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『寒椿』  その4

「仇討ちの彼方に 4」  ー寒椿ー
飲まず喰わずで辿り着いた町で 懐かしい故郷の名の看板を上げた店を見つけた。
吸い込まれる様に中に入って 番頭らしき人に「お頼みします、藤堂新九郎様を探している者ですがご存知ありませんか?」

最初、何処の乞食が入って来たのかと驚かれたが「藤堂様のゆかりの方ですか? ここでは何ですから奥へどうぞ」と居間に通された。

そこで聞いた話は 叔父から聞かされた話とは全然違うものであった。
この店は『西国屋』の支店であって 当時の出来事の真相が良く解ったのである。
今でも新九郎を悪く言う者は誰も居ないと云う事も・・・
そして、もっと驚かされた事は主君の不祥事により幕府により藩が取り潰された事であった。

「一体何の為に苦しい旅を続けなければならなかったのか」
自分は何の為に生きてきたのか・・・
呆然と店を後にした静香は 自分の中の心の支えがガラガラと崩れて行く音を聞いた。
習性とは恐ろしいものである。
目的を失った静香は尚も新九郎を求めて 歩き始めたのである。
只 当てもなく苦しい旅を続けるのであった。

もう夜鷹はやめた。
だが草を食み泥水をすすって前に前に進む。
糸の切れた凧のような放浪の旅であった。
そして加賀百万石の城下町で遂に力尽きたのであったのであった。
その時良庵に助けられたのだ。

「仇討ちの彼方に 5」  ー寒椿ー
美雪は遠い日の思い出に浸っていた。
そして【西国屋】の主人の話、又その主人の好意で当時の出来事を知る人達の所在を確かめ 何通もの手紙を書いた。
返って来た返事には 傍若無人な父親の事が事細やかに書いてあった。

賭け将棋の立会人 多田兵庫からの手紙には もし藤堂新九郎が居たならば藩のお取り潰しも避けられたであろう と書いてあったのである。

元々貧乏な藩の財政を救う為に 山の中腹まで果樹園を作り、又赤穂の塩田を見習い塩の生産に力を注ぎ 豊かな財政の藩に作り上げた功績は新九郎在って出来た事。
不正を嫌い藩主に『絹着せぬ物言い』が出来たのは 新九郎唯ひとりであった。
ゆくゆくは勘定奉行と剣術師範を兼任する話もあったそうだ。
美雪はその立派な方を仇と狙い十八年もの間探し歩いた事になる。
涙が頬をつたって流れて落ちた。
又 風花の様に雪が舞い降り 椿の花びらを紅色に染めて行く。

何時しか蝉時雨の鳴く季節となった。
美雪はこの医院の[アイドル]となっていた。
良庵が診察室にいると患者達は眼で美雪を探す。
中には「大先生より美雪先生がいい」と言う患者まで表れる始末だ。
無理もない、女性の患者は大抵男性に肌を見せるのに抵抗感はあるものだ。
それが例え名医、良庵と云えどもである。

良庵は苦笑して「美雪、お前が所望だそうだ」と奥へ引っ込むのであった。
そして仁斎と酒を酌み交わし囲碁を楽しんだ。
仁斎も又 城中で何事もなければ暇を持て余していたのである。
「お前は人使いが巧いよのう」「みんな美雪に任せてのんびり碁かよ」
家の中も見違える程綺麗に片付いて 庭の手入れも行き届いていた。
佐吉夫婦ものんびり楽しく仕事してる。

過去にこんな事があった。
藩主前田公が良庵を見込んで 他藩への仕官を勧めた事がある。
勿論その藩の御殿医としてである、が・・・
良庵は「碁仇と離れるのが辛ろうござる」と断ったのだ。
前田公は面目を失ったのであるが「うん、さもあろう」と笑って答えた。
加賀藩には名医が二人居る、それが又自慢の種でもあったのだ。
他藩からも良庵を頼って来る患者もいた。 

そして城中への出入りも特別に許されていた。
その訳は仁斎一人では手の廻らぬ場合 良案が居てくれる事により多いに助かったからだ。
藩主前田公はその位 良庵を高く評価してたのである。

ある日仁斎が困った顔でやって来た。
そして「一時美雪を貸して欲しい」と言ったのである。
「実は側室のお蓮の方の事だが わしはどうもあの方が苦手でのう、美雪なら巧くやってくれると思って頼むんだが引き受けてくれんかのう。病は偏食と陽に当たらないところから来てるんだが、わしが言っても聞いてくれんのじゃ、美雪なら女同士、巧くやってくれると思って頼むんだがひとつ城中について来てくれんかのう」
良庵はこれも美雪の修行のひとつだと引き受けたのである。

側室お蓮はかなり我侭であった。
魚を食べる時には小骨まできれいに抜いてある。そして屋敷から一歩も出ようとしない。
そして仁斎が居ないと大騒ぎして「痛いの痒いの」と駄々をこねる。
遠くから眺めて仁斎は「ほら、あの方だが美雪・・・頼むぞ」と手を合わせて逃げる様に去っていった。

美雪が近付くと「誰じゃ!お前は」・・・涼しい顔して「はい、お方様専属の医者であります」「仁斎はどうした!仁斎は・・」「殿の所に参っております、今日から当分私で辛抱してくださいませ」

それから美雪のスパルタが始まった。
「お方様、外に出ましょう」まず陽の光を浴びる事から手を付けたのである。
「嫌じゃ、お前ひとりで歩いて参れ」

途端に美雪は「死にとう御座いますか!死にたくなければまず私に付いて来てくださいませ」と強い口調で言ったのであった。
今まで自分に命令した者は殿意外にいなかった。
それがこの若い医者が、それも女の医者が命令するとは・・・怒りが全身に走ったのである。

しかし死にたくはない、渋々庭の散歩をする羽目になったのだ。
最初は少し歩いて休み、休んでは歩く。
するとどうであろう、食事が美味しく戴ける。
しかしこの我侭な側室の食事には柔らかい物しか並んでいない。
それも美雪は取り上げてしまったのである。

例えば魚は小骨まできれいに抜き取ってある、根菜類は固いものはお膳の上には無い。
美雪は眼の前で骨の付いた魚をガブリと咬んで食べて見せた。
そして当分は一緒に食事を取ったのである。
其の上残った骨はもう一度油でカリカリになるまで揚げ、少し塩を振っておやつとして食べさせたのであった。

一日五~六時間の散歩、そして柔剣術の指導、これは若い藩士の教えを受けてだが、最初は根を上げていた側室も次第に元気を取り戻していった。

夜、家に帰っては良庵に逐一報告する。
「お城の中は大変ですね、庭は広いし何度も迷ってしまいました」「食事も私たちと違って固いものは食べないんですよ」と笑いながら話すのであった。

それでも十ヶ月もしたらお蓮の方は元気を取り戻したのだ。
藩公は非常に喜び「仁斎、いい弟子を持ってるのう」と・・・
「いえ、あの娘は良庵の弟子で御座います、これからは医師も女子が必要で御座いましょう」と答えたのであった。
藩公は頷きながら「良庵も偉い奴だのう、女子をあそこまで育てるとは大した奴だ」と・・・
美雪も又城内への出入りを許されたのであった。

又、こんな事もあった。
時代が落ち着いてきた今、武士も武術よりも算盤勘定ばかり考える者が多くなってきていた。
それを嘆いた藩公は 侍の魂を取り戻すべく多いに武道を奨励した。
そして城内で御前試合を度々行った。
ある時仁斎は「良庵を試合に出す様に」と進言したのである。
藩公は「仁斎、それは無理であろう、良庵は医者だぞ、剣術なんて出来る訳が無かろう」と・・・
すかさず仁斎は「だから面白う御座る、武士が医者に遅れを取っては恥、余計頑張ろうと思うのでは」

結局良庵は引っ張り出されてしまった。
そして良庵は決勝戦まで勝ち上がったのである。
決勝戦では、この藩の指南役と戦う羽目になってしまった。
良庵の竹刀は冴えた、セキレイの様に正眼の構えの切っ先が震える。
指南役は右へ左へと動き回るが 良庵の身体は静かに相手の動きに合わせ追い詰めてゆく。
最後は竹刀を置き「参りました」と頭を下げたのであった。
「いや、私こそ打ち込む隙がありませんでした、参りました」と良庵も答えたのである。

勝敗の行方は藩公には判っていた。
が 恥を欠かせない良庵の態度に感心したのだった。
藩公は頷いて「見事な試合であった」と両者を褒め称えた。
これほどの人物が市井に居る事は・・・何か仔細があっての事だろうが・・・
しかし藩公はそれを詮索する気はなかった。
だが良庵はもとより仁斎の株も上がった事は確かである。
その後、指南役も良庵宅によく訪れ 世間話をして行く様になったのである。

「仇討ちの彼方に 6」  ー寒椿ー
仁斎は言った「お前と初めて長崎で出会った頃を覚えているか」「悲壮感が漂って近付き難かったぞ」
良庵は「それはそうだろう、あの頃はわしも若かった」「医術を習得出来なかったら切腹する覚悟だったからなー」しみじみと懐かしむ様にそう言った。

お互い何でも言える仲なればこその会話であった。
良庵が「覚えているか、若君が死にかけた時のお前の慌てぶりは無かったぞ」
「うん、あの時は俺の首が飛ぶかと思った」「お前が居てくれなかったらあの治療は難しかった、助けられたよ」お互い助けたり助けられたり 今日まで過ごして来たのであった。

最初の出会いはすれ違いざまの鞘当だった。
普通ならお互い譲らず果し合いになるところだ。
だが互いが「失礼仕った」「いやいや拙者こそ」
それから身の上話を繰り返し 肝胆相照らす間柄となったのである。
医術の勉強も二人で足らざる所を補い合って切磋琢磨したのだった。

一方美雪は密かに良庵に思慕の情を持つようになっていた。
いつも優しく指導し、身を持って手本を示してくれる。
そして思慮深く誰にも分け隔てをしない。
金の無い患者にも親切に心を砕いた。

しかし美雪には言うのも恥ずかしい過去の生活がある。
それを言ったら嫌われるのではないか、との恐れを抱いて悶々としていたのであった。

そうした気持ちを知ってか知らずか 良庵は淡々と誰にも優しく接していた。
美雪の心など解っていないが如く。
美雪は淋しかった、悲しくもあった。

ついに佐吉夫婦に相談したのである。
「先生が大好きなのに察しても貰えない、どうしたら解って貰えるのかなー」
佐吉の女房は「思ってるだけでは駄目よ、旦那様は朴念仁だから言わなきゃ一生気が付かないよ」
又佐吉は「何か過去に辛い思いをなさったんだろう、美雪様が本当に旦那してなさるんなら思い切って言ってごらん、我々も応援してあげるから」・・・

紅葉の季節も過ぎ雪混じりの木枯らしが吹く頃になった。
美雪が此処に来て三年の月日が経っていた。
時の経過と共に美雪は益々若々しく美しくなってゆく。
それは本当に心の傷の癒えた証拠でもあった。

思い切って仁斎の屋敷を訪れた美雪は 雪吊りの続く庭先を歩いて玄関に向かっていた。
「おや、美雪さん、元気のない顔してるわねー、何かあったの?」仁斎の妻お涼が声を掛けた。
泣きそうな顔で「先生 いらっしゃいますか?」「ええ、座敷で鼻くそでも掘ってるでしょう、上がりなさいな」とお涼・・・・・
「おう、美雪 来たか、思い詰めた顔してどうした?」
「実は先生にお話したい事がありまして・・・教えてください」と・・・

そして自分の十八年間の仇討ちの旅の話、父親の犯した罪などを淡々と語ったのである。
「今の幸せを失いたくないのです、良庵先生をお慕いしてるのですがそれを言ったら嫌われるでしょうか?」
「うーん、難しい問題だな、さて良さんどう出るかな・・・」「しかし美雪が心から惚れたのなら当たって砕けろ だな」

その夜、良庵の前に座った彼女は全てを話し「女の私から言うのは はしたない事は解っているのですが先生が大好きです、愛しているんです」と 涙混じりで訴えたのである。
「少し時間をくれないか」良庵も困惑した表情でそう言ったのだった。
暫くは良庵も押し黙って考えていた。

そして五日後に仁斎の家に赴いたのである。

「おう、待ってたぞ色男」と仁斎・・・「お前まさか死ぬ気じゃないだろうな」
良庵は何故知ってるんだ、と訝ったが 図星を指され戸惑ったのであった。
「うん、俺のお陰であの娘に苦労かけたかと思うと居ても立っても居られなくてな」
「あの娘は思慮分別のある聡明な娘だ、お前の生きて来た道をきちっと話してやれよ」と仁斎。

「お前が首を差し出しても喜ばないぞ、美雪はもう何年も前から仇討ちなんて捨てておる」「いじらしい娘じゃのう、恋するとはそう云うものかな」と笑った。
そして「お内儀の事だが、今は大店の女将として旦那を尻の下の敷いて幸せに暮らしているそうじゃ、安心しろよ」
「しかし女は怖いのう、お前の話では貞淑な妻だったと聞いていたが 何でも今は完全な『かかあ殿下』だそうじゃ」
良庵は常日頃から妻の無事息災を祈っていた。

肩の力が抜けてゆくのを感じたのである。

「仇討ちの彼方に 7」  ー寒椿ー
仁斎は美雪に言った。
「なあ美雪、今此処にお前の仇 藤堂新九郎が現れたら何とする?」
「やっぱり憎いか?」
「いえ、その方の心中を考えますと どれだけお詫びをしても足りません」
「本当に苦しまれたのはその方でしょうから」と答えたのであった。
「うんうん、それで良いのじゃ、それでこそ良庵が救っただけの娘の 良い判断じゃて」「思い切って良庵の胸に飛び込んでゆけ」仁斎はそう付け加えたのである。

それから二日程して良庵は美雪を居間に呼んだ。
深々と頭を下げこう切り出した。

「今お前の前に居る私が藤堂新九郎だ、お前の憎い仇の新九郎なんだ」
思いもかけぬ言葉に美雪は戸惑い、驚いたのである。
そして床の間の開き戸を開け封印のしてある大小の刀を取り出した。
「さあ、斬りなさい、仇を討って故郷に帰ればお家再興が出来るではないか」「苦労のし甲斐があったと云うものだ」
新九郎は藩の取り潰しがあった事も故郷の事情も何も知る由もなかった。

美雪は嫌々をするように首を横に振り泣き崩れた。
それから良庵は静かに語り始めたのであった。

無頼の群れの用心棒をし 幾人かの人を殺め、すさんだ生活を送った日々。
その後、左衛門の子供達に討たれてやる方が一番良いのではないか、と考え探し歩いた事など。

たまたま立ち寄った寺で暫く滞在し 住職に「討たれるのはたやすい事、人の為に生きる事を考えられよ」「お前様は並みの方ではない、ひとかどの人物と判断した、唯死ぬ事は誰でも出来る」と諭され 医術を学ぶ為に長崎に向かったのであった。

そして村上伝八(後の仁斎)と知り合い、又伝八の勧めでこの地に診療所を建て今日に至ったこと等、詳しく話したのであった。
最初は金も無く伝八の好意で診療所の建築費も借り、伝八の父親の死後、伝八は仁斎を襲名し、その時仁斎の勧めで良庵と名乗る様になったのだ、と・・・

「私の命は美雪のものだ、お前の好きにすればいい」
「本当に済まない事をした」と又頭を下げるのだった。
黙って聞いていた美雪は胸が一杯になり全身を震わせ、良庵にしがみ付き こぼれ落ちる涙の海の中に居た。
それは哀しみと喜びが ない交ぜとなり滴り落ちたのである。
だがそれは本当の旅の終わりを告げる 寧ろ嬉しさが勝ったものだったに違いなかった。

それから二年の月日が経った。
良庵の腕の中には可愛い赤ちゃん(良一郎)が抱かれていた、そして傍らには笑顔を満面に湛えた美雪の姿が・・・
寒椿が一杯に咲き誇る七日正月の午後であった。

    ー第一部ー完ー



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