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その後の私

2016年12月16日
私はその後転々と職場を変わりヨーロッパ飛んだ。
ひろい世界を見れば何かが変わるかもしれないと思ったからだ・・・
そしてパリアカデミーに入学した。
卒業後ヨーロッパ中を転々としながら絵を描き続けた。
そして大きな賞を得た。
日本では法律も変わり私の生きるところはなくなっていた。
ㇰリスチャン・ラングレアー彼は私の母校の教師だった。
彼は私にグローリーを紹介した。
そして又私にはレオとアンデイーと云う友人もできた。
私には夢の様な暮らしだった。
決して金持ちではない。
が楽しい暮らしだった。レオはフォーミュラーのレーサーだった。
アンデイーの父親はマヒュアのボス・・・
グローリーは金髪の美女、私の可愛い少女だった。
私の人生は多いに変わった・・・かに見えた。私たちレオ、アンデイーと組んで悪さをして歩いた。
また三人と組んでパリダカールとモンテカルロれースにも出た。
金を儲ける為にフランス外人部隊にも入った。
だがアンデイーは反対した。
そしてパレスチナでレオが頭を飛ばされ死んだ。弾き飛ばされた我々は夢中で引き金を引いた!!
そしてフランスに帰った私はグローリーの一言であった。
「私は人殺しと結婚する気はない」「貴方は私の結婚するべき人ではない」焼身の私は帰国する事になった。!

帰国した私は全国を廻って歩き多くの作品を発表して数々の賞を得た。
またいろんな所で働き作品を発表した。私は糸の切れたタコの様に放浪の生活をした。そんな中にもある教室で見知らぬ少女と出会った。
私はその少女に恋をした。
その少女は私のアパートに訪ねてきた。


その年の夜中 伊勢湾台風が襲った。
私は先生の家に向かった。私は先生の家に向かった。風速40メートル立つ事も難しい風の中・・・先生の家は無事だったが・・・あちらこちらに家が飛ばされむき出しに中に人が座っていた。
その後瀬尾俊平の家に向かった。
女子生徒たちがみんなで握飯を作ってた。
南の海岸通りには五千人以上が死んだそうだ。
南岸にはそうした死体が材木の下に眠っている。
男たちはその死体をトラックに積み「カコウ山」の火葬場まで運んだ。

私の成績は決して良くはない。
だが寛さんの(物理)授業はいつも及第点だった。
そして俊平の点数も又良かった。体育の先生だけは「体育祭だけ元気がいいのは駄目」と叱られた。三年の時には大口先生から油絵を習った。
その年の夏 私は空手初段を取った。
そして卒業式前日に校長に呼ばれた。「俺はお国の為に三人の子供を亡くした」「お前みたいな不良を卒業させる訳にはいかん」校長は私に卒業させないと宣言した。

だが私は大学に入った。
当時の大学は60年安保でもめていた。
私も安保闘争に加わった。
社会党の浅沼稲次郎が暗殺された。
そして6月のある日、全学連は国会議事堂に雪崩れ込んだ。
府中になって機動隊の車をひっくり返し火を付けた。
東大生、樺美智子さんが機動隊のこん棒で殺された。
私たちは逮捕されて拷問に似た取り調べを受けた。
そして解放された時待っていたのは大学からの自主退学の手段だった。
その後私は美大に進んだ・・・

少年時代3

2016年12月11日
岡崎さんは酒癖が悪い。
酔うとすぐ喧嘩をする。
私はなだめるのに必死だった。
良く殴られた。 相手は行き掛かりの住人である。
私は強くならねば・・・と思った。
そして講道館の門をくぐった。時の城主である『三船十蔵』先生に頭を下げた。
祖s手私の柔道人生は始まった。先生は私に「常盤台の家に遊びに来るように・・・」と言われた。私の直接の師匠は醍醐六段だった。
先生は師匠仕込みの立ちい振る舞いは厳しかった。
だがそこで食った ぜんざいの味は忘れられない。鏡開きのその日は忘れられない。私は13人抜きをして2段を取った。
もう恐れる者はいなかった。岡崎さんは相変わらず暴れまわっていた。
ある時は壁をぶち壊し、刃物を持って会社に殴り込みをかけたり・・・
その尻拭いは私の役目だった。
私はそんな私自身に腹がッ立った。
だが黒田さんの御婆ちゃんには良くして貰った事がそうした我慢を和ませた。
その年二月の夕方頃・・・
工場に一人の男が現れた。
それが私の生涯の恩師『山本寛』さんである。
社長黒田総ノ粂との寛さんは長い間話をしてた。
寛さんはわたしに言った「おい山口どこ等に
そして私が呼ばれたおい山口、どこかに借金をしてるんじゃないか?」「私はどこにも借金はしてないよ」黒田さんは「そんな男じゃない」と笑ってた。
寛さんは懐の財布を仕舞いながらそうかそんな男じゃないか?」
そして二人は駅前の旅館に行った。
私はトボトボと付いて行った。
旅館に着いた。
「ここでは本当の名前で書こうな」私は岡田先生の所では「山智舟一」と名乗っていたから・・・
寛さんは何も聞かなかった。
私は学校に戻った。
私の担任は瀬尾俊平・・・寛さんとさほど変わらぬ年頃だったと記憶してる。
私の同級生は三年・・・私は二年生・・・
私はよく問題を起こす生徒だった。
しょっちゅう喧嘩をする。相手は街の愚連隊・・・警察に寛さんが引き取りに来た。ある日真夜中の事だ。寛さんが警察の帰りに 夜泣きそばでも食べて帰ろう・・と言った。其処でボソッと「蛮勇と真の勇気は違う」と私に言った。
頭を撃ち抜かれた様な気がした。俊平は言った。職員会議で寛さんが「自分の首を掛けてもいい・・・私を「助けたい」と高長いに言って私の下に来たのだ。
私は「もう喧嘩は出来ないな・・・」と誓った。

青年時代3

2016年12月10日
私の妹だろうか?
「どちらさんですか?」「私は山口のぼるだが親父はいるかな?」
「父は出かけていますけど・・・どちらの方ですか?」
「息子ののぼるだが・・・?」「あなたの事は存じ上げません」
話はならなかった。
「また出直してくるよ・・・」と家を出た。
だが何度行っても駄目だった。私は途方に暮れた。
数回の訪問の後「私にはあなたの様な兄はおりません」
との返事の後突然の引越し、
私は途方に暮れた・・・
「やっぱり私には親がいないんだ・・・」
私は行くところが無かった。
今更、学校に戻る事は出来ん。
私は東京の出版社を訪ね「漫画家になりたいんだけどどこか紹介してくれないか?」と頼み込んだ。
丁度そこに居合わせた 岡田あきら という表紙絵を描く先生に拾われた。
その先生は手塚治虫のレイアウトをやってた。
私はいつもその仕事の色付け、とか使い走りをした。
しかし自分の食い扶持は稼がねばならない。
必死になって製本屋に飛び込んだ。その製本屋は黒田製本屋と言う。
角川の続本屋だった
小さな小屋の住み込みだった。
「そこには茂さん、勇さん、岡崎さんとが住んでいた」
四畳半の小屋である。

少年時代2

2016年12月07日
中学校の先生は言った「とにかく勉強しておけよ」「人生何が起きるか解らん」
「お前なら何かできるかもしれん」私は何ができるか解らんが兎に角勉強しておこう・・・と思った。
いつの間にか私はクラスの人気者になった。
絵がうまい、漫画が描ける 新聞部の加藤の依頼で表紙絵のデザインも書かせてもらう。
その中に肉屋とかケーキ屋のレイアウトも描いた。意地悪な生徒の嫌がらせに合い何度か殴られもしたが。
今は勉強する時だと 我慢した。
私は強くなった。だがまだどう強くなったのか?解らん!
たが目標が出来た事は確かだ。余りにも勝手な事には腹がたたなくなった。
ただ勉強にマイナスすることで能力を使いたくなかった。

それから一年がったった。
私は中学生になった。

そしてまた一年・・・
学校の帰りに警察署の道場があった。
いつもの様に窓から覗いてみると後ろから声が聞こえた。
師範の柴崎先生だ「坊主教えてやるから上がってこい」こうして許可を得て柔道を教えてもらう事になった.
高校は中学の隣・・・
師範の先生は西の方にある米田道場の先生でもあった。
私は先生の助手として道場の下働き・・・
必死になって働いた。
人ず手ではあったが・・・私の親父らしい人に会ったという話を聞いた。
いても経ってもおられずに府中刑務所を訪ねた。
彼はその刑務所の所長だそうだ。
その家を訪ねた。

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