本日 114 人 - 昨日 61 人 - 累計 116675 人

『黎明期』   ー寒椿ー良一郎の恋

「こらっ!又やってきたな!」「だって父上あいつ早苗ちゃんの髪の毛引っ張ったんだもん」「そうか、それは駄目だな、女の子を苛めてはな」「でしょう、あいつは何時も早苗ちゃんに悪戯して笑ってるんだ、父上からも叱ってやってよ」
源太郎は口を尖らせてそう言った。

一方『あいつ』事 良一郎の家では「あいつは早苗ちゃんとばかり口を聞いて俺と話をしてくれなくなったんだもん」「だからと言って早苗ちゃんを苛めて良いと云う事にはならん」と叱られていた。

「お前は幾つになった まだ十歳だろう、源太郎は十三歳、もう女の子に興
味を持つ年頃なんだ」「当分は辛抱しろ、そのうち又お前と話をする様になる」「俺も早苗ちゃんは好きだ、だから振り向いてくれない早苗ちゃんにも腹が立ったんだ、父上あいつに注意してよ」

それを黙って聞いていた母親 美雪は笑いをこらえるのに必死だった。
兄弟同様に育った二人が 一人の女の子を巡って幼い恋の鞘当をしてる。
「私にもあんな時代が欲しかったなー」と思いながら 源太郎と組み合った傷の手当てをしてやっていた。

又 源太郎の家でも お涼が「良ちゃんの傷は大丈夫?」と聞きながら源太郎の手当てをしていたのだ。
仲が良い癖に会えばすぐ取っ組み合いを始める。
兎に角二人とも向こうっ気が強い。
一日会わないともう心配する。

「父上あいつ病気にでもなったのかなー」「ちょっと様子を見て来るよ」と家を飛び出して行く。 

久しぶりに剣術師範の武智龍之介がやって来た。
例の如く 碁を打ちながら二人の話に及んだ。
「源太郎はまあ年相応の普通の力だが、良一郎は非凡なものを感じる、が気性が激しいのが気になるのう」「良庵殿のお子とは思えぬ」と・・・

「いや私も子供の頃はあんなものだったから心配する事も無かろう」
「この間もよ、一度参ったと言わせてやろうと思って強かに打ち据えたところ、竹刀を投げつけ その隙に太股に噛み付きおった」「それこれが傷跡だ」
成る程、太股に歯型がくっきりと付いていた。
良庵は笑いながら「それは災難だったのう」「で 少し治療でもしてゆくか?」
「いや、そんな必要は無いがもう少しおとなしくならんものかなー」「他の子供たちの生傷が絶えん」

良庵は考えた。
「大人の組に入れて徹底的にしごいてくれよ」「あいつはやられる事がクスリじゃて」
そこへ良一郎が泥だらけで帰ってきた。

「おい、良一郎明日から若者組で稽古じゃ」師範龍之介が声をかけた。
「先生、源太郎も一緒か?」「いやお前だけだ」「なら嫌じゃ、源太郎も一緒でなければ嫌じゃ」
龍之介は仕方なく両名とも若者組に入れる事にしたが・・・

翌日若者頭に「源太郎には手加減してやる様に、良一郎は手加減無用」と命じたのであった。

だが二三日は二人は若者組の竹刀の鋭さ、力の強さに戸惑った。
が 良一郎はすぐ慣れて小さな身体で鋭い動きを見せる様になっていった。
ある日、若者の一人が良一郎の胴を払った、途端その身体が一瞬消えたのだ。
「面!」鋭い声と共に若者の額に見事良一郎の竹刀が唸りをあげて飛び込んだのである。
払った胴の遥か上まで飛び上がり面を取ったのであった。

流石の師範も驚いた。
そして御前試合の良庵の太刀筋を思い出したのである。
「この子はどれだけ強くなるのか」楽しみが沸いてきた。
だがその一本が若者組の闘志に火をつけた事は確かであった。
毎日徹底的にしごかれる。

だが道場を出るともう何事も無かった様に走り回る。
鼻の頭に膏薬を貼り手足は痣だらけ、これでは早苗も余計嫌がるに決まっている。
源太郎は得意満面、早苗と話をしてる、それが又面白くない。
又二人は取っ組み合いを始める。

しかし ある日源太郎が早苗と話をしている時、普請奉行の息子が二人に因縁をつけたのだ。
二人に対する嫉妬(ジェラシー)からである。

すると後ろから付いて来ていた良一郎が 猛然と飛び掛っていったのである。
二人を守る為五歳も年上の男と取っ組み合いを始めてしまった。
何時もの傷とは違うのに気付いた良庵は、手当てをしながら事の顛末を聞こうとした所へお涼がやってきた。

何でも普請奉行の息子が骨折したと言うのである。
早速美雪が菓子折りを持って詫びを入れに出向いたのだった。
事の顛末を聞いた良庵は息子を叱る事が出来なかった。
親友の危機を救った良一郎がいとおしくて溜まらなかった。
普請奉行の息子の治療は仁斎が行ったのであるが、仁斎も又早苗を守れなかった息子に「女を守れない男がわしの息子だとは恥ずかしい」と嘆いていたのである。

後日、奉行と良庵が顔を合わせる機会があった時「良庵殿、だらしの無い息子を許してくれ」と頭を下げられたのに対し「いえ、私の息子のせいでご無礼を仕った」と・・・
「お互い子供の事では頭が痛いですなー」と笑い合ったのである。

その後早苗の心は源太郎と良一郎の間で揺れ動くのであった。
「源太郎さんは優しいし良一郎さんは勇気があるし・・・二人とも仲良しだし、どっちがいいかな?」
だが早苗にはまだ両家の格式とか 世の中が判っていなかった。
早苗の父親は『大工の棟梁』長屋住まいの町人なのだ。
現代の様に好きなら一緒になればよい、と云う時代ではなかったのである。

源太郎には姉が二人居た、良一郎にも妹が一人 だがどちらも長男である事には代わりはない。
家の跡を継がねばならない身である。
だが知ってか知らずか二人の恋の鞘当は続くのであった。
だがこうした時代にも抜け道はあった。
何処かの武家の家の養女にでもなってそこからお嫁に行く と云う手も有るにはあったのだが・・・
それには余程の信用もないと出来ない事だった。

この十年の間に藩政改革は随分行われた。
良庵の所では養生所(今で云う入院設備)も作られた。
藩からの扶持(予算)も貰い金の無い者でも 養生所で療養出来る様になっていた。
若い医師も三人働いている、他にも手伝いをする女性も四人、大所帯になった。

又仁斎は無役ながら家老のご意見番として登用され 御殿医と兼任して藩政に貢献してたのである。
川の曲りくねった所には貯水池を作り 川筋を出来るだけ真っ直ぐにして氾濫を防ぎ 被害を最小限にとどめる事業も普請奉行に指示して行わせた。
加賀藩には美味しい菓子が一杯ある。
それを商家を通じ全国に広め、売らせる方法も取った。
そうした改革は目には見えなくとも確実に藩の財政を豊かにしたのである。
その良き助言者(アドバイザー)は他ならぬ良庵であったが・・・

源太郎と良一郎は例の如く朝早くから早苗の顔見たさに いそいそと長屋に向かった。
源太郎の手には花束が、良一郎の手には小太刀が、如何にも良一郎らしい発想であった。

それから三年後、源太郎は元服の儀式を迎えた。
仁斎は長崎で医術の修行をさせようと思ったが 藩公は「今度の参勤交代の後でもよかろう、一度江戸の地でも見てそれからにせい」と仁斎に命じたのである。
藩公は日頃の源太郎の勉学振りを聞き知って『いずれこの藩を背負って立つ男』と見込んでいたのだった。

仁斎は「広い世界を見るのも又役に立つかも」と有難くお受けしたのであった。
良一郎はちょっぴり羨ましかったが「これで早苗と二人だけで話が出来る」と大喜びしたのである。
だが何時も源太郎と張り合っていた時とは何かが違っていた。
あれ程夢中になっていた早苗に対する情熱が消えていったのだった。
やはりライバルが居ないと燃えるものが無いのか。
でも何となく気になる存在では有ったのではあるが・・・

次第にそれは早苗にも伝わるものがあった。
そして身分の違いで結ばれる間柄では無い事も・・・

そんな時、早苗の前に雑貨屋の息子、仙造が現れたのである。
不思議と良一郎は嫉妬心が沸いて来なかった。
「本当は良一郎さんも源太郎さんも大好きよ、でもどんなに頑張っても一緒にはなれないもんね」「仙造さんについて行くわ」
良一郎は仙造に「絶対大事にしてやれよ」と言ったのであった。
こうして良一郎の初恋は終わったのである。
   
「黎明、それぞれの旅立ち」  ー寒椿ー
良一郎も元服し 毎日父親の指導で医術を学ぶ傍ら道場で汗を流していた。
今では立派な若侍となっていたのだった。
ある日「父上は本当に強いの? 庭先で木刀を振ってるだけで誰とも手合わせした所を見た事がないけど」笑って良庵は「強くは無いさ」「皆がそう思っているだけだ」

良一郎は今では道場を代表する程の強さになっていた。
若者組から青年組に入っても、際立って強さを発揮していたのだ。
師範は「この子はもっと大きな所で修行した方が良いのではないか・・・江戸には多くの剣客が居る、そんな所で揉まれたら良いのでは・・・」と考えていたが「良庵は許さないだろう、何しろ医師の長男だからなー」とその才能を惜しんだ。

実は良庵も悩んでいたのである。
良一郎は医師より違う道があるのではないのか、もう少し自由にさせて置いてやれば本人が何かを見つけるだろう」と・・・

考えた末、良庵は良一郎を庭先に呼び「父と思わず打ち込んで参れ」と言ったのである。

「よし、父上の本当の力を見せて貰おう」と思いっきり打ち込んで行った。
だが何度打ち込んでもそこに父の姿はいない。
わずか数寸のところで交わされてしまう。
「こんな筈ではない、どうしてだ?」「まだまだ甘いのう、俺の眼を見ろ」「つま先の動きを見ろ」「剣を見るな」
良一郎は父の強さをまざまざと見せられた。

翌日、父の教えを肝に銘じ朋輩と手合わせをしてみた。
すると どうであろう・・・相手の動きがよく見える。
相手の動きが面白い様に読めるのだ。
その後の良一郎は見違える程 長足の進歩を遂げたのだった。

龍之介は言った「良庵殿、良一郎を娘の婿にくれんかのう」
「それは当人同士が好き合えばの事でしょう、まだ私も娘御を見た事もないから一度遊びに来られたら如何かな」
そして親の思惑など知らず 良一郎は娘百合と引き合わせられたのであった。
良一郎は「何だ、あの赤毛は」とまるで興味を示さなかった。
一緒の道場で顔を合わせてはいるものの まるで眼中に無かったのである。
成る程髪の色が幾分栗毛がかっている、だが人懐きそうな可愛い顔をしていた。
そして気立ての良さそうな娘である。

「まあ、付き合って行くうちにいろいろ良い所も悪い所も解ってくるだろう」良庵は好感を持ったが 何分本人が気に入らなければ仕方が無い。
そうこうしてるうちに源太郎が帰ってきた。
早苗の事を聞いて肩を落としていたが すぐ百合にちょっかいを出す様になったのである。
そうなると良一郎も黙っていない。

又々喧嘩の始まりである。
美雪は面白くて堪らない、お涼と話し合って大笑いをするのであった。
何故仲の良い二人が 何時も一人の女を巡って喧嘩するのか、意味が判らない。
女の子は幾らでも居るのに・・・・
だが今度は源太郎に分が悪い。

「源ちゃん可哀想だね」美雪が言うと「何故だ 母上は源太郎の味方か?」と・・・
「良一郎はあの子が気に入らなかったんじゃないの?」「いや、今は好きじゃ」「誰が源の野郎に取られて堪るか」と、こうである。
龍之介も良庵もこの恋の鞘当に大笑いした。

「この縁談受けてくれんかのう」「まだ判らんぞ、もし源太郎が本気だったらどうする?」
龍之介は「いずれ藩の指南役をする事になろう、源太郎ではどうもなー」
「おいおい、未だそうと決めて貰っては困る、こちらも跡取りだからのう」
「うーん・・・」父親二人が頭を痛めている事など彼らにはどうでも良い事、結構仲良くやっていた。

まだ良庵が若く藤堂新九郎と名乗っていた頃、三代将軍家光公の前での御前試合・・・柳生の剣客と昼から日没まで闘った事がある。
だが決着が付かず『勝負預り』となったのだ。
小藩ながら西国に藤堂新九郎在り、と存在を示したのであった。
その血脈は良一郎に確実に受け継がれている。

良庵は遠く若い頃を思い出していた。
良一郎の将来どう生きれば一番好いのか・・・親として何をしてやれるのか?
良庵は悩んだ。
妹に婿でも取らせるか、そして良一郎には自分の好きな道を歩かせてやるか・・・?
その気持ちは龍之介も良く解っていた。
それだけに良一郎の行く末に責任も感じていたのだった。

どうやら良一郎と百合は巧く行っている様である。
源太郎の出現で状況は一変したのだった。
時の氏神とはこんな事も云うのかもしれない。

だが源太郎は面白くない。
「ふん、江戸の女の方が可愛いわい、俺は江戸の女を女房にしてみせるわい」
精一杯の強がりを言って彼は百合の前から去って行った。
今度は良一郎が淋しくなった、友の悲しみは自分の悲しみでもあったのだ。
でも以前とは違い百合を本当に愛し始めて居た。

幼い頃から小太刀を使い、道場狭しと暴れ廻っていた百合にも源太郎の太刀さばきは物足りなく、頼り甲斐の無い男に思えていた。
だから幾ら源太郎が好意を持ってもそれは無理と云うものである。

唯 相手を傷つけまいと思って口には出さなかっただけの事であった。
源太郎は何と無く感じていたがそれを聞くのも又怖かったのである。
だから精一杯の強がりを演じていたのであった。
百合も又良一郎の親友なればこそ気を使っていたのだった。

程無くして源太郎は医術修行の為長崎に旅立って行った。
街道のはずれまで来た時 後ろから大声で叫ぶ声が聞こえた。
「いい嫁さん探して来いよー」
丘の上の大木の上から良一郎が手を振っていた。

「活人剣ー若き虎」  ー寒椿ー
何時しか良庵も七十の坂を越えていた。
しかしまだまだ意気軒昂であった。
が、息子良一郎に教えなければならない事がたくさん有ったのだ。
もし剣の道で生きて行くとしたら自分自身で体得した『音無しの剣』を教え継がせてやらねばならない、と思っていたのだ。

それは人を斬る為のものでは無い。
刀を抜かずして相手を屈服させるものである。
いわば人を生かす道『活人剣』である。
まだ若い頃、それが出来ずに辛い思いをした事がある。
放浪の末 見出した本当の武士(もののふ)の剣であるのだ。
何としてでもこの剣だけは伝えて置きたいと思ったのである。
その為あえて良一郎に毎夜真剣を持って指導した。
良一郎も父の期待に答えて命がけで修行していたのである。

龍之介はその姿を見て身震いを感じた。
「自分にあれだけの指導が出来るだろうか?」良庵の剣は師範龍之介と言えども到底太刀打ち出来るものではない。

殿の前での試合の事が思い出された。
「あの時良庵がもっと真剣に闘っていたら 俺の立場は無くなっていたであろう」
そして その息子が俺の息子になろうとしてる。
喜びが倍増したのであった。

百合に言った。
「三国一の、いや 日本一の婿殿を迎えるのだ、決して粗略にするのではないぞ」と・・・
だが良一郎は二十歳を越えたばかり、百合十七歳・・・まだ祝言を挙げるには早い、いや、早過ぎると云う事もないが 心はまだ子供である。
そして良庵の返事もまだ くれていない。
龍之介はそれを心待ちにしていたのであるが。
道場ではもう周知の事実として皆は理解していたが 天衣無縫の良一郎は相変わらずその自覚さえ無い。

毎日そこら中で悪戯をして歩く。
ある日 鰻屋の生簀の栓を抜き川まで鰻を逃がしてしまった。
川まで逃げて行くのを楽しんで見ていたのだ。
面白半分でやった事だが鰻屋の方は堪ったものではない。
美雪はお詫び方々弁償に走ったのである。

又ある時、百合を連れて丘の上に登りその一番大きな巨木の上まで百合を上がらせようとした。
「ほら、百合もあがって来い、街中が良く見えるぞ」と・・・
そしていきなり足袋を脱がせ着物の裾を太股まで捲り上げ腰の所で縛りつけ「これなら楽に上がれるだろう、さあ付いて来い」と巨木の枝まで引っ張り上げたのである。

「恥ずかしい」と言ってもお構いなしである。
しかしそこで見る風景は素晴しいものであった。
百合は感動した。
街中が眼下に広がる、今まで知らなかった世界が見下ろせる。
まじまじと良一郎を頼もしくまぶしく見たのであった。

帰って父親に興奮して話したところ龍之介は腰を抜かさんばかりに驚いた。
男手ひとつで育てた龍之介にはこんな時どうすれば良いのか解らなかったのだ。
そして苦笑いをしたのであった。
そして妻が生きていればと思ったものである。

「まだまだ子供じゃわい、祝言はまだ先の事かな」と・・・・

しかしそんな無鉄砲なところばかりでもなかった。
ある日、街角で浪人が町人の子供を無礼討ちにしようとしていたのだ。
何でも子供同士で遊んでて浪人の袴にぶつかったと云う訳だ。

良一郎は中に割って入り「子供の事だ、許してやったらどうか」と庇ったのであるが・・・
浪人は余程虫の居所が悪かったのか「どうしても手討ちにする」と息巻いていた。
「ではこの子に代わりお相手致しますが宜しいですか」若い侍に言われたのが余計腹が立ったのか 「生意気な」と ばかり、いきなり斬り付けて来たのであった。
子供を庇いその剣を交わし良一郎は扇子で小手を打ち剣を跳ね上げたのである。
空高く舞い上がった剣は良一郎の手で受け止められ 溝の中に投げ捨てられた。

町人達は歓声をあげ子供の無事を喜びあったのだった。
すぐ傍で見ていた百合は頼もしい未来の夫の姿に感動していた。
噂はすぐに広まったのである。
龍之介も鼻が高かった。

そして又一年、二年と年は過ぎていった。

堪らず良庵に早く婚礼を急ぐ様に催促をしたのである。
良庵は「まだ早い」と思いながらも了承したのであった。
しかし離れて行く子供への思いは辛いものである。
婚礼の時期を後一年後と引き延ばす事が精一杯の抵抗であったのだ。

そんな時源太郎が帰ってきた。
早速城中にて藩公にお目通りをして仁斎の後任としての挨拶を済ませたのである。
藩公もそろそろ引退して若君(吉徳公)との代替わりをしようと考えていたのだ。
が、周囲はまだ藩公綱紀公の引退を許す状況ではなかった。
頑健な藩公はもう少し厳然と睨みを利かせてくれる事を望んでいたのだ。
仁斎も又六十の坂を越える年齢にて「よくもまあ、これまで続けられたものだ」と感慨にふけっていたのであった。
仁斎は息子 源太郎に後を譲り後見として陰で支える許しを得 事実上家督を譲ったのである。

源太郎はよく働いた。
だが何か悩みを抱えている様に浮かぬ顔をしている。
ある時、良一郎に「相談したい事がある」と悩みを打ち明けた。
青天の霹靂であった。
長崎に心に留まった娘がいると云うのだ。
その娘には源太郎の子供も居ると・・・

「何とか夫婦になりたいが父上は許してくれるだろうか、町家の娘で名はおみよ、医学館で知り合い好きになってしまったのだが、連れて来る訳にもゆかず『きっと迎えに来るから』と因果を含め帰ってきたのだ」と・・・
これには良一郎も困った。
良一郎は内密に父に相談をした。
「うーん」と言ったきり腕組みをして黙ってしまった。
「美雪なら何とするかな、きっと簡単に許すであろうな」

この根回しは女が良いと考えた良庵は それとなく美雪からお涼に話してくれる様 頼んだのである。
美雪は「源ちゃんもやるわね」と笑って言った。
お涼と打ち合わせて早飛脚を長崎に送り良庵の家に呼び寄せたのである。
エキゾチックな顔をした小柄な可愛い女だった。
懐には大切な源太郎の子を抱いて不安そうな眼で玄関の入口に座っていた。
居間に導いた美雪はその生い立ちから源太郎との馴れ初めをいろいろ聞いていた。

決して良家の娘ではない、が天涯孤独の身 医療で人の役に立ちたいと苦労して医学館に入ったと・・・

「少し辛抱してここで働きながら吉報を待ちなさい」
美雪はもう決めていた。
良庵の養女にして我が家から嫁がせてやろうと。
だが良庵は慎重であった。
すぐ早馬を飛ばし おみよの身元を調べさせたのである。
おみよは薩摩藩琉球の貧農の出で両親は既に世を去り親族と呼べる者は居なかった。
だが居たのかもしれないが『殿の馬前を汚しお手討ちになったとの事』誰も身内を名乗る者が居なかったのである。

可哀想な身の上に美雪は涙した、お涼もおみよの人となりを知り賛成したのであるが 仁斎はいくら源太郎の子供だとしても子持ちの女に難色を示した。
が その気立ての良さ、働き振りを見て結局は許したのである。

祝言は簡素なものであったが源太郎はもとより皆に祝福された幸せな旅立ちであった。
街の噂では子持ちの女を貰ったと一時期 話題にもなったが(人の噂も七十五日)おみよの人柄が知られるうちに誰も何も言わなくなった。
そうこうしてるうちに良一郎の妹が療養所の医師と恋に落ちたのである。
喜んだのは龍之介である。

「良庵殿早いとこ婚儀を済まそうではないか」
だが良庵も頑固である。
「未だ一年は経って御座らん」と にべも無い返事。
「うーん、あの頑固者!」
しかし良庵は待っていたのである。

「愛・・・・そして激闘」  ー寒椿ー
「俺が美雪と一緒になったのは寒椿の咲く頃であった、その頃が良かろう」と・・・
「あの人は私たちと同じ日に婚礼をしたがっているのよ、この日が一番幸せになる事が出来ると信じて・・・」
「やれやれ、婿を迎えるのも難儀な事じゃわい」愚痴をこぼしながらもその日を指折り数える龍之介であった。

相変わらず良一郎は天衣無縫、人前でも百合の頬に顔をくっつける、百合が後ろから付いて歩くのを嫌う、手をつなぎ大手を振り大声で騒ぐ。
百合が恥ずかしがれば「いずれ夫婦じゃ、何が恥ずかしい、もっと堂々とせい」と こうである。
およそ その時代にはふさわしくない行動を取っていたのである。

大道芸でもあればひょいと百合を肩の上に乗せ「どうじゃ、特等席だろう」と笑う。
街角で百合に追いかけられて頭をポンポン叩かれる。
それでも良一郎は逃げ回るだけで怒らない。
男性社会のそれも階級社会にあっては異例の光景であっただろう。
だから余計笑いも誘った。

又良一郎は町人と云えども対等に話をする。
自分が悪いと思えばどんな子供にさえ頭を下げる。
貴賎上下で人を見ない。
何時も街の人の噂の種になる。
しかしその人柄、人気は絶大なものであったのだ。

だが一歩道場に入れば全く別人に代わる。
【加賀の猛虎】・・・・何時しかそう呼ばれていたのだ。
それが藤堂良一郎である。

ある時、良庵は「父と思わず命懸けでぶつかって来い」と真剣を持ってそう言った。
良一郎は力の限り斬りつけた が 何度やっても父の姿は数寸のところで交わされてしまう。
「剣を見るな!眼を見ろ、つま先を見よ」何度も同じ事を言われ父親の刃は良一郎の五体を襲う。
まさに鬼気迫る奥義の伝授である。

その後の良一郎は又々強くなった。
竹刀を交わす事無く相手を倒す剣を遂に身に着けたのであった。
龍之介は若き日の良庵を見た思いがしたのであった。

そんな時荻生文蔵なる人物が「一手 手合わせを」と やって来た。
生憎、師範龍之介は留守であった。
壮年組頭 川俣健輔が「師範の居られる時に来られよ」と断ったのだった。
「では明日参る、拙者柳生新陰流荻生文蔵 覚えて置かれよ」と去って行った。
龍之介は「おかしい 柳生流はお止め流のはずだが」と・・・
だが良一郎は喜んでいた「他流試合が出来る」と。

翌日その人物は現れた。
客間に通し茶を勧め「まずは身体を解してからにしましょう、若い者に一手ご教授を」と挑発したのであった。
その男は「ムッ」とした表情で「俺の剣は少々手荒いが宜しいかな」と・・・
龍之介はニヤリとして「どうぞご随意に」と答えたのであった。

一方美雪は気が気ではない。
家の中を行ったり来たり、良庵は何時もと変わらず治療を続けてる。
「あなた 心配では無いのですか、もし良一郎が大怪我でもしたらどうするんです、この薄情者!」「一緒に付いて来てください」
遂に良庵も引っ張り出される羽目になった。

格子窓から覗くと龍之介が笑顔で入って来るよう促した。
道場の入り口付近に座り 成り行きを見守ったのだった。
木刀を一振りして川俣なる人物が中央に現れた。
龍之介は「最初は良一郎、行け」と指名したのである。
道場はどよめいた、若いが一番力のある良一郎を指名するとは・・・

美雪は胸の高鳴りを抑える事が出来なかった。
良庵は小さく「息子の勝ちじゃ」と呟いたのだった。
「えっ」美雪が聞こうとした時、龍之介の「始め!」の声が響いた。

相手は真っ向から面を取りに来たが 既に良一郎の抜き胴が決まっていたのである。
「いや、まぐれじゃ、本気で行くぞっ」だが、何度闘っても相手の木刀は床を叩き空を切るばかりであった。
あちこち傷を作りすごすごと退散していったのである。
「若い者にあれだけ強い奴がいるとは、この道場は凄い者がたくさん居るだろうな」と・・・
もう道場破りして名を上げる時代では無かったが まだその夢を追う浪人も結構居たのである。

小雪が舞い椿の花のほころぶ頃となった。
良庵は伝え残した事はないかと考えていた。
去って行く息子にはもう教える事が無くなった事が淋しかった。
「すぐ近所ですよ、碁仇も何時も来るではありませんか」
美雪の言葉が恨めしく思えたのだった。

そして良一郎は藤堂家から武智の姓に代わったのである。
だが良一郎は良庵の家と龍之介の家とを行ったり来たりするのである。
それは父 良庵への思いやりでもあったのだが、傍らには何時も百合の姿があった。
良庵は又一人娘が出来たと喜んだが龍之介は面白くない。
そこで龍之介も事ある如く良庵宅を訪れる事になったのだった。

良一郎の人柄は城内でも絶大な支持を受けていた。
だがそれが面白く無い者達も 又多々居た。
それは突然やって来た。

桜舞い散る宵の事であった。
ほろ酔い加減の浪人がすれ違いざまに斬りかかって来たのだ。
酔った振りをして近ずいたのである。
すぐさま取り押さえ家に連れ帰ったのである。
義父龍之介は「不届きな奴、斬捨てよ」と言ったが、良一郎は百合に食事の支度をさせ一緒に食べる事にしたのだった。
「誰に頼まれたは聞かん、だが命は大切にせい、お前が死ねば悲しむ者も居るであろう」と・・・

静かな語り口に彼は重い口を開いた。
彼の名は 椎名源蔵 草の者を束ねる裏柳生の頭だった。
「実は江戸では天下第一の剣は武智良一郎也との噂が飛び交っている、この分では柳生の名も軽んじられる」
「その噂の出所と武智何がしの技量 器を調べる様に御本家からの指示があって【草の者】『その土地に代々住みその藩の情勢を逐一江戸表に報告する裏柳生の忍者』一同で貴殿の周辺を洗っている所で御座います」

「拙者はおぬしに惚れ申しました、失礼の段ご容赦を」「噂はどうも貴殿の失脚を望んでいる者の仕業で御座ろう・・・」と。

すぐそれは判明した。
日頃から良一郎を快く思わない者達の仕業だった。
次席家老大場万四郎の周辺から「そうした噂を流せば柳生は黙って居まい、必ず良一郎は柳生の手によって抹殺されるに違いない」との思惑で 江戸の町人たちに流布したとの事である。
清廉潔白な彼がこのまま大きくなれば自分達の立場が危うくなる、との恐れからであったのだ。

真相は柳生本家から上様(家綱候)そして藩公に伝えられたのである。
藩公は激怒した。
そして大場の処断を決意した。
良一郎は「人は誰でも過ちを犯すもの、叱り置くだけで宜しいのでは」と言上したのだった。

大場は自らを恥じ隠居届けを出したのである。

将軍家綱は良一郎に一方ならぬ興味を持たれた。
是非今度の参勤交代の折には連れて来るように命じたのであった。
そして柳生との手合わせを望んだ。

最近は寝込むことが多くなった良庵は良一郎を呼んで「これが最後の言葉かも知れん」と 前置きをして「どんな戦いにも敵は己の中にあると思え、勝ち負けは天が決めるもの、自分らしく堂々と生き抜け」と言ったのである。
上様の前でどう戦えばいいのか迷っていた良一郎は目の前の鱗が落ちた様な気がしたのであった。
それまで「勝てば柳生家に傷がつく、負ければ藩公に申し訳が立たない、どうしたら良いのか」との迷いが重くのしかかっていたのである。

晴々とした気持ちで江戸の土を踏んだ。
拝謁も終わり良一郎は柳生邸に招かれた。
良一郎は知る由もないが既に柳生ではそうした会見の中で彼の力量、心構えを見知って置く腹であったのであったのである。
一目で但馬守は良一郎が並みの人物ではない事を見抜いた。

四方山話に花が咲いた。
「時におぬしの剣は何処で学ばれた」「父と武智龍之介で御座います」
「ほう、父上とな・・・で、お名前は何と申す」当主但馬守が聞いた。
「医師 良庵と申します」「ほう、医師とはのう・・・?」「昔は藤堂新九郎と名乗っていました」
「おう 道理で、懐かしいのう、音無しの剣・・・か、で 今もご健在かな?」
遠く昔を思い出す様に言ったのだった。
改めて父の偉大さを知った良一郎であった。

「堂々たる人生、そして愛」  ー寒椿ー
翌日 良く晴れた日 いよいよ試合の当日・・・
上様の前にての晴れ舞台である。
だがお止め流の為極秘裏に公式には発表されない試合であった。
相手は四天王の一人柳生宗近、相手に取って不足は無い。
互いに礼をして向かい合った。

一刻一刻と時間は経って行く、だがどちらも仕掛ける様子はない、いや、仕掛けられないのである。
良一郎は「これは先に仕掛けた方が負けだな」と悟った。
上様は「これはどうした?」と但馬守に聞いたのである。

但馬守は「これは心と心がぶつかり合った勝負で御座る、天下の名勝負になるで御座居ましょう」と・・・
「家光候ご存命の折、私が戦った藤堂新九郎の息子で御座います」「奇しくも二代で戦おうとは夢にも思いませなんだ」「立派な人物と見受けられます」
そして「この男が居る限り加賀藩は安泰ですな」と・・・

ザザザッと砂利を掃く足袋の音だけが響く。
二時間半程 そうしたせめぎ合いは続いた。
ジリッジリッと良一郎は間を詰めて行く。
堪らず先に仕掛けたのは宗近の方だった。
一瞬体勢が入れ替わった時 宗近の木刀は中空を舞っていたのである。

「参りました、宗近殿の小手が早う御座った、これが真剣なれば先に私の手は斬られていたでしょう」と良一郎は一礼したのであった。
「いや、貴殿は強い、拙者ももっと修行せねばなりませんな」と宗近・・・
但馬守は完敗を認めていた、だが口にする事はなかった。
柳生の負けは許されない宿命であったからだ。

上様は「見事な試合であった、どちらも勝者じゃな」と上機嫌で 良一郎は一刺の懐剣を賜ったのである。
柳生家も藩公も傷つく事の無い結末であった。
それからの宗近と良一郎の親交は生涯続いたのである。

こうして半年ほど過ぎた頃、国許から早馬が届いた。
『良庵殿の様態急変』の知らせであった。
早速藩公は良一郎の任を解き国許に帰らせたのである。
馬を飛ばし昼夜の別無く走った。

「間に合ったか!」「父上只今帰りました、お加減は如何」
良庵は静かに笑い「首はついておるか・・・」と言った。
「無事終わりました」そして又 眠り始めたのだった。
母 美雪と相談して妹美鈴の結婚を取急ぎ行ったのである。
それを静かに見守った良庵は笑顔で旅立って逝ったのだった。

仁斎、龍之介も泣いていた。
美雪は気丈にも振る舞い 全てを取り仕切り良一郎に言った。
「私の命は父上のものです、もし後を追っても見苦しき事は無き様に」と・・・
その覚悟の固さは理解出来たものの良一郎は「母上、お気持ちは承りました、お止めは致しません がしかし母上には未だ大切なお役目があります」
「私の子供の顔を見てやってください、それまでは死ねませんぞ」と・・・・

百合には「まだ子供は作るまいぞ」と言い渡したのである。
龍之介も早く孫の顔は見たいと思っていたが、その事情を理解してくれたのだった。
龍之介は良庵の代わりは出来ないものの 努めて美雪の元に通ったのである。

そうした思いやりの心の判らぬ美雪ではなかったが やはり淋しさは日に日に募り一度に歳を取ってしまった思いがした。
一人縁側で寒椿を眺めながら小さな声で「あなた・・・」と語りかけるのであった。

百合は「お母上の初恋の話を聞きたいわ」と話し掛け、苦しかった旅の話から今日までの出来事を詳しく知った。
「あの人は最後まで私を慈しみ愛し、育ててくれました」「いずれ良一郎もそうなれば母は嬉しいのですが・・・」

涙の中で聞きながら 素晴しい夫を持った事に余計嬉しく思ったのである。
ある日百合の前にポンと投げられた懐剣に「何ですか、これは?」「何 上様がくれたものじゃ、百合にやるから包丁代わりにでも使え」と・・・
何と云う男であろう、葵の御紋の入った大切な戴き物を包丁代わりに使えとは・・・
「所詮 人斬り包丁だ」と笑って言う。
実に大胆で豪快な男であった。

二年後百合が身篭った。
母の名を頂き『美雪』と名付けられた。
良一郎は「さあ母上の出番じゃ、七五三までは死ねませんぞ」と美雪に告げたのである。
美雪はそんなに自分を思ってくれる息子に感謝し、又生きる勇気と希望を持ったのであった。

そして又一年置いて再び可愛い子供が生まれた。
今度は双子であった 今度も女の子だった。
その時代 双子は畜生腹と云って忌み嫌われたものである。
密かに里子に出すのが普通であったが 良一郎は「皆私の可愛い子供じゃ」と里子に出す事無く 大切に育てたのだった。
龍之介は「これでは女ばかりではないか、男を作らねば家が絶えるぞ、外に女を作ったらどうか」と言った。
だが彼は生涯百合一人を愛し続けた。
普通武家の家では子孫を多く残す為 妾を持つのは普通の事であったが 良一郎は唯一人百合だけを愛したのである。

何時も「おばあさま、おばあさま」と良くなついた。
美雪の膝は可愛い孫たちに占領されっぱなしだった。
それが又美雪にはたまらなく嬉しかったのである。

ある日美雪は龍之介に「囲碁を教えてくださいな」と言った。
門前の小僧 ではないが中々筋がいい。
龍之介も喜んで毎日通い続けた。
それを知った仁斎も 又負けじと通う。
お涼も仲間に加わった。
もう若い者の時代である。 

良庵亡き後のこの家は老人の集会所と化していったのである。
何時しか近所の老人たちも集まってきた。
そんな姿を眺め 良一郎百合夫婦の頬も緩んだ。
ある日 仁斎は「良庵殿と碁が打ちとうなった」と言って帰って行った。
そしてこの屋敷に来る事もなくなったのである。
間もなく仁斎も良庵の元に旅立って行ったのであった。

美雪も又床に伏せる日が多くなった。
時々昔の事を思い出す。
吹雪き舞う中を兄と二人でさまよい歩いた日々、死の淵から救ってくれた良庵との出会い・・・
そして最愛の息子『良一郎』を授かった時の喜び。
全てが走馬灯の様に駆け巡った。
「もうすぐ会えるわね、待っててね」美雪はそう椿の花に語り掛けたのだった。

    ー寒椿ー  ー完結ー



前の記事
2015年10月15日
次の記事
2016年02月10日
関連記事
NO IMAGE
『二人の検校』 (02月10日)
NO IMAGE
『二人の検校』 (02月14日)

コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):