「№ 8」
元治から慶応に代わった。
松も明けぬ内から石倉屋事件が勃発した。
尊皇派の大利等数名が潜伏してるのを察知した新撰組、谷等はそれを惨殺したのだった。
それは凄惨なものであった。
四人一組で相手に襲い掛かる。
息絶えても尚斬り刻む。
残酷な谷流の殺し方であった。
さすがの伊蔵も戦慄を覚えたのであった。
後日それを聞いた近藤は苦りきった表情で「三十郎は斬らねばならぬな」と土方に言った。
それから数日の後 谷三十郎は廓から酩酊して出たところを同じ同士の新撰組隊員によって殺されたのである。
日頃から谷と仲の良かった山南敬介は身の危険を感じて脱走を試みたが 囚われの身となり屯所の中庭で切腹して果てたのであった。
伊蔵は志穂に月十両の手当てを与えたがめったに志穂の家に行く事は無かった。
それはお葉への遠慮もあったが「出来るだけ静かにして置いてやろう」と心の傷の癒えるのを待っていたのである。
志穂はその金で(おさんどん)を雇い 足しげくお葉の所で芸事の修行を積んでいた。
「きっといい芸者になれば伊蔵さんは私を認めてくれる、愛してもくれるだろう」「そしてお姉さん(お葉)も許してくれるに違いない」と・・・
そのいじらしい心根が解らぬお葉では無かったが 伊蔵が自分の所に来なくなる事を恐れたのである。
それは自分の年齢への嫉妬でもあった。
お夕はもうすぐ十九、志穂は十七歳、お葉に至っては二十六歳 セックスのテクニックでは負けない自信はあったが若さでは勝目はない。
しかし伊蔵への思いは誰にも負けない自信はあった。
やがてその事はお夕の耳にも入ってきた。
お夕は嫉妬に狂う女では無かったが一度志穂に会って見ようと思ったのである。
そして志穂の家を訪ねたのだった。
いろいろ話を聞くうちにお夕は出会った頃の伊蔵を思い出していた。
軒先で雀が死んでいた時涙を流しながら土に埋めていた事・・・
庭先が淋しかろうと花を植えていた事など・・・
無表情で人を斬る これは伊蔵の仕事である。
本当は優しい人なんだ・・・と・・・
だから志穂を身請けまでして助けたんだと、自分を納得させたのであった。
ある夜、伏見の川沿いで押し込みと出会った。
下っ引きの正二は「旦那、あの金をそっくり頂いちまいましょう」
強盗団は船に千両箱を五六個積んでいた。
船の上には三人、後は川岸に六人・・・
「正二船を漕げるか」「任せておいてくだせい」途端に行動は早かった。
船上の三人を瞬時に斬り倒すと同時に艀から見る見る船は離れて行く。
正二の腕は確かであった。
夜の闇の中へ消えていったのである。
伊蔵は「泥棒の上前をはねるとはいい商売だな」と笑った。
暫く下流に下り それから上流へと進路を変え町外れの葦の茂みに船を隠した。
正二は大八車を何処からか持って来てそれに金を積み替え志穂の家へと向かったのである。
「ここなら見つかる心配も無かろう」と・・・・
「№ 9」
翌日、呉服商桔梗屋が襲われ一家惨殺、一万両近くが盗まれたと云う噂が流れたが、仲間割れから三人の死体が伏見の川岸に浮いてたと云う。
「旦那と俺とは一心同体ですぜ」正二は笑って言った。
又 伊蔵は正二が居る事で何かと助かる、笑って「死ぬまでな」と答えたのだった。
萬勢屋喜助に「船を一艘手に入れたいのだが」と声を掛けてみた。
「何に使いなさるので?」と聞いたが「ちょっと堺港まで・・・」と言葉を濁した。
「いいでしょう、お貸ししましょう」「沈められるかも知れんぞ」
萬勢屋は少し考えて「ようがす、沈んだら沈んだ時、ボロ船で良かったらあの船を三百両でお譲りしましょう」と十数名は乗れる船を売ってくれたのである。
なるほど ボロ船である。
修理に百両程かかった。
伊蔵は正二を連れて堺の町に行ったのである がそこは勤皇の志士が席巻していた。
志士を装い鉄砲鍛冶の所に行き五丁の銃と多くの弾薬、そして火薬を買ったのである。
「あれだけ武器を手に入れているなら幕府はもう終わりかなー」と、彼は思った。
歴史はめまぐるしく動いていた。
新撰組は壬生の屯所を引き払い西本願寺に本部を移した。
伊東甲子太郎は御陵衛士を拝命して新撰組から脱退したのである。
慶応三年春の事であった。
ついに近藤の念願であった幕臣取り立てが決まった。
だがこれは伊蔵には沈み行く太陽の一瞬の光芒に思えたのである。
堺の町で見たものは次々と近代兵器を買い漁る志士達の姿だった・・・
依然新撰組、所司代では刀に頼る事で勝利を信じていたのであった。
伊蔵と正二は夜中、密かに今まで稼いだ金を船に積み込んでいた。
万が一の事を考えてのことだった。
その年 坂本竜馬他数名は近江屋にて暗殺された。
これは伊蔵が関係してるとも思われたが伊蔵には幼馴染を斬る様な真似は出来ない。
又新撰組が襲ったとも云われているがこれも何の証拠も無かった。
只、薩長同盟を竜馬の努力によって成し遂げられた事による反対派が襲ったとも云われるがこれも根拠の無い話である。
佐幕派の者は京の町人に酷く嫌われる様になった。
全てが尊皇攘夷派に流れは来ている。
この時節になると敵見方関係無く殺戮の嵐が吹き荒れた。
伊東甲子太郎も又新撰組に惨殺されたのだった。
又近藤も御陵衛士の残党に狙撃され実働部隊は土方の手によって指揮されていったのである。
池田屋事件以後沖田は喀血し郊外の某所で療養を余儀なくされその後の戦いには出動不能となっていた。
翌、慶応四年 鳥羽伏見の戦いが勃発するのであるが、その少し前から強盗団の中に岡田伊蔵と名乗る人物が幾人か現れる様になった。
伊蔵は怒りに燃えた。
「自分の名前だけが一人歩きしている」鬼と化した伊蔵はそうした者達を斬り捲った。
ある日 ついに伊蔵の塒が志士達に探し当てられたのである。
夜更けに彼等は襲ってきた。
すぐさま押入れの天井裏にお夕を隠し志士たちと斬り結んだのである。
壬生の狼、鬼の伊蔵は竹薮の中に逃げ込み激しく応戦したのであった。
藪の中では相手はなかなか一度には斬り込めない。
一人二人と術中にはまり伊蔵の刃の前から消えてゆく。
が しかし「この女を殺されたくなかったら刀を捨てろ!」と・・・
お定の首には相手の刃が突きつけられていた。
「万事窮すか」伊蔵はひるんだ。
その時である。
「斬って!お母ちゃんを斬って」「あんた死んじゃ嫌!」後ろで声がした。
お定は「あんた 何言うの?親を見殺しにする気かい! 伊蔵さん助けて、後生だよ」と・・・
と同時にお夕の手から飛んだ脇差がお定の腹に投げつけられたのである。
お夕が複雑な顔で、涙で立っていた。
伊蔵は真っ向からから竹割りに斬り倒した。
お夕によって投げつけられた刀傷は以外に深く刺さり苦しむお定を見て 「もう助からないなら楽に死なせてやろう」と一突きしたのであった。
お夕は肉親の情よりも伊蔵を取った訳だが、「これで邪魔者が一人減った」との思いも有ったのである。
元治から慶応に代わった。
松も明けぬ内から石倉屋事件が勃発した。
尊皇派の大利等数名が潜伏してるのを察知した新撰組、谷等はそれを惨殺したのだった。
それは凄惨なものであった。
四人一組で相手に襲い掛かる。
息絶えても尚斬り刻む。
残酷な谷流の殺し方であった。
さすがの伊蔵も戦慄を覚えたのであった。
後日それを聞いた近藤は苦りきった表情で「三十郎は斬らねばならぬな」と土方に言った。
それから数日の後 谷三十郎は廓から酩酊して出たところを同じ同士の新撰組隊員によって殺されたのである。
日頃から谷と仲の良かった山南敬介は身の危険を感じて脱走を試みたが 囚われの身となり屯所の中庭で切腹して果てたのであった。
伊蔵は志穂に月十両の手当てを与えたがめったに志穂の家に行く事は無かった。
それはお葉への遠慮もあったが「出来るだけ静かにして置いてやろう」と心の傷の癒えるのを待っていたのである。
志穂はその金で(おさんどん)を雇い 足しげくお葉の所で芸事の修行を積んでいた。
「きっといい芸者になれば伊蔵さんは私を認めてくれる、愛してもくれるだろう」「そしてお姉さん(お葉)も許してくれるに違いない」と・・・
そのいじらしい心根が解らぬお葉では無かったが 伊蔵が自分の所に来なくなる事を恐れたのである。
それは自分の年齢への嫉妬でもあった。
お夕はもうすぐ十九、志穂は十七歳、お葉に至っては二十六歳 セックスのテクニックでは負けない自信はあったが若さでは勝目はない。
しかし伊蔵への思いは誰にも負けない自信はあった。
やがてその事はお夕の耳にも入ってきた。
お夕は嫉妬に狂う女では無かったが一度志穂に会って見ようと思ったのである。
そして志穂の家を訪ねたのだった。
いろいろ話を聞くうちにお夕は出会った頃の伊蔵を思い出していた。
軒先で雀が死んでいた時涙を流しながら土に埋めていた事・・・
庭先が淋しかろうと花を植えていた事など・・・
無表情で人を斬る これは伊蔵の仕事である。
本当は優しい人なんだ・・・と・・・
だから志穂を身請けまでして助けたんだと、自分を納得させたのであった。
ある夜、伏見の川沿いで押し込みと出会った。
下っ引きの正二は「旦那、あの金をそっくり頂いちまいましょう」
強盗団は船に千両箱を五六個積んでいた。
船の上には三人、後は川岸に六人・・・
「正二船を漕げるか」「任せておいてくだせい」途端に行動は早かった。
船上の三人を瞬時に斬り倒すと同時に艀から見る見る船は離れて行く。
正二の腕は確かであった。
夜の闇の中へ消えていったのである。
伊蔵は「泥棒の上前をはねるとはいい商売だな」と笑った。
暫く下流に下り それから上流へと進路を変え町外れの葦の茂みに船を隠した。
正二は大八車を何処からか持って来てそれに金を積み替え志穂の家へと向かったのである。
「ここなら見つかる心配も無かろう」と・・・・
「№ 9」
翌日、呉服商桔梗屋が襲われ一家惨殺、一万両近くが盗まれたと云う噂が流れたが、仲間割れから三人の死体が伏見の川岸に浮いてたと云う。
「旦那と俺とは一心同体ですぜ」正二は笑って言った。
又 伊蔵は正二が居る事で何かと助かる、笑って「死ぬまでな」と答えたのだった。
萬勢屋喜助に「船を一艘手に入れたいのだが」と声を掛けてみた。
「何に使いなさるので?」と聞いたが「ちょっと堺港まで・・・」と言葉を濁した。
「いいでしょう、お貸ししましょう」「沈められるかも知れんぞ」
萬勢屋は少し考えて「ようがす、沈んだら沈んだ時、ボロ船で良かったらあの船を三百両でお譲りしましょう」と十数名は乗れる船を売ってくれたのである。
なるほど ボロ船である。
修理に百両程かかった。
伊蔵は正二を連れて堺の町に行ったのである がそこは勤皇の志士が席巻していた。
志士を装い鉄砲鍛冶の所に行き五丁の銃と多くの弾薬、そして火薬を買ったのである。
「あれだけ武器を手に入れているなら幕府はもう終わりかなー」と、彼は思った。
歴史はめまぐるしく動いていた。
新撰組は壬生の屯所を引き払い西本願寺に本部を移した。
伊東甲子太郎は御陵衛士を拝命して新撰組から脱退したのである。
慶応三年春の事であった。
ついに近藤の念願であった幕臣取り立てが決まった。
だがこれは伊蔵には沈み行く太陽の一瞬の光芒に思えたのである。
堺の町で見たものは次々と近代兵器を買い漁る志士達の姿だった・・・
依然新撰組、所司代では刀に頼る事で勝利を信じていたのであった。
伊蔵と正二は夜中、密かに今まで稼いだ金を船に積み込んでいた。
万が一の事を考えてのことだった。
その年 坂本竜馬他数名は近江屋にて暗殺された。
これは伊蔵が関係してるとも思われたが伊蔵には幼馴染を斬る様な真似は出来ない。
又新撰組が襲ったとも云われているがこれも何の証拠も無かった。
只、薩長同盟を竜馬の努力によって成し遂げられた事による反対派が襲ったとも云われるがこれも根拠の無い話である。
佐幕派の者は京の町人に酷く嫌われる様になった。
全てが尊皇攘夷派に流れは来ている。
この時節になると敵見方関係無く殺戮の嵐が吹き荒れた。
伊東甲子太郎も又新撰組に惨殺されたのだった。
又近藤も御陵衛士の残党に狙撃され実働部隊は土方の手によって指揮されていったのである。
池田屋事件以後沖田は喀血し郊外の某所で療養を余儀なくされその後の戦いには出動不能となっていた。
翌、慶応四年 鳥羽伏見の戦いが勃発するのであるが、その少し前から強盗団の中に岡田伊蔵と名乗る人物が幾人か現れる様になった。
伊蔵は怒りに燃えた。
「自分の名前だけが一人歩きしている」鬼と化した伊蔵はそうした者達を斬り捲った。
ある日 ついに伊蔵の塒が志士達に探し当てられたのである。
夜更けに彼等は襲ってきた。
すぐさま押入れの天井裏にお夕を隠し志士たちと斬り結んだのである。
壬生の狼、鬼の伊蔵は竹薮の中に逃げ込み激しく応戦したのであった。
藪の中では相手はなかなか一度には斬り込めない。
一人二人と術中にはまり伊蔵の刃の前から消えてゆく。
が しかし「この女を殺されたくなかったら刀を捨てろ!」と・・・
お定の首には相手の刃が突きつけられていた。
「万事窮すか」伊蔵はひるんだ。
その時である。
「斬って!お母ちゃんを斬って」「あんた死んじゃ嫌!」後ろで声がした。
お定は「あんた 何言うの?親を見殺しにする気かい! 伊蔵さん助けて、後生だよ」と・・・
と同時にお夕の手から飛んだ脇差がお定の腹に投げつけられたのである。
お夕が複雑な顔で、涙で立っていた。
伊蔵は真っ向からから竹割りに斬り倒した。
お夕によって投げつけられた刀傷は以外に深く刺さり苦しむお定を見て 「もう助からないなら楽に死なせてやろう」と一突きしたのであった。
お夕は肉親の情よりも伊蔵を取った訳だが、「これで邪魔者が一人減った」との思いも有ったのである。
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