『二人の検校』
現在の岐阜県、東北部の町。
飛騨の下級武士斉藤家に可愛い男の赤ちゃんが二人生まれた。
「おぎゃー」と泣いた時 斉藤健四郎は「ちっ畜生腹か」と不快に思ったのである。
二人とも盲目であった。
当時は双子、三つ子に至っては犬、猫と同然、一人を残し何処かにその内の一人を里子に出すか捨てるのが普通である。
だが健四郎は違ってた。
「畜生腹の子など見たくも無い」一人を寺の住職に渡し もう一人を小船に乗せ流したのであった。
住職は『捨吉』と名を付け大切に育てたのである。
「いずれ歳が来たら針灸とアンマを習わせ身の立つ様にしてやろう」と・・・
又もう一人の赤子は浜辺に打ち上げられた船の中で瀕死の状態で漁師の和助に拾われたのであった。
和助の家は子沢山でこれ以上育てる力は無い。
そこで庄屋の宗次郎に相談したのである。
宗次郎は名字帯刀を許された庄屋だった。
儀に厚い男気のある男だった。
「よし、俺の家で面倒を見てやろう、船で流されて来たのであろう、名前は舟一がよかろう」
それぞれの落ち着く場所が決まったのである。
それから7年の月日が流れた。
舟一は多少 薄ボンヤリとであるが眼が見える様になった。
彼は五感を鋭く働かせ一通りの事が出来る様になっていた。
宗次郎は将来彼の身の立つ様にと城下の検校孫弟子のアンマの内弟子として預けたのである。
そこで針灸マッサージを習い『アンマ』としての修行を積ませる事にしたのだ。
宗次郎は常に「お前は確かに眼が弱い、見えると言っても たかが一尺程度であろう、一生懸命修行してアンマとなるが良い」と言ったのだった。
一方 捨吉は完全に眼も見える様になってはいたが盲目の方が何かと云えば都合が良い。
皆の同情も買う事が出来る。
仕事も適当にやってても「めくらじゃ仕方がない」と大目に見てもらえるのである。
それに甘えて楽な暮らしをする事を考えていたのだった。
やはり針灸の修行に出されたのであるが夜は必ず寺に戻っていた。
通いで教えを受けていたのだった。
時々住職の肩を揉んだり針灸を施したりして修行方々他の先輩坊主に喜ばれてたのである。
噂を聞き付け尼寺からもお呼びが掛かる様になった。
そして普通なら元服の歳になった。
彼も年頃の青年になったのだった。
そうすると男の本能が眼を覚まし若い尼さんの急所近くを軽く刺激する。
余計尼さんの人気が集まる。
そして腕の確かさと人気に支えられアンマとして自立し花柳町の一角に家を手に入れたのであった。
当時、金貸しは アンマのみに許されて居た行為だったのである。
勝手に村岡検校と名乗った捨吉は呉服屋美濃屋に取り入り 豊富な資金で金貸業にも手を染めて行ったのだった。
美濃屋に取っても金が儲かればそれで良いのだ。
検校と手を組めば蔵の中の金はどんどん増えて行く。
こんな美味しい商売はない。
暴利で稼ぎ 取り立ては地元のごろつき達を雇い入れ容赦なく取り立てる。
寺社奉行も町奉行も検校の鑑札(実際には持っていなかったが)には手が出せなかった。
それは幕府が認めたもので有ったからである。
捨吉は時々尼寺に顔を出した。
それは若い尼さんに異常に興味を示したからに他ならない。
有ろう事か、尼さんの数人のお腹が大きく成って行く。
住職は「これは困った、捨吉をこのまま放置していく訳にはいけないな」と・・・
住職自身、呑む、打つ、買うの三拍子の男だった。
捨吉が居ると何かと厄介な事になる、と考えたのである。
こうして寺への出入りを禁止したのであった。
だが捨吉はお構い無しにやって来る。
そして「和尚 今飲んでいる般若湯は誰のお蔭で飲めるんだ」「俺が居なければ飲めないのを忘れるな」と脅迫するのだった。
これには住職も返答が出来なかった。
住職の楽しみは只一つ、酒を飲む事そして女であったのだ。
密かに生まれた赤子を里子に出すより仕方が無かった。
それをいい事に捨吉は寺に於いても我が物顔に振舞う様になって行った。
檀家の中には金に困った商家の者も居る。
言葉巧みに金を貸し 最後には家を乗っ取るのである。
こうして瞬く間に大きな財産を築き上げたのであった。
一方 舟一の方は宗次郎の躾も厳しく又 師匠の指導もよく 爽やかな青年となっていた。
しかし何時もの如く「私は少しながら眼は見える、本当に検校になれるのだろうか?」と悩んでいたのである。
だが藩公は許した。
「何時か上様にお目見えの折には引き合わせて検校の鑑札を頂ける様 口を利いてやろう」と・・・
それには宗次郎の働きかけもあったが 人間として人々から慕われ立派な施術をする事が藩公の耳に入ったからであった。
「情けは人の為ならず、天にツバを吐けば必ず自分の身に降り懸ってくる、先ず立派な人間になる事だ」
何時も宗次郎に諭され誠心誠意施術に精を出した。
名も橘舟斎と改めこの城下町に施術所を構えたのだった。
橘姓は宗次郎の姓である。
彼も又金貸しもしたのであるが決して暴利をむさぼる事は無かった。
何時も白い杖をつき笛を鳴らして夜の町を歩いたのだ。
そして「あんまさん 頼むよ」と言われれば貴賎上下の別無く一生懸命働いて帰るのである。
人々はそんな舟斎を頼り、慕う様になって行った。
毎晩その笛の音を聞くと何故か安心するのであった。
ある日 若殿が野掛けに出ようとして城下を通り過ぎようとした時、農夫の大八車に馬前を塞がれた。
若殿は大層立腹して家来に首を刎ねる様命じたのである。
それを知った舟斎は「一時の怒りで領民を粗略に扱うのは領主様のする事ではありません」といさめたのであったが、若殿の怒りは収まらず舟斎は首に縄を打たれ城内の牢につながれる事になってしまった。
だが一晩じっくり考えて「そのアンマの言う事はいちいち最もだ、予の間違いだった」と開放されたのである。
それから後 城内への出入りも許され 侍たちにも針灸 整体 アンマを施す事を許されたのであった。
「おい、舟 予にもアンマを頼むぞ」若殿からも声がかかった。
そうして舟斎は城内でも不動の位置を占めて行ったのだった。
腰元『おみよ』が舟斎に気がある様だ。
大殿が家臣からそれと無く聞いてみると どうもその様である。
おみよは下級武士の娘、特別目立つ方ではないが良く気の付く娘であった。
「舟斎が気に入れば一緒にさせてやれ」と殿のお墨付きを貰った舟斎は非常に喜んだのである。
宗次郎も鼻が高かった。
城中からお嫁さんを頂く事は苗字帯刀を許された身とは言え所詮農民である。
それが当時 如何に名誉な事か計り知れなかったのだ。
盛大な祝言を挙げた。
おみよの家でも下級武士とは云え武士である。
町家の嫁に出すには多少の抵抗はあったものの殿の命令となれば従わざるを得ない。
そこに持って来て暮らし向きは楽ではなかった。
おみよの結婚によって多少でも楽な暮らしが出来る方を選んだのである。
舟斎はおみよを宝物でもあるかの様に大切にした。
又 おみよも好きな人に可愛がられて幸せ一杯だった。
捨吉は、と云えば益々図に乗るばかり。
由緒ある寺であったが博徒たちと組んで賭場は開く、尼を男達に抱かせて金を取る。
住職に「もっと大勢女を集めて来い」と迫る。
瞬く間に歓楽の館と化してしまったのである。
元々眼が見えるだけに始末が悪い。
寺社奉行が来た時には哀れなめくらに転ずるのである。
そして袖の下に金子を入れ揉み手をしながら目を瞑って貰うのであった。
檀家は離れる一方、だが良くしたもので好き者と博打好きの者は集まって来る。
結構繁盛したのであった。
何時か自分が修行したあんまの方はほとんどしなくなった。
唯 女を喜ばせる道具に使うのみであったのだ。
それから三年後、寺社奉行が代わった。
清廉潔白なその奉行はまずその寺を急襲したのであった。
命からがら逃げ出した捨吉は仲間のごろつき共と手を組み全国の泥棒行脚に出掛けたのである。
途中で出会った手だれの浪人須藤伊之助を仲間に加え、毎日剣術の修行をし 西へ東へと所構わず襲って歩いた。
彼等は一日として一箇所に留まる事はしなかったのである。
日本全国皆彼らの標的であった。
昼間は笛を吹き盲目のアンマが商家の辺りを廻って歩く。
これ と狙った家には特に念入りに調べ、闇に紛れて凶族と成り悪逆非道の働きをして消える。
若い娘、女房などは担いでさらって行く。
翌日には見るも無残な姿で死体となって町外れに捨てられていた。
取り方が駆け付けた時にはもう領外に逃亡した後である。
一藩だけの問題では無くなった。
そこで関八州取締役の出番となったのである。
片っ端から彼等の泊まりそうな宿を調べた。
だが何処の宿帳にもそれらしき者は泊まってはいない。
「これは何処かに何箇所か拠点を持ってるな」そうなると船宿から空き家の一軒一軒を調べねばならない。
被害は西国の諸藩にも広がった。
10人か20名かも判らぬ、名はおろか素性も判らぬ・・・
たかが鼠一匹と思っていたが大変な事になった。
これを処断しなければ幕府の威信にも関る。
全国の裏柳生にも協力を仰いだ。
恥ではあるが形振り構ってはいられなくなったのだ。
ある情報が手に入った。
凶族の入った家には必ず前日からアンマが笛を吹く、と云う。
早速裏柳生が動いた。
そして北陸のある町で捨吉と云う名前が浮かんだのである。
しかし住職は既に世を去っていた。
だがその周辺から妙な噂が入って来たのだ。
尼寺の女達が次々と子供を産んだと云う事、夜鷹の群れが夜な夜な集まっていたと云う事実。
本堂で大掛かりの博打が行われていた事など・・・
寺社奉行が乗り込んだ時には主だった者達は皆逃亡した後だったと云う。
そこで手掛かりはぷっつりと切れている。
だが人相書きはある程度取れた。
その頃 舟斎は妻おみよを同行して参勤交代の中に居た。
藩公の計らいでおみよも一緒に江戸の地に向っていたのである。
「将軍様のいらっしゃる江戸って大きいだろうね」「うん、きっと素敵にな所なんだろう」
そんな他愛もない話を道中したのであった。
しかし舟斎にはそれを見る事が出来ないのが悔しかったのである。
「おみよ、しっかり見て話しておくれ」「本当 旦那様の分までしっかり見ないとね」
それを聞いてた同行の侍が「舟斎殿は空気で分かるんではないかな」と笑った。
楽しい江戸入城の旅であった。
鍼灸師アンマの町人を参勤交代に交えての旅は前代未聞の事であった。
だが、この旅は彼の運命を揺さ振る厳しいものとなろうとは未だ誰も気付いていなかったのである。
藤沢の宿に着いた時、藩公の処に八州取締りのお役人が来た。
そしてアンマ舟斎が如何なる人物か尋ねたのである。
前日この町で 押し込み があったと言う。
済んでの所で取り逃がしたが黒覆面の下の顔が舟斎の顔にあまりにも酷似していると言った。
怪我をさせるには至らなかったが覆面を切り裂いた時の顔が舟斎に似てると・・・
だが彼は参勤交代の中に居た。
「ふしぎな事もあるもんじゃのう」「しかし良く似てる」と八州廻りは去って行ったのである。
旅の荷を降ろし街を散策する事になった。舟斎には二人の武士が同道してくれる事になった。
盲目の彼におみよ一人では心許ない。
藩公の計らいである。
流石 将軍様のお膝元である、街も立派であるが活気がある。お堀の周りを廻っても結構な距離だ。
こうして最初の一日は終わった。
時あたかも紀州より吉宗公が将軍職に付いたばかりの年、数々の改革が行われようとしている時であった。
一通りの拝謁も終わり近くに「どうだ、世間の暮らし振りは如何なものかのう?」「それは上様のこれからのお心次第で御座いましょう、領民が良くなるも悪くなるも全て政り事に掛かって御座います」舟斎はそう答えたのであった。
「予は針を打った事がない、一度試してみてくれんか?」「何処かお悪いところでもありますか?」「いや、何処も悪くは無いが、どうじゃ試してくれんかのう」
「悪い所が無ければ試す必要は御座いません」「無用な針は却って身体に悪う御座います」
結局一番年寄りの老中酒井和泉が施術を受ける事になった。
「おう これは楽になるのう、殿 この先は舟斎をお召抱えになられたら如何かと・・・」
こうして謁見は終わったのである。
藩公も上首尾に終わった事に機嫌がよかった。
「おい、検校 お前の隠居は何時だ?」吉宗は検校にそう言った。
「まだまだ先で御座います、そう 5年は後になりましょうかな」
笑って「今の若者 お前が育ててみる気は無いか?」「そうですなー・・・それは上様次第で、私は異存は御座いません なかなか良い若者だと思いますが」と・・・
吉宗は即断した。
「当分江戸屋敷で預かる、国表に帰る事ならん」と。
藩公は喜んだ。
「連れて来た甲斐あった」と、将軍吉宗の目に留まったのである。
出世の見込みが付いたのだ、と云う事は我が藩にも名誉な事だと。
微禄ながら士分に順ずる扱いを受け屋敷まで賜ったのである。
国表では大変な騒ぎとなったのだ。
「公方様に認めたれた」「江戸城に勤められる事になったそうだ」
宗次郎はもとより おみよの父尾形寛兵衛も禄高も増え大喜びをしたのであるが離れて暮らす事への淋しさも有ったのである。
凶族一味はここ暫く事件を起こしていない。
それが又 何とも不気味であった。
八州取締役も裏柳生も捜査の手の打ち様も無く困り果てていた。
そして三年の月日が経った。
この頃から金細工師の行方知れずが各地で頻繁に起きるようになっていた。
蒸発か・・・?かどわかしか・・・?判らぬが家族全員消えて無くなるのである。
これも又不思議な事である。
普通 かどわかしであれば家族全員と云う事はない。
必ず職人だけが狙われるのである。
だが家族の全てが一晩で居なくなると云う事は今まで例が無い。
不思議な事件であった。
舟斎は毎日古典芸能から浄瑠璃、下々の生活ぶりなど学ぶべき事は一杯あった。
検校と云うものはあらゆる事を知らねばならぬ。
唯 針灸アンマが上手だけでは勤まらない。
大変な仕事である。
おみよと共に街に出掛け珍しい話題や人々の暮らしぶりを仕入れて来て吉宗に話すのであった。
こうした話は表向きの政には直接影響は与えない。
だが将軍職にある者に取っては知っておく必要があったのだ。
その為 直属の間者も陰では活躍してたのである。
そして5年の月日が流れた。時の検校 村下は隠居願いを申し入れたのであるが舟斎は「まだまだ学ぶ事が多く御座います、もう少しお師匠様にご指導願います」と吉宗に願い出たのであった。
吉宗も快く了承して「好きに致せ」と二人に任せたのだった。
一年後、名実共に立派な検校職を継いだ舟斎は 名を橘検校様と呼ばれる様になっていた。
「なあ 検校よ、凶暴な族の一人がお前に似てると聞いたが気に入らんのう、早く何とか捕らえて仕置きしないとお前も落ち着かんだろう」
その年金座が襲われ10満両余りが盗まれた。
将軍はそれを指してそう言ったのである。
が 今回の事件は今までと違った幾つかの疑問があったのだ。
まず金座の中に手引きした人間が居たのでは無いか?
そして無駄の無い動きをしてる、順路を知り尽くした人物が居たのであろう。
そこで向こう三年以内に雇い入れた職人の身元を洗う事にしたのである。
するとその中に身元知れずの男が二人居たのだった。
その男達は事件と共に姿を消している。
雇う時に立ち会った勘定方の人物を厳しく吟味した所、何と袖の下を受け取っていた事が判明したのである。
紹介したのは江戸のはずれに住む さして大きくも無い口入屋であった。
だが取り方が向った時には既に店を畳んで姿を消した後だった。
捨吉の身元もしかりと洗われた。
だが当時を知る者は殆ど亡くなっている。
僅かの手掛かりを手繰ってやっと村岡検校なる人物が居た事が判ったのである。
しかし寺に預けられたとなると必ず生みの親が居るはずである。
草の者が耳寄りの情報を齎した。
今を去る30年程前、飛騨天領の地の地侍、斉藤某なる人物に双子が生まれたと云う。
だが出生届もなされず その双子は行く方知れずになってしまったと・・・
そのうち一人は離れた地の寺に預けられたとの情報である。
それが捨吉であろうと。
しかし父母は既にこの世を去り 代替わりをしてそれ以上の情報は得られなかったが ほぼ間違いの無いことである。
もう一人は・・・誰にも判らぬ事であった。
八宗取締役は宗次郎の家を訪れた。
「心当たりは無いか」と・・・
しかし宗次郎は「間違い無く舟一は我が子で御座います」「他人の空似と云う事も御座いますからなー」と・・・
出世した我が子を思いやる親の心がひしひしと伝わってきたのである。
八州廻り 相馬孫四郎は全てを理解した。
捨吉と橘検校は双子の兄弟である、と・・・
しかしそれを胸に仕舞い込んだのであった。
一生懸命努力して検校にまで上り詰めた男とその父親宗次郎の愛、おみよの姿が眼に浮かんだ。
この平和な家族を刑場に送るのは忍びない(当時は凶悪犯の場合 一族郎党皆処刑されたのである)彼はこの家族の事は報告しないで地獄の底まで持って行こうと心に決めたのであったが。
八州取締役も人の子である。
「もし自分に双子の兄弟が居たら、それが凶悪犯であったなら・・・」御定法にも多いに疑問も持った。
しかしそれを守らねばならない。
仕事の過酷さを感じたのである。
そんな時 隅田川の畔に大量の小判がばら撒かれると云う前代未聞の出来事が起きた。
多くの群集が押し掛けそれを拾っていると云う。
すぐ役人が回収したが その金額は数千両にも及んだと言われたのである。
金座の者が調べたところ、それは全て贋金であったと報告が上がった。
何処かに大掛かりな偽金作りの一味がいる。
不思議とそれが凶族が姿を消し、金細工師の蒸発、そして金座の盗難事件・・・流れは一致する。
江戸町奉行所、関八州取締り、裏柳生、総力を挙げ一致団結して捜査を開始した。
裏柳生では(仮説ではあるが)山深い所に住む平家の落人部落に関係してるのでは・・・と・・・
八州取締りの方ではそうした落人に成済まし部落を作り贋金を作っているのでは、と考えた。
町奉行所では他に贋金が出ないか捜査を強化して細工師の足取りを追ったのである。
大阪奉行所から思わぬ情報が飛び込んできた。
下町の細工師が旅発つ前「甲府金山に行く」と言ったのをちらりと聞いた近所の女房が居ると・・・
早速柳生が動いた。
が しかし相馬はそうは思わなかった。
「自分の地の利のある隠れ里、そう奥飛騨の何処か・・・きっとその地で大掛かりな偽金作りの集落があるのでは無いか?」
日本全国 落人部落はある。
当時はそれを調べるのも大変な時代だったのだ。
平家の落人部落ばかりでは無い、関が原の合戦で破れた西軍の子孫の者達、皆山奥でひっそりと隠れ住んでいた。
又 現在の様に道路網が発展している訳では無い。
人跡未踏の地など幾らでもあった。
そこで村里に買い物に降りて来る人間達を捜す事になる訳だ。
それは気の遠くなる様な作業である。
又 村人の口も堅い。
なかなか「はいそうですか」と話す人間などめったに居ない。
金でも掴まされていれば尚の事である。
吉宗も越前守を交えてこの問題に付いて協議を重ねていた。
はかばかしく行かぬ捜査に苦渋の色を浮かべて。
下座に座っていた舟斎に「のう検校、お前だったらどんなところに隠れるか?」と・・・
舟斎は「私はそんな恐ろしい話は知りませんが 誰でも古里が恋しいもので御座いましょう」「出来るなら古里近くの山中に隠れようとするでしょう」と答えたのである。
「うーん、帰巣本能と云う奴か・・・」その後も協議は続けられていた。
舟斎はこの頃城中での信頼も厚く常に吉宗の傍らに居たのだった。
柳生、関八州の精鋭達が飛騨山中に出発したのはその二日後の事であった。
飛騨高山のはずれで須藤伊之助なる浪人が寺子屋を開いていた。
さほど生徒が居る訳ではないが悠々自適の生活をしている。
だが不審な動きをしてる訳では無い。
時々物売りがお茶を飲んで帰る程度だ。
しかし下呂近くで少し逗留して姿を消している。
ひなびた温泉宿の事である。
街道を少し歩けばもう両側が山の木々で覆われている。
そして谷川のせせらぎと鳥の声が聞こえるだけの所だ。
人の往来も少ない。
何処でも隠れる場所はある。物売りは辺りの気配を察し姿を消したとみえる。
そんな時、近江の豪商、尾張の両替屋が立て続けに強盗に入られた。
「我々は住吉検校だ、覚えて置け」片方は「五月雨検校だ」と名乗ったそうだ。
八州廻りは「これは模倣犯だな」余計混乱を招く 一味を早く捕らえなければ幕府の威信も地に落ちるな、と焦りの色を濃くしたのであった。
子供達の遊びにもそれは表れた。
「我こそは検校である、掛かって来い」すると取り方役の子供達が切られる単純な遊びであるが、これには町奉行所も苦りきった表情を隠せなかったのである。
名奉行として知られる大岡も子供達が悪を賛美する様な遊びが流行る事は許せなかったのだった。
西国と奥羽地方から贋金が大量に見付かった。
此処に来て吉宗が長年抱いていた貨幣鋳造に於いて より精巧な小判の鋳造に踏み切ったのである。
世に言う『享保の改革』を断行したのであった。
重役たちの世襲制廃止、業績著しい者には禄高の増加、功績の無い者は当然禄高を減らされる事となった。
疲弊した経済を立て直す為 又贋金作りの息の根を止める為 そして軽輩者の士気を高める為には相当の効果があった。
今まで高禄で召抱えられていた者も安閑としては居られなくなった。
賄賂を貰い私腹を肥やしていた者は厳重に処罰されたのである。
功罪併せ持つ改革ではあったが 腐りかけた江戸幕府の持つ膿を出し切ったのは確かであった。
多くの原野が開墾され、治水工事も行われた。
特筆すべき事は生活苦により医師に掛かる事の出来ない病人、怪我人に負担をかける事なく 養生所にて治療が受けられる様になった事であろうか。
そして薬治園を作り薬草の栽培に力を注いだ事である。
毎年の事であるが土砂の氾濫により禄高が一定の水準を保つ事が出来ない。
護岸工事も徹底して行われた。
そうした吉宗の改革は多くの有能な家臣を持つ事により実を結んだのであるが、反対勢力の抵抗も又激しかったのも事実である。
『火事と喧嘩は江戸の華』と言われる様に火災の被害も多かった。
それを解消する為に江戸火消し制度が確立されたのである。
そんな時 宗次郎が病床に着いたのだった。
急ぎ駆け付けた舟斎に彼は驚愕の事実を打ち明けたのである。
「お前の父君は何らかの事情により お前を捨てざるを得なかったのだろう、海の入り江に漂う舟の中に絹の産着を着て死の淵をさ迷っていたのだ」「きっとお侍の子であろう・・・」「が わしはお前が可愛い 盲目のお前が不憫でならぬ」と・・・
宗次郎は静かに息を引き取った。
舟斎は関八州取締役 相馬孫四郎に「是非私の生みの親を探して欲しい、ぜひとも会ってみたい この世に送り出してくれたお礼も言いたいのだが」と申し入れたのである。
しかし孫四郎は「世の中には知っていい事と 知らないで居た方が良かったと言う場合がある、検校殿が後で苦しむ事になっても宜しいのなら・・・」と、その時は教えてくれなかった。
だが舟斎の出生の秘密を知る者は八州廻りにはそれと無く知ってる者も居たのだ。
孫四郎は大岡に相談したのである。
大岡も「罪の無い者でも御定法では罰せられられなければならんからのう、不憫じゃが・・・さて、どうするか」と思案した。
一応「御両親は亡くなられたそうだ」とだけ答えて納得させたのであった。
境港から大量の武器が数度に渡って何処かに買い付けられて密かに送られている、との情報が入った。
すぐ裏柳生、八州廻りが探索に当たったのであるがどうも半端な量では無いらしい。
街道筋を徹底的に検問を強化したのであった。
牛に引かせて荷車が通る。
轍の跡が異常に深い・・・美濃国境の事である。
農家の人間にしてはそれに付き添う人数も多い。
役人が不審に思い前を遮った。
すると先頭に立ってた役人が中の一人に短筒(拳銃)で撃たれたのである。
「すわっ大事件」と後方の一人が関所に向って走り出そうとした時 林の中から銃弾が一斉に浴びせ掛けられたのだった。
轍の深い車からも銃が取り出されあえなく役人達は撃倒されてしまった。
何時の間にか落人部落と関が原西軍の子孫の面々が手を組み、この地帯一帯に治外法権の地域が出来ていたのである。
幕府から独立して新しい国家樹立を目指している、と見た方が良いだろう。
それは徳川治世の始まりから豊臣方への徹底的な弾圧、それを逃れた者達が山中に隠れ住み 子孫たちが何時かは又乱世が来る事を夢見て 虎視眈々と機会を伺っていたところに捨吉の出現により同調する者が集まったからに他ならない。
ここに壮絶な柳生、関八州連合軍との戦いが始まったのであった。
時を同じくして数度の江戸の大火があった。
これも付け火である。
将軍家のお膝元での騒ぎは多いに人々の不安を煽った。
此処でも吉宗の作った町火消しが多いに活躍した訳だが根本を絶たねばならない。
火回りを厳重に火消し達は定火消し(武家屋敷を守る)と共に夜回りを強化したのだった。
飛騨から信濃山中の至る所に監視小屋がある。
裏柳生の精鋭達がひとつずつ潰してゆく。
一方的に向こうが有利な中で夜陰に紛れ制圧していったのであった。
まさに血で血を洗う壮絶な戦いである。
神君家康公以来の戦いだった。
村岡検校こと捨吉は豊富な資金と強力な部下を持ち山中の戦には精通していた。
だが山岳戦は裏柳生の最も得意な戦いである。
次々と監視小屋 そして隠れている場所を攻撃したのだった。
しかし彼等の鉄砲隊の前に相当苦戦したのは間違いない。
累々たる屍の山が築かれた。
山砦間近まで攻め入ったところ思わぬ落とし穴が待っていた。
空堀が掘られそれを渡る事が出来ぬ。
下手に踏み込めば上から大きな網が被せられ鉄砲の餌食になるのだ。
そして何処からとも無く後ろから攻撃される。
それを指揮しているのが須藤伊之助であった。
「やはり唯の鼠では無かったか、先に捕縛して置けばよかった」柳生の面々は歯軋りを噛んで悔しがった。
地下壕が縦横に掘られ其処から敵が現れて消える。
柳生の精鋭達も一時退却を余儀なくされたのである。
大岡は舟斎に断腸の思いで彼の出生に纏わる事実を告げていた。
「お前の双子の兄弟が今 世間を騒がせている凶族の頭なのだ、お前には何も罪は無い、だが今の御定法に照らし合わせるとどうしても此の侭には捨て置けん」「辛いだろうが蟄居謹慎して居ってくれんかのう」「上様も痛く気にしておいでじゃ、判ってくれ」と・・・
舟斎は驚き又悲しんだ。
「私も当然罪になりましょうね」「妻の処遇はどうなりますか?やはり離縁した方が宜しいでしょうな・・・」
「いや 上様には何かお考えがある様じゃ、そこまで考えなくとも良いと思うが」と言って去って行った。
舟斎には七歳と五歳の息子が居た。
妻の行く末も心配ではあったが二人の息子の事が一番気懸かりな事であったのだ。
自分はきっと処刑されるであろう、だが妻と息子は何とでも守り通したかったのである。
突然の事であった。
深編笠の男が舟斎の家にやって来た。
後ろには大岡越前守も居る。
上様であった。
吉宗は「法とは不便な物よのう、罪もない者も罰せられなければならないとは・・・ま、悪い様には致さぬから少し休みだと思って短慮は起こすまいぞ」と励まして帰った。
舟斎は涙を流しその言葉を噛み締めて聞いていたのだった。
八州廻り達は山裾の穴と云う穴を全て塞いだ。
そして須藤伊之助以下配下の者をことごとく捕縛、斬捨てたのであった。
後は兵糧攻めと突破口を開く為の空堀を埋める作業に取り掛かったのである。
夜陰に紛れて投降して来る者が出始めた。
が しかし見付かれば後ろから銃で撃たれ幕府の陣営までたどり着く者はごく僅かだった。
捨吉は叫んだ「我は村岡検校なるぞ!この地で独立国家を建国する、難攻不落のこの山城を落としてみるかっ、これ以上死人を出すと云うならそれも良し」「黙って去れば犠牲者は無くなるがどうだ」
それは自軍を鼓舞するものであったが まだ戦い続ける決意の表れでもあったのだ。
暫く一進一退の攻防が続いた。
やっと空堀の一部が埋められ突破口が出来た。
先陣を切った一団が渡り終えた途端、大音響が鳴り響いたのである。
其処には既に爆薬が仕掛けられ最初の幕府の侍達があえなく犠牲となってしまったのだった。
又ひとつ大きな空堀が出来た感じだった。
下手に攻めれば犠牲者が出るばかりだ。
八州取締りは兵糧攻めの道を選んだのであるが裏柳生は強行突破を主張したのである。
これは手柄を何としてでも柳生の手で上げたかったからに他ならない。
が しかし今は功名争いしてる時期では無かった。
何としてもこの集団を殲滅させねばならない。
遂に兵糧攻めに決定した。
「これは関が原以来の大戦だなー」勿論関が原が どの様な戦であったのか知ってる者は居なかったが皆口々にそう言ったのである。
ここで捨吉の心の軌跡を追ってみる事にしよう。
彼も又鍼灸とアンマで身を立てようと思った。
努力して検校になる事を夢見た時代もあったのだ。
が しかし世話になった寺の住職は無類の酒好き、そして女好きときてる。
一時はそんな生活も悪くないな と思った事もあった。
アンマの腕は確かなものを持っていた。
そして金貸しも巧く立ち回り相当の利益が上がる。
だが彼の野心はそれだけで終わらなかった。
この寺を乗っ取り自分の好きなように生きる、もっと金儲けをして近隣の町に一大歓楽街を作ろう。
元々かれも無類の女好きだった。
が 寺社奉行によってその計画は潰されてしまった時 思い立ったのはその時の仲間と盗み働きする事だった。
現代と違って夜になればどんな町でも夜回りが時間通りしか廻って歩かない。
その間隙を突いて盗み働きをするのであるが面の割れるのを恐れ皆殺しの凶族と化したのである。
拠点は人の判らない山に作り夜陰に紛れて行動したのだった。
あまりにも巧く事が運ぶのが面白く自分達の犯行を誇示したくなって来た
そこで生まれたのが『村岡検校』一味の名を世間に知らしめる事である。
ある時、役人に追われ山深くの村に逃げ込んだ時である。
その村は豊臣恩顧の者達がひっそりと隠れるように住んでいたのだった。
捨吉は其処の古老から思わぬ事を聞いたのである。
「山深く入れば幾らでもそんな村がある、又戦でも始まればおそらく決起する者も居るであろう」と・・・
徳川の世にもまだこうした人間が大勢居る事を知ったのだった。
享保の改革により 年貢の取立ても四公六民から五公五民に変わった。
農家の不満も相当きついものがある。
落人達を束ねて決起すれば農家の一揆も起きるんではないか・・・
山国では不平不満の者が五万といる。
後は資金と武器さえあれば・・・外様大名の中にも呼応して立ち上がる者も居るだろう。
野心がふつふつと煮え返ったのであった。
そして着々と準備が始まったのであるが、最初の目論みでは西国大名、東北の各地から火の手を挙げるはずのものが動かなかったのである。
だが回りだした歯車はもう止める事は不可能となってしまったのだった。
大きな誤算であった。
原因のひとつには素性の判らぬ彼の話に何処まで信用して乗ってよいか?と云う事と朝廷の後ろ盾が無かった事にある。
西国大名の中には不平不満を持つものは結構居たのであるが朝廷の後ろ盾を得て徳川家を逆賊としなければ大義名分が立たない。
捨吉のもくろみはその時点で失敗したのであった。
幕府に取っても吉宗が将軍になる以前には腐ったリンゴになりかかっていたのだった。
が 見事にその危機を乗り越えたのである。
元禄以来の政治体制の悪弊が一掃される目前に起きた事件だった。
諸大名に取ってはこれは大変な脅威であった。
旗本八万旗が動く事無く鎮圧されたと云う事は徳川の底力を多いに見せ付けた事になる。
さて砦の方であるが まさに血で血を洗う激戦の末 大抵の者は捕縛され斬り死にし、自刃して果てたのであった。
その中に在って捨吉は最後まで命を惜しみ盲目の振りをして哀れな姿をさらしていたのだった。
砦の中は意外に広く五つの集落でもって成り立っていた。
その一角に鋳造工場を持ち其処には多くの家族が生活を共にしていたのである。
皆 これ程の大事件とは思っていなかったのだ。
彼らは 借金をし、その証文を捨吉が買い取ったと云う訳だ。
そしてこの鋳造工場に連れて来られた訳だが家族全員で暮らせる事で満足していた様であった。
特別抵抗する事も無く連行されたのである。
大岡の取調べが始まった。
「さて 捨吉・・・いや村岡検校かな、ま どちらでも構わぬ お前が盗み働き 贋金作りの頭目に間違い無いな」「いえ 私はこの通りめくらで御座います、全ては須藤さまの御言いつけ通り動いただけで御座います」「何を申す、お前に出会わなければ拙者は静かに寺子屋をやってたものを」
お互いが罪のなすりあいである。
その中で父母の死が捨吉の仕業と云う事も判ったのであった。
一刻ばかり黙って聴いていた大岡は「頭目捨吉、聞き捨てならぬ事を申したな、父母に会ったと申したが何故殺したのかその訳を言ってみろ」「捨てられたからか?それとも他に訳でも有ると申すか?」「めくらの私を捨て 健常な弟が跡継ぎでは理不尽と思いませんか、御奉行様でもそう思われませんか」「何でも畜生腹の子と聞きましたが私の弟は何処にいるのやら やっぱり憎んでも憎みきれない相手で御座いましょう、御奉行様ならどうなさいますか?」「八つ裂きにでもしたいと思うのが普通でしょうが」
「その通りじゃ 今わしがお前を八つ裂きにしたいと思っているのも勝手じゃ だが此処は御白洲じゃ、思いと裁きは別じゃて」「多くの罪も無い人を殺めた罪をどう弁解致すのじゃ、わしはそれを聞きたいがのう」「それともそれで世の中が変わると思ったか」
「・・・・・・」
「捨吉っ!」突然大岡は捨吉目掛けて扇子を投げ付けた。
咄嗟に捨吉は眼を開け扇子を避けたのであった。
ニヤリと笑った大岡は「やはり」と言ったきり何も言わなかった。
それから一人一人吟味が始まったのである。
そして刻限も迫った時、越前は言った。
「裁きを言い渡す、須藤伊之助以下十八名 打ち首獄門、後の者八丈島終生遠島を申し付ける」「彫金師一同三宅島遠島」「全員引き立てい」と叫んで白洲は捨吉一人になった。
そして捨吉には「引き合わせたい者が居る、暫し待て」と・・・
「橘舟斎これへ」と呼んだのであった。
「捨吉、この顔をよく見ろ、お前に瓜二つと思わんか」「お前の双子の兄弟だ、今生の別れをして置け」「ここに居るのが本物の検校 橘舟斎じゃ 覚えて置け」と言って席を立った。
そして陰で聞いてた吉宗とそっと様子を伺っていたのである。
「兄者で御座いますか?何故そんな恐ろしい事をなさっていたのですか?」「ケッ、生きてやがったんか、何処で何してるんだ、どうせこそ泥位の事で捕まったんだろう」・・・「何故父上と母上を殺めたんですか、私も一目会いとう御座いましたのに」「お前 憎くはないのか、捨てられたんだぞ」「いえ、一度会ってこの世に生を受けたお礼を申しとう御座いました」「この糞たれめが 何が礼だ、お礼は夾竹桃の汁を飲ませてしてやったぞ、お前の様な者兄弟でも何でも無い とっとと失せろ」
そこへ大岡が現れた。
「橘舟斎、お上を謀りおって不届きな奴だ、お前の本当の親は橘宗次郎であろうが、早々に下がりおれ」と白洲から引き出されたのである。
「裁きを言い渡す、村岡検校事捨吉、張付け獄門 尚 首は百日間晒し物とする事とす」
誰も居なくなった白洲では舟斎と大岡が万感の思いで見詰め合っていた。
「なあ、舟斎、当分は寄せ場送りになるが辛抱しろよ、御政道に照らし合わせても此処までが限界じゃ、許せ」と大岡は深々と頭を下げたのだ。
「もったいないお言葉 感謝致します」舟斎は流れる涙をどうする事も出来なかった。
「御妻女と子供の事だが心配には及ばん、わしが面倒を見るから安心して務めを果たして来い」「これからは市井の人間になるのじゃ、名も忠乃市と改めよ」と。
「寄せ場には大勢患者がいるぞ、その面倒を診てやれ」 大抵は罪人には手首に墨を入れたものである。
だが彼はそれも許されたのであった。
「お前の子は大層利発なそうじゃな、何れ士分に取り立てて しかるべき要職に着いて貰うゆえ安堵致すがよい」吉宗はそう言ったのであった。
大岡は「三年なんてすぐ経ってしまうものじゃて 真面目なそなた故 一生懸命励んでいれば戻った時に役にも立とう」と・・・
最初は幕府方の間者と訝る者もいたが彼の施術を受けた者から次第にその噂も消えていった。
寄せ場の仕事は本来海であった所の干拓である。非常に辛い仕事だった。
だから腰痛、肩、腕の張りがひどい。
忠乃市は丁寧に鍼灸を施し少しでも楽になるように施術した。
その甲斐有ってか評判も上々だった。
そして三年後、木場の近くに鍼灸の木札をぶら下げた診療所を構えたのであった。
最初は患者もなかなか来ず 夜の町を笛を鳴らして歩いたものだ。
ある日 立派な籠に乗った侍が訪れた事から事態は一変したのである。
「頼もう、忠乃市殿はご在宅かな、少し針を打って貰おうと思って参ったが・・・」大岡越前であった。
すぐそれが評判になったのである。
「あの先生は鍼灸の偉い先生だそうだ」「では私達も行ってみるか」たちまち町中の噂になり患者は増えた。
もう夜 笛を吹いて歩く事も無くなった。
長男は元服後、勘定方の武士に取り立てられた、二男も何れお城の土を踏む事になろう。
忠乃市こと舟斎は市井の片隅で妻共々静かに幸せを噛み締めていたのであった。
しかしこの事件は歴史の闇に葬られ何処にもその記録は無い。
-完ー
現在の岐阜県、東北部の町。
飛騨の下級武士斉藤家に可愛い男の赤ちゃんが二人生まれた。
「おぎゃー」と泣いた時 斉藤健四郎は「ちっ畜生腹か」と不快に思ったのである。
二人とも盲目であった。
当時は双子、三つ子に至っては犬、猫と同然、一人を残し何処かにその内の一人を里子に出すか捨てるのが普通である。
だが健四郎は違ってた。
「畜生腹の子など見たくも無い」一人を寺の住職に渡し もう一人を小船に乗せ流したのであった。
住職は『捨吉』と名を付け大切に育てたのである。
「いずれ歳が来たら針灸とアンマを習わせ身の立つ様にしてやろう」と・・・
又もう一人の赤子は浜辺に打ち上げられた船の中で瀕死の状態で漁師の和助に拾われたのであった。
和助の家は子沢山でこれ以上育てる力は無い。
そこで庄屋の宗次郎に相談したのである。
宗次郎は名字帯刀を許された庄屋だった。
儀に厚い男気のある男だった。
「よし、俺の家で面倒を見てやろう、船で流されて来たのであろう、名前は舟一がよかろう」
それぞれの落ち着く場所が決まったのである。
それから7年の月日が流れた。
舟一は多少 薄ボンヤリとであるが眼が見える様になった。
彼は五感を鋭く働かせ一通りの事が出来る様になっていた。
宗次郎は将来彼の身の立つ様にと城下の検校孫弟子のアンマの内弟子として預けたのである。
そこで針灸マッサージを習い『アンマ』としての修行を積ませる事にしたのだ。
宗次郎は常に「お前は確かに眼が弱い、見えると言っても たかが一尺程度であろう、一生懸命修行してアンマとなるが良い」と言ったのだった。
一方 捨吉は完全に眼も見える様になってはいたが盲目の方が何かと云えば都合が良い。
皆の同情も買う事が出来る。
仕事も適当にやってても「めくらじゃ仕方がない」と大目に見てもらえるのである。
それに甘えて楽な暮らしをする事を考えていたのだった。
やはり針灸の修行に出されたのであるが夜は必ず寺に戻っていた。
通いで教えを受けていたのだった。
時々住職の肩を揉んだり針灸を施したりして修行方々他の先輩坊主に喜ばれてたのである。
噂を聞き付け尼寺からもお呼びが掛かる様になった。
そして普通なら元服の歳になった。
彼も年頃の青年になったのだった。
そうすると男の本能が眼を覚まし若い尼さんの急所近くを軽く刺激する。
余計尼さんの人気が集まる。
そして腕の確かさと人気に支えられアンマとして自立し花柳町の一角に家を手に入れたのであった。
当時、金貸しは アンマのみに許されて居た行為だったのである。
勝手に村岡検校と名乗った捨吉は呉服屋美濃屋に取り入り 豊富な資金で金貸業にも手を染めて行ったのだった。
美濃屋に取っても金が儲かればそれで良いのだ。
検校と手を組めば蔵の中の金はどんどん増えて行く。
こんな美味しい商売はない。
暴利で稼ぎ 取り立ては地元のごろつき達を雇い入れ容赦なく取り立てる。
寺社奉行も町奉行も検校の鑑札(実際には持っていなかったが)には手が出せなかった。
それは幕府が認めたもので有ったからである。
捨吉は時々尼寺に顔を出した。
それは若い尼さんに異常に興味を示したからに他ならない。
有ろう事か、尼さんの数人のお腹が大きく成って行く。
住職は「これは困った、捨吉をこのまま放置していく訳にはいけないな」と・・・
住職自身、呑む、打つ、買うの三拍子の男だった。
捨吉が居ると何かと厄介な事になる、と考えたのである。
こうして寺への出入りを禁止したのであった。
だが捨吉はお構い無しにやって来る。
そして「和尚 今飲んでいる般若湯は誰のお蔭で飲めるんだ」「俺が居なければ飲めないのを忘れるな」と脅迫するのだった。
これには住職も返答が出来なかった。
住職の楽しみは只一つ、酒を飲む事そして女であったのだ。
密かに生まれた赤子を里子に出すより仕方が無かった。
それをいい事に捨吉は寺に於いても我が物顔に振舞う様になって行った。
檀家の中には金に困った商家の者も居る。
言葉巧みに金を貸し 最後には家を乗っ取るのである。
こうして瞬く間に大きな財産を築き上げたのであった。
一方 舟一の方は宗次郎の躾も厳しく又 師匠の指導もよく 爽やかな青年となっていた。
しかし何時もの如く「私は少しながら眼は見える、本当に検校になれるのだろうか?」と悩んでいたのである。
だが藩公は許した。
「何時か上様にお目見えの折には引き合わせて検校の鑑札を頂ける様 口を利いてやろう」と・・・
それには宗次郎の働きかけもあったが 人間として人々から慕われ立派な施術をする事が藩公の耳に入ったからであった。
「情けは人の為ならず、天にツバを吐けば必ず自分の身に降り懸ってくる、先ず立派な人間になる事だ」
何時も宗次郎に諭され誠心誠意施術に精を出した。
名も橘舟斎と改めこの城下町に施術所を構えたのだった。
橘姓は宗次郎の姓である。
彼も又金貸しもしたのであるが決して暴利をむさぼる事は無かった。
何時も白い杖をつき笛を鳴らして夜の町を歩いたのだ。
そして「あんまさん 頼むよ」と言われれば貴賎上下の別無く一生懸命働いて帰るのである。
人々はそんな舟斎を頼り、慕う様になって行った。
毎晩その笛の音を聞くと何故か安心するのであった。
ある日 若殿が野掛けに出ようとして城下を通り過ぎようとした時、農夫の大八車に馬前を塞がれた。
若殿は大層立腹して家来に首を刎ねる様命じたのである。
それを知った舟斎は「一時の怒りで領民を粗略に扱うのは領主様のする事ではありません」といさめたのであったが、若殿の怒りは収まらず舟斎は首に縄を打たれ城内の牢につながれる事になってしまった。
だが一晩じっくり考えて「そのアンマの言う事はいちいち最もだ、予の間違いだった」と開放されたのである。
それから後 城内への出入りも許され 侍たちにも針灸 整体 アンマを施す事を許されたのであった。
「おい、舟 予にもアンマを頼むぞ」若殿からも声がかかった。
そうして舟斎は城内でも不動の位置を占めて行ったのだった。
腰元『おみよ』が舟斎に気がある様だ。
大殿が家臣からそれと無く聞いてみると どうもその様である。
おみよは下級武士の娘、特別目立つ方ではないが良く気の付く娘であった。
「舟斎が気に入れば一緒にさせてやれ」と殿のお墨付きを貰った舟斎は非常に喜んだのである。
宗次郎も鼻が高かった。
城中からお嫁さんを頂く事は苗字帯刀を許された身とは言え所詮農民である。
それが当時 如何に名誉な事か計り知れなかったのだ。
盛大な祝言を挙げた。
おみよの家でも下級武士とは云え武士である。
町家の嫁に出すには多少の抵抗はあったものの殿の命令となれば従わざるを得ない。
そこに持って来て暮らし向きは楽ではなかった。
おみよの結婚によって多少でも楽な暮らしが出来る方を選んだのである。
舟斎はおみよを宝物でもあるかの様に大切にした。
又 おみよも好きな人に可愛がられて幸せ一杯だった。
捨吉は、と云えば益々図に乗るばかり。
由緒ある寺であったが博徒たちと組んで賭場は開く、尼を男達に抱かせて金を取る。
住職に「もっと大勢女を集めて来い」と迫る。
瞬く間に歓楽の館と化してしまったのである。
元々眼が見えるだけに始末が悪い。
寺社奉行が来た時には哀れなめくらに転ずるのである。
そして袖の下に金子を入れ揉み手をしながら目を瞑って貰うのであった。
檀家は離れる一方、だが良くしたもので好き者と博打好きの者は集まって来る。
結構繁盛したのであった。
何時か自分が修行したあんまの方はほとんどしなくなった。
唯 女を喜ばせる道具に使うのみであったのだ。
それから三年後、寺社奉行が代わった。
清廉潔白なその奉行はまずその寺を急襲したのであった。
命からがら逃げ出した捨吉は仲間のごろつき共と手を組み全国の泥棒行脚に出掛けたのである。
途中で出会った手だれの浪人須藤伊之助を仲間に加え、毎日剣術の修行をし 西へ東へと所構わず襲って歩いた。
彼等は一日として一箇所に留まる事はしなかったのである。
日本全国皆彼らの標的であった。
昼間は笛を吹き盲目のアンマが商家の辺りを廻って歩く。
これ と狙った家には特に念入りに調べ、闇に紛れて凶族と成り悪逆非道の働きをして消える。
若い娘、女房などは担いでさらって行く。
翌日には見るも無残な姿で死体となって町外れに捨てられていた。
取り方が駆け付けた時にはもう領外に逃亡した後である。
一藩だけの問題では無くなった。
そこで関八州取締役の出番となったのである。
片っ端から彼等の泊まりそうな宿を調べた。
だが何処の宿帳にもそれらしき者は泊まってはいない。
「これは何処かに何箇所か拠点を持ってるな」そうなると船宿から空き家の一軒一軒を調べねばならない。
被害は西国の諸藩にも広がった。
10人か20名かも判らぬ、名はおろか素性も判らぬ・・・
たかが鼠一匹と思っていたが大変な事になった。
これを処断しなければ幕府の威信にも関る。
全国の裏柳生にも協力を仰いだ。
恥ではあるが形振り構ってはいられなくなったのだ。
ある情報が手に入った。
凶族の入った家には必ず前日からアンマが笛を吹く、と云う。
早速裏柳生が動いた。
そして北陸のある町で捨吉と云う名前が浮かんだのである。
しかし住職は既に世を去っていた。
だがその周辺から妙な噂が入って来たのだ。
尼寺の女達が次々と子供を産んだと云う事、夜鷹の群れが夜な夜な集まっていたと云う事実。
本堂で大掛かりの博打が行われていた事など・・・
寺社奉行が乗り込んだ時には主だった者達は皆逃亡した後だったと云う。
そこで手掛かりはぷっつりと切れている。
だが人相書きはある程度取れた。
その頃 舟斎は妻おみよを同行して参勤交代の中に居た。
藩公の計らいでおみよも一緒に江戸の地に向っていたのである。
「将軍様のいらっしゃる江戸って大きいだろうね」「うん、きっと素敵にな所なんだろう」
そんな他愛もない話を道中したのであった。
しかし舟斎にはそれを見る事が出来ないのが悔しかったのである。
「おみよ、しっかり見て話しておくれ」「本当 旦那様の分までしっかり見ないとね」
それを聞いてた同行の侍が「舟斎殿は空気で分かるんではないかな」と笑った。
楽しい江戸入城の旅であった。
鍼灸師アンマの町人を参勤交代に交えての旅は前代未聞の事であった。
だが、この旅は彼の運命を揺さ振る厳しいものとなろうとは未だ誰も気付いていなかったのである。
藤沢の宿に着いた時、藩公の処に八州取締りのお役人が来た。
そしてアンマ舟斎が如何なる人物か尋ねたのである。
前日この町で 押し込み があったと言う。
済んでの所で取り逃がしたが黒覆面の下の顔が舟斎の顔にあまりにも酷似していると言った。
怪我をさせるには至らなかったが覆面を切り裂いた時の顔が舟斎に似てると・・・
だが彼は参勤交代の中に居た。
「ふしぎな事もあるもんじゃのう」「しかし良く似てる」と八州廻りは去って行ったのである。
旅の荷を降ろし街を散策する事になった。舟斎には二人の武士が同道してくれる事になった。
盲目の彼におみよ一人では心許ない。
藩公の計らいである。
流石 将軍様のお膝元である、街も立派であるが活気がある。お堀の周りを廻っても結構な距離だ。
こうして最初の一日は終わった。
時あたかも紀州より吉宗公が将軍職に付いたばかりの年、数々の改革が行われようとしている時であった。
一通りの拝謁も終わり近くに「どうだ、世間の暮らし振りは如何なものかのう?」「それは上様のこれからのお心次第で御座いましょう、領民が良くなるも悪くなるも全て政り事に掛かって御座います」舟斎はそう答えたのであった。
「予は針を打った事がない、一度試してみてくれんか?」「何処かお悪いところでもありますか?」「いや、何処も悪くは無いが、どうじゃ試してくれんかのう」
「悪い所が無ければ試す必要は御座いません」「無用な針は却って身体に悪う御座います」
結局一番年寄りの老中酒井和泉が施術を受ける事になった。
「おう これは楽になるのう、殿 この先は舟斎をお召抱えになられたら如何かと・・・」
こうして謁見は終わったのである。
藩公も上首尾に終わった事に機嫌がよかった。
「おい、検校 お前の隠居は何時だ?」吉宗は検校にそう言った。
「まだまだ先で御座います、そう 5年は後になりましょうかな」
笑って「今の若者 お前が育ててみる気は無いか?」「そうですなー・・・それは上様次第で、私は異存は御座いません なかなか良い若者だと思いますが」と・・・
吉宗は即断した。
「当分江戸屋敷で預かる、国表に帰る事ならん」と。
藩公は喜んだ。
「連れて来た甲斐あった」と、将軍吉宗の目に留まったのである。
出世の見込みが付いたのだ、と云う事は我が藩にも名誉な事だと。
微禄ながら士分に順ずる扱いを受け屋敷まで賜ったのである。
国表では大変な騒ぎとなったのだ。
「公方様に認めたれた」「江戸城に勤められる事になったそうだ」
宗次郎はもとより おみよの父尾形寛兵衛も禄高も増え大喜びをしたのであるが離れて暮らす事への淋しさも有ったのである。
凶族一味はここ暫く事件を起こしていない。
それが又 何とも不気味であった。
八州取締役も裏柳生も捜査の手の打ち様も無く困り果てていた。
そして三年の月日が経った。
この頃から金細工師の行方知れずが各地で頻繁に起きるようになっていた。
蒸発か・・・?かどわかしか・・・?判らぬが家族全員消えて無くなるのである。
これも又不思議な事である。
普通 かどわかしであれば家族全員と云う事はない。
必ず職人だけが狙われるのである。
だが家族の全てが一晩で居なくなると云う事は今まで例が無い。
不思議な事件であった。
舟斎は毎日古典芸能から浄瑠璃、下々の生活ぶりなど学ぶべき事は一杯あった。
検校と云うものはあらゆる事を知らねばならぬ。
唯 針灸アンマが上手だけでは勤まらない。
大変な仕事である。
おみよと共に街に出掛け珍しい話題や人々の暮らしぶりを仕入れて来て吉宗に話すのであった。
こうした話は表向きの政には直接影響は与えない。
だが将軍職にある者に取っては知っておく必要があったのだ。
その為 直属の間者も陰では活躍してたのである。
そして5年の月日が流れた。時の検校 村下は隠居願いを申し入れたのであるが舟斎は「まだまだ学ぶ事が多く御座います、もう少しお師匠様にご指導願います」と吉宗に願い出たのであった。
吉宗も快く了承して「好きに致せ」と二人に任せたのだった。
一年後、名実共に立派な検校職を継いだ舟斎は 名を橘検校様と呼ばれる様になっていた。
「なあ 検校よ、凶暴な族の一人がお前に似てると聞いたが気に入らんのう、早く何とか捕らえて仕置きしないとお前も落ち着かんだろう」
その年金座が襲われ10満両余りが盗まれた。
将軍はそれを指してそう言ったのである。
が 今回の事件は今までと違った幾つかの疑問があったのだ。
まず金座の中に手引きした人間が居たのでは無いか?
そして無駄の無い動きをしてる、順路を知り尽くした人物が居たのであろう。
そこで向こう三年以内に雇い入れた職人の身元を洗う事にしたのである。
するとその中に身元知れずの男が二人居たのだった。
その男達は事件と共に姿を消している。
雇う時に立ち会った勘定方の人物を厳しく吟味した所、何と袖の下を受け取っていた事が判明したのである。
紹介したのは江戸のはずれに住む さして大きくも無い口入屋であった。
だが取り方が向った時には既に店を畳んで姿を消した後だった。
捨吉の身元もしかりと洗われた。
だが当時を知る者は殆ど亡くなっている。
僅かの手掛かりを手繰ってやっと村岡検校なる人物が居た事が判ったのである。
しかし寺に預けられたとなると必ず生みの親が居るはずである。
草の者が耳寄りの情報を齎した。
今を去る30年程前、飛騨天領の地の地侍、斉藤某なる人物に双子が生まれたと云う。
だが出生届もなされず その双子は行く方知れずになってしまったと・・・
そのうち一人は離れた地の寺に預けられたとの情報である。
それが捨吉であろうと。
しかし父母は既にこの世を去り 代替わりをしてそれ以上の情報は得られなかったが ほぼ間違いの無いことである。
もう一人は・・・誰にも判らぬ事であった。
八宗取締役は宗次郎の家を訪れた。
「心当たりは無いか」と・・・
しかし宗次郎は「間違い無く舟一は我が子で御座います」「他人の空似と云う事も御座いますからなー」と・・・
出世した我が子を思いやる親の心がひしひしと伝わってきたのである。
八州廻り 相馬孫四郎は全てを理解した。
捨吉と橘検校は双子の兄弟である、と・・・
しかしそれを胸に仕舞い込んだのであった。
一生懸命努力して検校にまで上り詰めた男とその父親宗次郎の愛、おみよの姿が眼に浮かんだ。
この平和な家族を刑場に送るのは忍びない(当時は凶悪犯の場合 一族郎党皆処刑されたのである)彼はこの家族の事は報告しないで地獄の底まで持って行こうと心に決めたのであったが。
八州取締役も人の子である。
「もし自分に双子の兄弟が居たら、それが凶悪犯であったなら・・・」御定法にも多いに疑問も持った。
しかしそれを守らねばならない。
仕事の過酷さを感じたのである。
そんな時 隅田川の畔に大量の小判がばら撒かれると云う前代未聞の出来事が起きた。
多くの群集が押し掛けそれを拾っていると云う。
すぐ役人が回収したが その金額は数千両にも及んだと言われたのである。
金座の者が調べたところ、それは全て贋金であったと報告が上がった。
何処かに大掛かりな偽金作りの一味がいる。
不思議とそれが凶族が姿を消し、金細工師の蒸発、そして金座の盗難事件・・・流れは一致する。
江戸町奉行所、関八州取締り、裏柳生、総力を挙げ一致団結して捜査を開始した。
裏柳生では(仮説ではあるが)山深い所に住む平家の落人部落に関係してるのでは・・・と・・・
八州取締りの方ではそうした落人に成済まし部落を作り贋金を作っているのでは、と考えた。
町奉行所では他に贋金が出ないか捜査を強化して細工師の足取りを追ったのである。
大阪奉行所から思わぬ情報が飛び込んできた。
下町の細工師が旅発つ前「甲府金山に行く」と言ったのをちらりと聞いた近所の女房が居ると・・・
早速柳生が動いた。
が しかし相馬はそうは思わなかった。
「自分の地の利のある隠れ里、そう奥飛騨の何処か・・・きっとその地で大掛かりな偽金作りの集落があるのでは無いか?」
日本全国 落人部落はある。
当時はそれを調べるのも大変な時代だったのだ。
平家の落人部落ばかりでは無い、関が原の合戦で破れた西軍の子孫の者達、皆山奥でひっそりと隠れ住んでいた。
又 現在の様に道路網が発展している訳では無い。
人跡未踏の地など幾らでもあった。
そこで村里に買い物に降りて来る人間達を捜す事になる訳だ。
それは気の遠くなる様な作業である。
又 村人の口も堅い。
なかなか「はいそうですか」と話す人間などめったに居ない。
金でも掴まされていれば尚の事である。
吉宗も越前守を交えてこの問題に付いて協議を重ねていた。
はかばかしく行かぬ捜査に苦渋の色を浮かべて。
下座に座っていた舟斎に「のう検校、お前だったらどんなところに隠れるか?」と・・・
舟斎は「私はそんな恐ろしい話は知りませんが 誰でも古里が恋しいもので御座いましょう」「出来るなら古里近くの山中に隠れようとするでしょう」と答えたのである。
「うーん、帰巣本能と云う奴か・・・」その後も協議は続けられていた。
舟斎はこの頃城中での信頼も厚く常に吉宗の傍らに居たのだった。
柳生、関八州の精鋭達が飛騨山中に出発したのはその二日後の事であった。
飛騨高山のはずれで須藤伊之助なる浪人が寺子屋を開いていた。
さほど生徒が居る訳ではないが悠々自適の生活をしている。
だが不審な動きをしてる訳では無い。
時々物売りがお茶を飲んで帰る程度だ。
しかし下呂近くで少し逗留して姿を消している。
ひなびた温泉宿の事である。
街道を少し歩けばもう両側が山の木々で覆われている。
そして谷川のせせらぎと鳥の声が聞こえるだけの所だ。
人の往来も少ない。
何処でも隠れる場所はある。物売りは辺りの気配を察し姿を消したとみえる。
そんな時、近江の豪商、尾張の両替屋が立て続けに強盗に入られた。
「我々は住吉検校だ、覚えて置け」片方は「五月雨検校だ」と名乗ったそうだ。
八州廻りは「これは模倣犯だな」余計混乱を招く 一味を早く捕らえなければ幕府の威信も地に落ちるな、と焦りの色を濃くしたのであった。
子供達の遊びにもそれは表れた。
「我こそは検校である、掛かって来い」すると取り方役の子供達が切られる単純な遊びであるが、これには町奉行所も苦りきった表情を隠せなかったのである。
名奉行として知られる大岡も子供達が悪を賛美する様な遊びが流行る事は許せなかったのだった。
西国と奥羽地方から贋金が大量に見付かった。
此処に来て吉宗が長年抱いていた貨幣鋳造に於いて より精巧な小判の鋳造に踏み切ったのである。
世に言う『享保の改革』を断行したのであった。
重役たちの世襲制廃止、業績著しい者には禄高の増加、功績の無い者は当然禄高を減らされる事となった。
疲弊した経済を立て直す為 又贋金作りの息の根を止める為 そして軽輩者の士気を高める為には相当の効果があった。
今まで高禄で召抱えられていた者も安閑としては居られなくなった。
賄賂を貰い私腹を肥やしていた者は厳重に処罰されたのである。
功罪併せ持つ改革ではあったが 腐りかけた江戸幕府の持つ膿を出し切ったのは確かであった。
多くの原野が開墾され、治水工事も行われた。
特筆すべき事は生活苦により医師に掛かる事の出来ない病人、怪我人に負担をかける事なく 養生所にて治療が受けられる様になった事であろうか。
そして薬治園を作り薬草の栽培に力を注いだ事である。
毎年の事であるが土砂の氾濫により禄高が一定の水準を保つ事が出来ない。
護岸工事も徹底して行われた。
そうした吉宗の改革は多くの有能な家臣を持つ事により実を結んだのであるが、反対勢力の抵抗も又激しかったのも事実である。
『火事と喧嘩は江戸の華』と言われる様に火災の被害も多かった。
それを解消する為に江戸火消し制度が確立されたのである。
そんな時 宗次郎が病床に着いたのだった。
急ぎ駆け付けた舟斎に彼は驚愕の事実を打ち明けたのである。
「お前の父君は何らかの事情により お前を捨てざるを得なかったのだろう、海の入り江に漂う舟の中に絹の産着を着て死の淵をさ迷っていたのだ」「きっとお侍の子であろう・・・」「が わしはお前が可愛い 盲目のお前が不憫でならぬ」と・・・
宗次郎は静かに息を引き取った。
舟斎は関八州取締役 相馬孫四郎に「是非私の生みの親を探して欲しい、ぜひとも会ってみたい この世に送り出してくれたお礼も言いたいのだが」と申し入れたのである。
しかし孫四郎は「世の中には知っていい事と 知らないで居た方が良かったと言う場合がある、検校殿が後で苦しむ事になっても宜しいのなら・・・」と、その時は教えてくれなかった。
だが舟斎の出生の秘密を知る者は八州廻りにはそれと無く知ってる者も居たのだ。
孫四郎は大岡に相談したのである。
大岡も「罪の無い者でも御定法では罰せられられなければならんからのう、不憫じゃが・・・さて、どうするか」と思案した。
一応「御両親は亡くなられたそうだ」とだけ答えて納得させたのであった。
境港から大量の武器が数度に渡って何処かに買い付けられて密かに送られている、との情報が入った。
すぐ裏柳生、八州廻りが探索に当たったのであるがどうも半端な量では無いらしい。
街道筋を徹底的に検問を強化したのであった。
牛に引かせて荷車が通る。
轍の跡が異常に深い・・・美濃国境の事である。
農家の人間にしてはそれに付き添う人数も多い。
役人が不審に思い前を遮った。
すると先頭に立ってた役人が中の一人に短筒(拳銃)で撃たれたのである。
「すわっ大事件」と後方の一人が関所に向って走り出そうとした時 林の中から銃弾が一斉に浴びせ掛けられたのだった。
轍の深い車からも銃が取り出されあえなく役人達は撃倒されてしまった。
何時の間にか落人部落と関が原西軍の子孫の面々が手を組み、この地帯一帯に治外法権の地域が出来ていたのである。
幕府から独立して新しい国家樹立を目指している、と見た方が良いだろう。
それは徳川治世の始まりから豊臣方への徹底的な弾圧、それを逃れた者達が山中に隠れ住み 子孫たちが何時かは又乱世が来る事を夢見て 虎視眈々と機会を伺っていたところに捨吉の出現により同調する者が集まったからに他ならない。
ここに壮絶な柳生、関八州連合軍との戦いが始まったのであった。
時を同じくして数度の江戸の大火があった。
これも付け火である。
将軍家のお膝元での騒ぎは多いに人々の不安を煽った。
此処でも吉宗の作った町火消しが多いに活躍した訳だが根本を絶たねばならない。
火回りを厳重に火消し達は定火消し(武家屋敷を守る)と共に夜回りを強化したのだった。
飛騨から信濃山中の至る所に監視小屋がある。
裏柳生の精鋭達がひとつずつ潰してゆく。
一方的に向こうが有利な中で夜陰に紛れ制圧していったのであった。
まさに血で血を洗う壮絶な戦いである。
神君家康公以来の戦いだった。
村岡検校こと捨吉は豊富な資金と強力な部下を持ち山中の戦には精通していた。
だが山岳戦は裏柳生の最も得意な戦いである。
次々と監視小屋 そして隠れている場所を攻撃したのだった。
しかし彼等の鉄砲隊の前に相当苦戦したのは間違いない。
累々たる屍の山が築かれた。
山砦間近まで攻め入ったところ思わぬ落とし穴が待っていた。
空堀が掘られそれを渡る事が出来ぬ。
下手に踏み込めば上から大きな網が被せられ鉄砲の餌食になるのだ。
そして何処からとも無く後ろから攻撃される。
それを指揮しているのが須藤伊之助であった。
「やはり唯の鼠では無かったか、先に捕縛して置けばよかった」柳生の面々は歯軋りを噛んで悔しがった。
地下壕が縦横に掘られ其処から敵が現れて消える。
柳生の精鋭達も一時退却を余儀なくされたのである。
大岡は舟斎に断腸の思いで彼の出生に纏わる事実を告げていた。
「お前の双子の兄弟が今 世間を騒がせている凶族の頭なのだ、お前には何も罪は無い、だが今の御定法に照らし合わせるとどうしても此の侭には捨て置けん」「辛いだろうが蟄居謹慎して居ってくれんかのう」「上様も痛く気にしておいでじゃ、判ってくれ」と・・・
舟斎は驚き又悲しんだ。
「私も当然罪になりましょうね」「妻の処遇はどうなりますか?やはり離縁した方が宜しいでしょうな・・・」
「いや 上様には何かお考えがある様じゃ、そこまで考えなくとも良いと思うが」と言って去って行った。
舟斎には七歳と五歳の息子が居た。
妻の行く末も心配ではあったが二人の息子の事が一番気懸かりな事であったのだ。
自分はきっと処刑されるであろう、だが妻と息子は何とでも守り通したかったのである。
突然の事であった。
深編笠の男が舟斎の家にやって来た。
後ろには大岡越前守も居る。
上様であった。
吉宗は「法とは不便な物よのう、罪もない者も罰せられなければならないとは・・・ま、悪い様には致さぬから少し休みだと思って短慮は起こすまいぞ」と励まして帰った。
舟斎は涙を流しその言葉を噛み締めて聞いていたのだった。
八州廻り達は山裾の穴と云う穴を全て塞いだ。
そして須藤伊之助以下配下の者をことごとく捕縛、斬捨てたのであった。
後は兵糧攻めと突破口を開く為の空堀を埋める作業に取り掛かったのである。
夜陰に紛れて投降して来る者が出始めた。
が しかし見付かれば後ろから銃で撃たれ幕府の陣営までたどり着く者はごく僅かだった。
捨吉は叫んだ「我は村岡検校なるぞ!この地で独立国家を建国する、難攻不落のこの山城を落としてみるかっ、これ以上死人を出すと云うならそれも良し」「黙って去れば犠牲者は無くなるがどうだ」
それは自軍を鼓舞するものであったが まだ戦い続ける決意の表れでもあったのだ。
暫く一進一退の攻防が続いた。
やっと空堀の一部が埋められ突破口が出来た。
先陣を切った一団が渡り終えた途端、大音響が鳴り響いたのである。
其処には既に爆薬が仕掛けられ最初の幕府の侍達があえなく犠牲となってしまったのだった。
又ひとつ大きな空堀が出来た感じだった。
下手に攻めれば犠牲者が出るばかりだ。
八州取締りは兵糧攻めの道を選んだのであるが裏柳生は強行突破を主張したのである。
これは手柄を何としてでも柳生の手で上げたかったからに他ならない。
が しかし今は功名争いしてる時期では無かった。
何としてもこの集団を殲滅させねばならない。
遂に兵糧攻めに決定した。
「これは関が原以来の大戦だなー」勿論関が原が どの様な戦であったのか知ってる者は居なかったが皆口々にそう言ったのである。
ここで捨吉の心の軌跡を追ってみる事にしよう。
彼も又鍼灸とアンマで身を立てようと思った。
努力して検校になる事を夢見た時代もあったのだ。
が しかし世話になった寺の住職は無類の酒好き、そして女好きときてる。
一時はそんな生活も悪くないな と思った事もあった。
アンマの腕は確かなものを持っていた。
そして金貸しも巧く立ち回り相当の利益が上がる。
だが彼の野心はそれだけで終わらなかった。
この寺を乗っ取り自分の好きなように生きる、もっと金儲けをして近隣の町に一大歓楽街を作ろう。
元々かれも無類の女好きだった。
が 寺社奉行によってその計画は潰されてしまった時 思い立ったのはその時の仲間と盗み働きする事だった。
現代と違って夜になればどんな町でも夜回りが時間通りしか廻って歩かない。
その間隙を突いて盗み働きをするのであるが面の割れるのを恐れ皆殺しの凶族と化したのである。
拠点は人の判らない山に作り夜陰に紛れて行動したのだった。
あまりにも巧く事が運ぶのが面白く自分達の犯行を誇示したくなって来た
そこで生まれたのが『村岡検校』一味の名を世間に知らしめる事である。
ある時、役人に追われ山深くの村に逃げ込んだ時である。
その村は豊臣恩顧の者達がひっそりと隠れるように住んでいたのだった。
捨吉は其処の古老から思わぬ事を聞いたのである。
「山深く入れば幾らでもそんな村がある、又戦でも始まればおそらく決起する者も居るであろう」と・・・
徳川の世にもまだこうした人間が大勢居る事を知ったのだった。
享保の改革により 年貢の取立ても四公六民から五公五民に変わった。
農家の不満も相当きついものがある。
落人達を束ねて決起すれば農家の一揆も起きるんではないか・・・
山国では不平不満の者が五万といる。
後は資金と武器さえあれば・・・外様大名の中にも呼応して立ち上がる者も居るだろう。
野心がふつふつと煮え返ったのであった。
そして着々と準備が始まったのであるが、最初の目論みでは西国大名、東北の各地から火の手を挙げるはずのものが動かなかったのである。
だが回りだした歯車はもう止める事は不可能となってしまったのだった。
大きな誤算であった。
原因のひとつには素性の判らぬ彼の話に何処まで信用して乗ってよいか?と云う事と朝廷の後ろ盾が無かった事にある。
西国大名の中には不平不満を持つものは結構居たのであるが朝廷の後ろ盾を得て徳川家を逆賊としなければ大義名分が立たない。
捨吉のもくろみはその時点で失敗したのであった。
幕府に取っても吉宗が将軍になる以前には腐ったリンゴになりかかっていたのだった。
が 見事にその危機を乗り越えたのである。
元禄以来の政治体制の悪弊が一掃される目前に起きた事件だった。
諸大名に取ってはこれは大変な脅威であった。
旗本八万旗が動く事無く鎮圧されたと云う事は徳川の底力を多いに見せ付けた事になる。
さて砦の方であるが まさに血で血を洗う激戦の末 大抵の者は捕縛され斬り死にし、自刃して果てたのであった。
その中に在って捨吉は最後まで命を惜しみ盲目の振りをして哀れな姿をさらしていたのだった。
砦の中は意外に広く五つの集落でもって成り立っていた。
その一角に鋳造工場を持ち其処には多くの家族が生活を共にしていたのである。
皆 これ程の大事件とは思っていなかったのだ。
彼らは 借金をし、その証文を捨吉が買い取ったと云う訳だ。
そしてこの鋳造工場に連れて来られた訳だが家族全員で暮らせる事で満足していた様であった。
特別抵抗する事も無く連行されたのである。
大岡の取調べが始まった。
「さて 捨吉・・・いや村岡検校かな、ま どちらでも構わぬ お前が盗み働き 贋金作りの頭目に間違い無いな」「いえ 私はこの通りめくらで御座います、全ては須藤さまの御言いつけ通り動いただけで御座います」「何を申す、お前に出会わなければ拙者は静かに寺子屋をやってたものを」
お互いが罪のなすりあいである。
その中で父母の死が捨吉の仕業と云う事も判ったのであった。
一刻ばかり黙って聴いていた大岡は「頭目捨吉、聞き捨てならぬ事を申したな、父母に会ったと申したが何故殺したのかその訳を言ってみろ」「捨てられたからか?それとも他に訳でも有ると申すか?」「めくらの私を捨て 健常な弟が跡継ぎでは理不尽と思いませんか、御奉行様でもそう思われませんか」「何でも畜生腹の子と聞きましたが私の弟は何処にいるのやら やっぱり憎んでも憎みきれない相手で御座いましょう、御奉行様ならどうなさいますか?」「八つ裂きにでもしたいと思うのが普通でしょうが」
「その通りじゃ 今わしがお前を八つ裂きにしたいと思っているのも勝手じゃ だが此処は御白洲じゃ、思いと裁きは別じゃて」「多くの罪も無い人を殺めた罪をどう弁解致すのじゃ、わしはそれを聞きたいがのう」「それともそれで世の中が変わると思ったか」
「・・・・・・」
「捨吉っ!」突然大岡は捨吉目掛けて扇子を投げ付けた。
咄嗟に捨吉は眼を開け扇子を避けたのであった。
ニヤリと笑った大岡は「やはり」と言ったきり何も言わなかった。
それから一人一人吟味が始まったのである。
そして刻限も迫った時、越前は言った。
「裁きを言い渡す、須藤伊之助以下十八名 打ち首獄門、後の者八丈島終生遠島を申し付ける」「彫金師一同三宅島遠島」「全員引き立てい」と叫んで白洲は捨吉一人になった。
そして捨吉には「引き合わせたい者が居る、暫し待て」と・・・
「橘舟斎これへ」と呼んだのであった。
「捨吉、この顔をよく見ろ、お前に瓜二つと思わんか」「お前の双子の兄弟だ、今生の別れをして置け」「ここに居るのが本物の検校 橘舟斎じゃ 覚えて置け」と言って席を立った。
そして陰で聞いてた吉宗とそっと様子を伺っていたのである。
「兄者で御座いますか?何故そんな恐ろしい事をなさっていたのですか?」「ケッ、生きてやがったんか、何処で何してるんだ、どうせこそ泥位の事で捕まったんだろう」・・・「何故父上と母上を殺めたんですか、私も一目会いとう御座いましたのに」「お前 憎くはないのか、捨てられたんだぞ」「いえ、一度会ってこの世に生を受けたお礼を申しとう御座いました」「この糞たれめが 何が礼だ、お礼は夾竹桃の汁を飲ませてしてやったぞ、お前の様な者兄弟でも何でも無い とっとと失せろ」
そこへ大岡が現れた。
「橘舟斎、お上を謀りおって不届きな奴だ、お前の本当の親は橘宗次郎であろうが、早々に下がりおれ」と白洲から引き出されたのである。
「裁きを言い渡す、村岡検校事捨吉、張付け獄門 尚 首は百日間晒し物とする事とす」
誰も居なくなった白洲では舟斎と大岡が万感の思いで見詰め合っていた。
「なあ、舟斎、当分は寄せ場送りになるが辛抱しろよ、御政道に照らし合わせても此処までが限界じゃ、許せ」と大岡は深々と頭を下げたのだ。
「もったいないお言葉 感謝致します」舟斎は流れる涙をどうする事も出来なかった。
「御妻女と子供の事だが心配には及ばん、わしが面倒を見るから安心して務めを果たして来い」「これからは市井の人間になるのじゃ、名も忠乃市と改めよ」と。
「寄せ場には大勢患者がいるぞ、その面倒を診てやれ」 大抵は罪人には手首に墨を入れたものである。
だが彼はそれも許されたのであった。
「お前の子は大層利発なそうじゃな、何れ士分に取り立てて しかるべき要職に着いて貰うゆえ安堵致すがよい」吉宗はそう言ったのであった。
大岡は「三年なんてすぐ経ってしまうものじゃて 真面目なそなた故 一生懸命励んでいれば戻った時に役にも立とう」と・・・
最初は幕府方の間者と訝る者もいたが彼の施術を受けた者から次第にその噂も消えていった。
寄せ場の仕事は本来海であった所の干拓である。非常に辛い仕事だった。
だから腰痛、肩、腕の張りがひどい。
忠乃市は丁寧に鍼灸を施し少しでも楽になるように施術した。
その甲斐有ってか評判も上々だった。
そして三年後、木場の近くに鍼灸の木札をぶら下げた診療所を構えたのであった。
最初は患者もなかなか来ず 夜の町を笛を鳴らして歩いたものだ。
ある日 立派な籠に乗った侍が訪れた事から事態は一変したのである。
「頼もう、忠乃市殿はご在宅かな、少し針を打って貰おうと思って参ったが・・・」大岡越前であった。
すぐそれが評判になったのである。
「あの先生は鍼灸の偉い先生だそうだ」「では私達も行ってみるか」たちまち町中の噂になり患者は増えた。
もう夜 笛を吹いて歩く事も無くなった。
長男は元服後、勘定方の武士に取り立てられた、二男も何れお城の土を踏む事になろう。
忠乃市こと舟斎は市井の片隅で妻共々静かに幸せを噛み締めていたのであった。
しかしこの事件は歴史の闇に葬られ何処にもその記録は無い。
-完ー
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