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『幕末異聞』  ナンバー6

盛大な祝言(結婚式)だった。
「お兄様も紋付袴を着てくださいな」宗兵衛はそう言ったが「俺にはこの姿が一番似合ってる」と猟師の格好で出席したのである。
万が一正装した事によって元侍と云うことがばれるのを恐れたからだ。
お涼、お志乃は手放しで喜んだ。
特にお涼には特別の思いがあった。
何時も姉貴面して見下され、虎視眈々と伊助を狙う眼が許せなかったのだ。
姉妹の確執は常にあったが、唯表面上伊助に見せない様にしていただけであった。

又 お志乃に対しては所詮買われた女、それほど気にはしていなかったのである。
お涼は勝ち誇った顔で「お姉ちゃん、本当におめでとう、いい人に出会えて良かったね」
お竜は悔しさを滲ませながら「ありがとう」と言うより仕方が無かったのである。

お竜には京に住んでいた頃から志穂(お志乃)に対してはそれ程気にはしていなかった。
厳しくすればそのうち根を上げるだろう、そう思って徹底的に鍛えたのである。
お陰でお志乃の腕は立派に師匠として自活出来るまでになっていた。
お竜は「妹に取られる位ならお志乃に譲った方がましだ」とも思っていたのだった。
祝言の後 お竜はお志乃を呼び「伊助さんはお夕よりあんたの方が好きなんだよ、絶対離しちゃ駄目だよ」「私の弟子は全部あんたにあげるからしっかりするんだよ」と・・・
それぞれの思惑が交錯する中で盛大な式典は終わった。
「淋しくなりましたなー」と庄助は言ったが伊助は「うん・・・」と答えただけであった。

「№ 15」  
明治も二年となった。
蝦夷地での新政府を夢見た旧幕臣、榎本武揚等の目論みも又失敗に終わった。
土方歳三も討ち死に、榎本も自刃して果てた。
いよいよ明治新政府が発足したのである。
官軍は旧幕臣の探索を徹底的に行った。
だがこの西伊豆にまでは手は伸びて来なかったのである。

伊助はいろんな事を思い出していた。
お夕と出会ってから八年、激動の京の生活、船の上の一年半のゆったりと過ごした日々・・・
走馬灯の様に廻っては消えた。
この時代は又どんな田舎に住もうと弾薬は手に入った。
それだけ全国に猟師が多かったのである。
又 獣も多かった。

江戸時代には日本人は肉を食べなかったが文久にはもう肉を食べるのは当たり前になっていたのである。
が しかしまだ肉は高級品であったのだ。
修善寺では美味しい肉を食わせる事で有名になっていった。
それだけ伊助達も忙しく 山を駆け回ったのである。

家事全般は庄助の妻よねが引き受けていた。
お涼は庭に花を植えたり三味線を弾いたり、時にはよねを連れ立って修善寺の町まで買い物をしたり優雅に暮らしていた。
お志乃との仲も良かった。
共に船の上で苦労を分け合い助け合った仲、まるで町の人には本当の姉妹の様に見えたであろう。
伊助達も又気ままに猟を楽しみ誰も居ない所では庄助に剣術指南をしたりして楽しんでいたのだった。
足繁くお志乃の家に行く余裕もあった。

宗兵衛とお竜の間にも二歳になる男の子が出来ていた。
そして二人目もお腹の中に・・・
「お兄さんは もしかしたら元お侍だったのじゃないかい?」お竜はとぼけて「ええ、貧乏旗本の三男坊でね、侍が嫌いで猟師になったんですよ」と・・・
「道理で、とても達筆でしらっしゃる、いっそ寺子屋でも開いたら?」「うちの帳簿も目を通して貰いたいものだね」
お竜は「しめた!これで又伊蔵さんが来てくれる」と思ったのだが・・・
しかし伊助は「縛られるのが嫌いでね」と断ったのである。

宗兵衛の店はお竜が来て以来余計に繁盛していた。
京仕込みの柔らかい立ち居振る舞い、口の巧さ、そしてその美貌・・・
町の人は「いい嫁さんを貰ったなー」と羨ましがった。
どうやら男癖の悪さも毎日宗兵衛に可愛がられているせいか直ったようだ。

お志乃も日に日に艶っぽくなっていった。
伊助が月のうち半分は来てくれる。
そして可愛い女の赤ちゃんが生まれた。
それが嬉しくて堪らない。
お涼も又 昔 帰るか帰らないのか判らない生活の事を思い出しながら幸せを感じていたのだった。

新政府は薩長が中心で組閣されていた。
その仲で異彩を放っていたのは勝海舟の入閣であったのだ。
江戸城を無血開城に導いた功績もあるが何より諸外国の状況をよく知っていたからに他ならない。

「№ 16」  
江戸の町も東京と名を改められ新貨幣が発行された。
それと同時に紙のお札(兌換紙幣)も発行されたのである。
伊助は密かに宗兵衛に相談して小判を少しずつ交換する事にした。
宗兵衛もあまりにも多い金に驚き自分の店の名義を使い新しく出来た銀行に預けたのであった。
と 同時に伊助の本当の姿が知りたくなったのである。

庄助は「上方で回船問屋をしてた時の蓄えだ」とその場を取り繕ったのだ。
「御家人から商売人・・・?」宗兵衛はそれ以上知ろうと思わなかった。
これ以上詮索するのは得策ではないと判断したのである。
さすが商売人である、身内に貧乏人を抱えるより金持ちがいい、と思ったのだった。

伊助の顔はなかなかの美形である。
もし火傷の跡さえ無かったらさぞかし持てるだろうと。
だからお涼の様な美しい女性と所帯を持っているのだろう、その妹お志乃も魅力的な女だ。
「私はお竜と結婚出来た」何と云う幸せ者なんだと宗兵衛は思っていた。
こうして何事もなく月日は過ぎていった。

ある晩、商家の付き合いで宗兵衛は「たまにはお兄さんもどうぞ」と温泉宿に誘ったのであった。
宴も終わり宿の廊下を歩いていた時 意外な人物に出会った。
皆が頭を下げる向こうに勝海舟が歩いてきたのである。
たまたま湯治に来ていた訳だが伊助と眼が合った。
海舟も驚いた、伊助も又「もはやこれまでか!」と覚悟を決めたのであった。
「おっ!生きていたのか」「今何してるんだい?」
「へい、猟師をしております」伊助は町人言葉で答えた。
海舟は「無事で良かったのう、息災で暮らせ」と言って通り過ぎて行った。
海舟は思慮のある男である、今更詮索する気など全くなかった。

宗兵衛は腰を抜かさんばかりに驚いていたのである。
天下の勝安房守様とお知り合いの方であったとは・・・
この方もきっと立派なお侍であったのだろうと・・・
何も言わず語らず 時は過ぎてゆくのであった。

「№ 17」  
伊助も庄助も老境に入っていた。
現在ならば四十代半ば過ぎはまだ働き盛りなのだがその頃ではもう老人の部類であったのである。
だが二人とも意気軒昂、山々を駆け回っていたのだ。
宗兵衛は「もう碁でも打ってゆっくりなさっては、うちの近くに家でも建てて自適に暮らされたら如何ですか」と言った。
伊助は笑って「まだまだ」と答えたがもう疲れは一日寝れば取れると云う訳にはゆかなかった。

明治十年 突然西郷が『征韓論』を唱えて野に下った。
そうして薩摩で軍を整えて反旗を翻した。
海舟は間者として歴戦のつわもの伊蔵を送る事を考えたのである。
使者が呉服屋宗兵衛の家を訪れた。
「岡田伊蔵殿はご在宅で・・・」と。
宗兵衛は腰を抜かさんばかりに驚いた。
あの有名な人斬り伊蔵であったとは・・・

すぐさま「安房守様のお呼びですが」と伝えたのであるが伊助は「もう歳だから」と断ったのである。
それからの宗兵衛は何か恐ろしい事が起きるのではと震えたが 伊助は「あの方ははそんな了見の狭い方ではないぞ」と笑って取り合わなかった。
又何事も起きる様子も無かった。

伊助はこれまでの経緯を宗兵衛に話して聞かせた。
が お竜事お葉の事は伏せておいたのである。
伊助事伊蔵は今まで以上に親しく宗兵衛と酒を酌み交わし忌憚の無い話が出来る様になった。
時が全てを押し流してくれたのである。

西郷軍は一時は九州全土を席巻したが田原坂の戦いに敗れ自決したのだった。
それを伊豆の地で聞きながら祭りは終わったな と伊蔵は思った。

お夕も幸せな人生を噛み締めていた。
遅い子供であるが伊蔵との男の子も授かった。
名を誠一郎と名付けた。
お志乃も又大勢の弟子に囲まれ楽しく過ごしている。
宗兵衛が全てを知った今、仮の名を名乗る必要も無かったがお志乃の名が気に入ってその名を使い続けたのである。
それは伊蔵が付けてくれた名でお志乃に取っては愛の証でもあった。
激動の時代を駆け抜けた伊蔵は庄助と共に相変わらず野山を駆け回ってた。

それから十年後 お夕に伊蔵は身体の不調を訴えた。
宗兵衛を呼んだ伊蔵は自分の死後 女達の行く末を頼んだのであった。
その十日後、皆に見守られ静かに息を引き取ったのである。
庄助事正二は涙で「旦那、卑怯ですぜ、死ぬ時も一緒だと約束したじゃありませんか」と・・・ 

お志乃も眼を真っ赤に泣き腫らしていた。
気丈にもお夕は一粒種の誠一郎を抱きしめ「お父様は立派なお侍だったんだよ、よく見て置きなさい」と涙ひとつ流さなかった。
伊蔵は死に際、お夕 お志乃の手を握り「あの世でも又一緒に暮らそうな」と言ったのである。
実に見事な幕引きであった、その顔にはうっすらと笑顔をたたえて・・・
最後まで豪快に生きた人生だった。 

早速宗兵衛は勝海舟に伊蔵の死を知らせた。
海舟はその死を惜しんだ。
そして 息子誠一郎を福沢諭吉の義塾に入れる様【紹介状】を添えた手紙をくれたのである。
宗兵衛は幕末の快男子にふさわしい盛大な葬儀を行ったのであった。

    ー完ー



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