた事もある。
これは小説ではない。
私の歩みを伝える道を考えて書き記した事だ。
ただ誰にも伝えられず死にゆく身が辛い。
さてこれから書く事を考える事を皆はどう思うか・・・・・