「№ 2」
この頃の京では人が殺されるのは日常茶飯事である。
お夕もそれを見てもさして驚く様子もなかった。
唯 あまりにも凄腕なのに舌を巻いたのだ。
同じ土佐藩で坂本竜馬と共に一緒に遊んだ仲ではあるが竜馬は倒幕の志、伊蔵は幕閣の犬・・・
何処でどう道が違ったのかいまだに謎である。
唯 云えるのは将来を見据えて行動する能力の有る無しの問題であろうか。
剣のみで生きる伊蔵には時代のうねりが判らなかったのであろうか・・・
伊蔵の塒はこの山科に決めていた。
後ろが竹薮で もし不意を突かれて闘う羽目になった時竹薮は非常に有利だからだ。
何より居心地が良い、お定はやきもち焼きではあるが気風が良い、そして肝が据わっている。
そして可愛いお夕が居る。毎晩腰が抜ける程楽しんでいたのである。
この頃には勤皇の志士達が次々と幕府方の人間を襲う事が多くなった。
江戸幕府は浪士隊を募り京に送り込んできた。
いよいよ京も風雲急を告げる様相を呈して来たのである。
「これは面白い事になりそうだぞ」
伊蔵は自分の活躍の場が出来る事ににんまりとしていた。
浪士隊にも腕に覚えの有る食い詰め浪人が全国から続々と入ってきた。
やがてそれが紆余曲折を経て新撰組となって行くのだが・・・
文久二年四月、薩摩藩主の父島津光候が勤皇急進派を千人引き連れて上京した。
一挙に関白九条尚忠と京都所司代を幽閉して倒幕の狼煙を挙げんとしたのだ。
薩摩藩主島津久光はその通報を公家方から受け その暴挙を止めんと使者を送ったのであるが・・・
説得に応じようとしない志士達を粛清の名の元に切り捨てたのである。
これが世に云う寺田屋騒動である。
その頃、伏見寺田屋は薩摩藩の定宿であった。
これで収まったかと見えた倒幕の狼煙は西国の武士達の心の怒りを買い 却って火に油を注ぐ結果になってしまったのである。
この事件は薩摩藩の内乱で片付けられたが日を追って京の都は不穏な空気に包まれていった。
伊蔵はよくお夕と京の町を散策して歩いた。
そしてこの宿は何々藩の定宿であるとか何処の廓に討幕派が多く集まる所か、又幕府側の連中は何処の廓に出入りしてるかとか調べていたのだ。
と 同時に京の町の隅々まで裏通りに至るまで知っておく必要が有ったからだ。
時々廓にも足を運んだ、が大して面白いとは思わなかった。
それよりお夕の方がはるかに好かったのである。
何より彼女は俗説に云う 数の子天井 と云う奴であった。
めったに出会える事のない名器なのだ。
そこに持って来て甘え上手である。伊蔵の手の届かぬ所まで気を利かせてくれる。
伊蔵は誰かの依頼を受ければ片っ端から切り捨てていった。
たとえそれが何の関係の無い人間でも・・・
10両盗めば首が飛ぶ(死罪)時代だ。
大店の主人が「あいつが目障りだ、殺してくれ」と依頼があれば簡単に引き受けた。
すると50両100両の金などすぐ手に入る。
志士を殺せば所司代から報奨金が出る、だがそれはお涙金程度だ。
誰かの依頼を受け仕事した方が金になる。
伊蔵はそうした仕事にも手を染めていたのである。
文久三年九月、正式に新撰組が発足した。
それまで浪士隊として京の治安を守ってはいたが食い詰め浪人の中には押し込み強盗、ゆすり等をする者も居て統制は全く取れていなかったのである。
新撰組 壬生の屯所にも出入りして屯所で出来ない やっかいな事は全て引き受け剛剣を振るった。
何時しか『壬生の狼』と呼ばれる様になって行ったのである。
だが岡田伊蔵の名は新撰組の記録には無い。
それは隊員には名を連ねていなかったからであろう。
新撰組では『局中御法度』なるものを発行して隊に離反する者を次々と死に追いやった。そして京の治安を守ろうとした訳だが 尊王攘夷論者は益々過激になり毎日が血で血を洗う抗争を起こす様になっていったのである。
今やどちらが善か悪か、各藩の力と幕府とどちらが強いか混沌とした中で新撰組は己の信ずる道を突き進んで行った。
京の治安を守る事で新撰組の評価は高まり町の人々に好意的に受け入れられる様になった。
又 伊蔵も刀の血糊の乾く間もなく勤皇の志士達を血祭りに上げていったのである。
そして帰るや否や井戸水で身体を洗いお夕を求めたのであった。
お夕もそれを待っていた。
仕事が終われば抱いて貰える、そして大層なお金が転がり込んでくる 嬉しくてたまらない。
身体を清めしがみ付いて行く。
あえぎ声が階下のお定に聞こえてくる。
お定は「糞っ」と舌打ちしてた。
今では海舟の下を離れ一匹狼となり依頼されれば誰彼なく切って捨てる。
飢える狼そのものであった。
一方竜馬はといえば薩長同盟を画策して薩摩の西郷と頻繁に会い長州を説得に奔走してたのである。
そうした世の動きを斜に見ながら伊蔵は迷っていた。
自分は何処に行けばいいのか?と・・・
一度竜馬に会おうか、これからこの国はどうなるのか?
それを知るには竜馬が一番である。
幼馴染の竜馬なら気を許して話が出来る。
一方竜馬は薩摩の公武合体論を唱える西郷達と尊王攘夷論者の長州藩との間に立ち苦慮していた。
どちらも倒幕の意思はある。
だがどちらも譲らぬ、兎に角頑固者同士だ。
竜馬は伊蔵に言った。
「幕府はこれまでよ、今のままでは西欧の列強にこの国を取られてしまう」「伊蔵、時代の足音が聞こえぬか」「もうすぐ刀の時代は終わる、これからはこれの時代よ、のう」
懐の拳銃を取り出し「土佐に帰れ、そして心も身体も清めて来い」と・・・
新撰組の活躍にも関わらずその頃 京の都は将に無法地帯であった。
昼と云わず夜と云わず抗争は続いたのである。
伊蔵は毎日その中を駆け回っていた。
どうやら倒幕派の方に分があるような気がする。
志士を応援し かくまう商家も多い・・・
あまりにも浪士隊の頃(新撰組発足前)恐れられ過ぎていたのだ。
伊蔵の逗留してる旅籠のお夕は「伊蔵さん、もう止めようよ」「お金なら充分稼いだわ、お夕と二人で田舎で静かに暮らそうよ」と言った。
土佐に戻ろうか・・・伊蔵は悩んでいた。
「どっち道何処かで野垂れ死にするんだろうなー」「二人で暮らすのも悪くはない」
後戻りするのは今しか無い・・・
だが戦乱の世になれば出世の糸口も開ける。
まだ伊蔵にはかっての関が原を夢見る心が何処かにあった。
元治元年、長州の武士が皇居、所司代に発砲した事から端を発し長州軍は倒幕の意思を持ち1250名の兵を進めた。
幕府は薩摩と手を組みそれを鎮圧したのである。
これで薩長同盟の芽は消えたかと思われた、が・・・竜馬は粘り強く同盟の重大さを説いて廻った。
しかしこの戦いは益々両藩の亀裂を大きく深めたのである。
伊蔵は独特の勘で「日本中 戦になるな」と読んだ。
だが勝敗はどちらになるか? それが判らぬ。
「俺はどうしても勝ち馬に乗らなくては駄目だ」と・・・
諸外国では虎視眈々と日本を植民地にしようと狙ってる。
それは伊蔵にも解ってきていた。
五月半ば・・・・
志士達に不穏な動きあり。
有る筋から情報を得た伊蔵はそれを新撰組局長近藤に告げるかどうか迷った。
このまま土佐に戻るとすれば胸に締まって旅立てばよい。
だ「№ 3」
がまだ京に残るとするなら知らせるべきであろう。
貧乏な下級武士で終わるのか、この戦いの中で高禄で召抱えられる様な働きを見せるか・・・
お夕の温もりの中で考えの行方を想像してた。
人斬り家業も楽ではない。
『鏡新明智流』では誰にも負けた事はない。
又、他の流派にも引けはとらぬ。
戦ともなれば尚更占めたものだ。
「こうなれば占めたもの、俺の働きを存分に見せつけてやる、運が俺に廻って来るかも」・・・
日頃から使い走りさせてる下っ引きの正二がやってきた。
彼は唯の下っ引きではない。
時々商家の弱みを握りゆすりたかりをして小銭を稼ぐケチな野郎である。
だが伊蔵の前に出ると借りてきた猫の様に大人しく言う事を聞くのだ。
伊蔵の剣の凄さを知り「この人に付いて行けば商家をゆするより良い金儲けが出来る」と踏んで自分から子分に成った男である。
「だんな、判りましたぜ、六月半ば池田屋ともうひとつがはっきりしないんですけどね」
「志士たちが大勢集まるって事で」
伊蔵は「よし!乗ってみるか」と 近藤の下を訪れた。
これが世に言う『池田屋騒動』の始まりである。
近藤は配下の者数名を町人姿にしてあちらこちらから情報を集めた。
伊蔵は近藤から報奨金を受け取り、お夕への簪を買った。
日頃何もしてやってない男の不器用な感謝の気持ちだった。
元治元年六月五日
『誠』の旗をなびかせて一路池田屋へ・・・
もう一斑は情報にあるもう一軒の宿に向かったのである。
雨戸を蹴破り「新撰組だ、宿改めをするぞ!」近藤の一声で一斉になだれ込んだ。
最初は新撰組に分は無かった。
勢い良く乗り込んだものの二班に別れていた為 劣勢は免れなかったのだった。
階段の途中で阻止され近藤以下配下の者も苦戦を強いられた。
遅れて来た土方が乗り込むのがもう少し遅れていたら歴史は変わっていただろう。
勢い付いた新撰組の面々は一斉に雪崩れ込んだのであった。
将に地獄絵図だ、遅れて来た土方、沖田と共に志士達を斬り捲ったのである。
窓から逃げる者達は下で待ち受けていた伊蔵達が一掃したのであった。
この池田屋事件によって明治新政府が一年遅れたと言われている。
しかし主だった者数名を取り逃がした。
そしてこの事件を期に全国で倒幕の狼煙が上がった事は確かである。
又 近藤はなかなか人を信用しない。
かって郷士であった頃『天然理心流』の道場を開いていた頃の仲間だけは信じていた様子だ。
自分と意見が合わぬ者はことごとく排斥したのである。
だから伊蔵の様な使い手でも土佐の出身と云うだけで心から信じていなかった。
もし幕府軍が勝ったとしても取り立てて貰う事は出来なかったに違いない。
この頃の京では人が殺されるのは日常茶飯事である。
お夕もそれを見てもさして驚く様子もなかった。
唯 あまりにも凄腕なのに舌を巻いたのだ。
同じ土佐藩で坂本竜馬と共に一緒に遊んだ仲ではあるが竜馬は倒幕の志、伊蔵は幕閣の犬・・・
何処でどう道が違ったのかいまだに謎である。
唯 云えるのは将来を見据えて行動する能力の有る無しの問題であろうか。
剣のみで生きる伊蔵には時代のうねりが判らなかったのであろうか・・・
伊蔵の塒はこの山科に決めていた。
後ろが竹薮で もし不意を突かれて闘う羽目になった時竹薮は非常に有利だからだ。
何より居心地が良い、お定はやきもち焼きではあるが気風が良い、そして肝が据わっている。
そして可愛いお夕が居る。毎晩腰が抜ける程楽しんでいたのである。
この頃には勤皇の志士達が次々と幕府方の人間を襲う事が多くなった。
江戸幕府は浪士隊を募り京に送り込んできた。
いよいよ京も風雲急を告げる様相を呈して来たのである。
「これは面白い事になりそうだぞ」
伊蔵は自分の活躍の場が出来る事ににんまりとしていた。
浪士隊にも腕に覚えの有る食い詰め浪人が全国から続々と入ってきた。
やがてそれが紆余曲折を経て新撰組となって行くのだが・・・
文久二年四月、薩摩藩主の父島津光候が勤皇急進派を千人引き連れて上京した。
一挙に関白九条尚忠と京都所司代を幽閉して倒幕の狼煙を挙げんとしたのだ。
薩摩藩主島津久光はその通報を公家方から受け その暴挙を止めんと使者を送ったのであるが・・・
説得に応じようとしない志士達を粛清の名の元に切り捨てたのである。
これが世に云う寺田屋騒動である。
その頃、伏見寺田屋は薩摩藩の定宿であった。
これで収まったかと見えた倒幕の狼煙は西国の武士達の心の怒りを買い 却って火に油を注ぐ結果になってしまったのである。
この事件は薩摩藩の内乱で片付けられたが日を追って京の都は不穏な空気に包まれていった。
伊蔵はよくお夕と京の町を散策して歩いた。
そしてこの宿は何々藩の定宿であるとか何処の廓に討幕派が多く集まる所か、又幕府側の連中は何処の廓に出入りしてるかとか調べていたのだ。
と 同時に京の町の隅々まで裏通りに至るまで知っておく必要が有ったからだ。
時々廓にも足を運んだ、が大して面白いとは思わなかった。
それよりお夕の方がはるかに好かったのである。
何より彼女は俗説に云う 数の子天井 と云う奴であった。
めったに出会える事のない名器なのだ。
そこに持って来て甘え上手である。伊蔵の手の届かぬ所まで気を利かせてくれる。
伊蔵は誰かの依頼を受ければ片っ端から切り捨てていった。
たとえそれが何の関係の無い人間でも・・・
10両盗めば首が飛ぶ(死罪)時代だ。
大店の主人が「あいつが目障りだ、殺してくれ」と依頼があれば簡単に引き受けた。
すると50両100両の金などすぐ手に入る。
志士を殺せば所司代から報奨金が出る、だがそれはお涙金程度だ。
誰かの依頼を受け仕事した方が金になる。
伊蔵はそうした仕事にも手を染めていたのである。
文久三年九月、正式に新撰組が発足した。
それまで浪士隊として京の治安を守ってはいたが食い詰め浪人の中には押し込み強盗、ゆすり等をする者も居て統制は全く取れていなかったのである。
新撰組 壬生の屯所にも出入りして屯所で出来ない やっかいな事は全て引き受け剛剣を振るった。
何時しか『壬生の狼』と呼ばれる様になって行ったのである。
だが岡田伊蔵の名は新撰組の記録には無い。
それは隊員には名を連ねていなかったからであろう。
新撰組では『局中御法度』なるものを発行して隊に離反する者を次々と死に追いやった。そして京の治安を守ろうとした訳だが 尊王攘夷論者は益々過激になり毎日が血で血を洗う抗争を起こす様になっていったのである。
今やどちらが善か悪か、各藩の力と幕府とどちらが強いか混沌とした中で新撰組は己の信ずる道を突き進んで行った。
京の治安を守る事で新撰組の評価は高まり町の人々に好意的に受け入れられる様になった。
又 伊蔵も刀の血糊の乾く間もなく勤皇の志士達を血祭りに上げていったのである。
そして帰るや否や井戸水で身体を洗いお夕を求めたのであった。
お夕もそれを待っていた。
仕事が終われば抱いて貰える、そして大層なお金が転がり込んでくる 嬉しくてたまらない。
身体を清めしがみ付いて行く。
あえぎ声が階下のお定に聞こえてくる。
お定は「糞っ」と舌打ちしてた。
今では海舟の下を離れ一匹狼となり依頼されれば誰彼なく切って捨てる。
飢える狼そのものであった。
一方竜馬はといえば薩長同盟を画策して薩摩の西郷と頻繁に会い長州を説得に奔走してたのである。
そうした世の動きを斜に見ながら伊蔵は迷っていた。
自分は何処に行けばいいのか?と・・・
一度竜馬に会おうか、これからこの国はどうなるのか?
それを知るには竜馬が一番である。
幼馴染の竜馬なら気を許して話が出来る。
一方竜馬は薩摩の公武合体論を唱える西郷達と尊王攘夷論者の長州藩との間に立ち苦慮していた。
どちらも倒幕の意思はある。
だがどちらも譲らぬ、兎に角頑固者同士だ。
竜馬は伊蔵に言った。
「幕府はこれまでよ、今のままでは西欧の列強にこの国を取られてしまう」「伊蔵、時代の足音が聞こえぬか」「もうすぐ刀の時代は終わる、これからはこれの時代よ、のう」
懐の拳銃を取り出し「土佐に帰れ、そして心も身体も清めて来い」と・・・
新撰組の活躍にも関わらずその頃 京の都は将に無法地帯であった。
昼と云わず夜と云わず抗争は続いたのである。
伊蔵は毎日その中を駆け回っていた。
どうやら倒幕派の方に分があるような気がする。
志士を応援し かくまう商家も多い・・・
あまりにも浪士隊の頃(新撰組発足前)恐れられ過ぎていたのだ。
伊蔵の逗留してる旅籠のお夕は「伊蔵さん、もう止めようよ」「お金なら充分稼いだわ、お夕と二人で田舎で静かに暮らそうよ」と言った。
土佐に戻ろうか・・・伊蔵は悩んでいた。
「どっち道何処かで野垂れ死にするんだろうなー」「二人で暮らすのも悪くはない」
後戻りするのは今しか無い・・・
だが戦乱の世になれば出世の糸口も開ける。
まだ伊蔵にはかっての関が原を夢見る心が何処かにあった。
元治元年、長州の武士が皇居、所司代に発砲した事から端を発し長州軍は倒幕の意思を持ち1250名の兵を進めた。
幕府は薩摩と手を組みそれを鎮圧したのである。
これで薩長同盟の芽は消えたかと思われた、が・・・竜馬は粘り強く同盟の重大さを説いて廻った。
しかしこの戦いは益々両藩の亀裂を大きく深めたのである。
伊蔵は独特の勘で「日本中 戦になるな」と読んだ。
だが勝敗はどちらになるか? それが判らぬ。
「俺はどうしても勝ち馬に乗らなくては駄目だ」と・・・
諸外国では虎視眈々と日本を植民地にしようと狙ってる。
それは伊蔵にも解ってきていた。
五月半ば・・・・
志士達に不穏な動きあり。
有る筋から情報を得た伊蔵はそれを新撰組局長近藤に告げるかどうか迷った。
このまま土佐に戻るとすれば胸に締まって旅立てばよい。
だ「№ 3」
がまだ京に残るとするなら知らせるべきであろう。
貧乏な下級武士で終わるのか、この戦いの中で高禄で召抱えられる様な働きを見せるか・・・
お夕の温もりの中で考えの行方を想像してた。
人斬り家業も楽ではない。
『鏡新明智流』では誰にも負けた事はない。
又、他の流派にも引けはとらぬ。
戦ともなれば尚更占めたものだ。
「こうなれば占めたもの、俺の働きを存分に見せつけてやる、運が俺に廻って来るかも」・・・
日頃から使い走りさせてる下っ引きの正二がやってきた。
彼は唯の下っ引きではない。
時々商家の弱みを握りゆすりたかりをして小銭を稼ぐケチな野郎である。
だが伊蔵の前に出ると借りてきた猫の様に大人しく言う事を聞くのだ。
伊蔵の剣の凄さを知り「この人に付いて行けば商家をゆするより良い金儲けが出来る」と踏んで自分から子分に成った男である。
「だんな、判りましたぜ、六月半ば池田屋ともうひとつがはっきりしないんですけどね」
「志士たちが大勢集まるって事で」
伊蔵は「よし!乗ってみるか」と 近藤の下を訪れた。
これが世に言う『池田屋騒動』の始まりである。
近藤は配下の者数名を町人姿にしてあちらこちらから情報を集めた。
伊蔵は近藤から報奨金を受け取り、お夕への簪を買った。
日頃何もしてやってない男の不器用な感謝の気持ちだった。
元治元年六月五日
『誠』の旗をなびかせて一路池田屋へ・・・
もう一斑は情報にあるもう一軒の宿に向かったのである。
雨戸を蹴破り「新撰組だ、宿改めをするぞ!」近藤の一声で一斉になだれ込んだ。
最初は新撰組に分は無かった。
勢い良く乗り込んだものの二班に別れていた為 劣勢は免れなかったのだった。
階段の途中で阻止され近藤以下配下の者も苦戦を強いられた。
遅れて来た土方が乗り込むのがもう少し遅れていたら歴史は変わっていただろう。
勢い付いた新撰組の面々は一斉に雪崩れ込んだのであった。
将に地獄絵図だ、遅れて来た土方、沖田と共に志士達を斬り捲ったのである。
窓から逃げる者達は下で待ち受けていた伊蔵達が一掃したのであった。
この池田屋事件によって明治新政府が一年遅れたと言われている。
しかし主だった者数名を取り逃がした。
そしてこの事件を期に全国で倒幕の狼煙が上がった事は確かである。
又 近藤はなかなか人を信用しない。
かって郷士であった頃『天然理心流』の道場を開いていた頃の仲間だけは信じていた様子だ。
自分と意見が合わぬ者はことごとく排斥したのである。
だから伊蔵の様な使い手でも土佐の出身と云うだけで心から信じていなかった。
もし幕府軍が勝ったとしても取り立てて貰う事は出来なかったに違いない。
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