『あじさいの雨』
№ 1
喫茶店を出た時 外は雨だった。
「あら 困ったわ、家を出る時あんなにいい天気だったのに」
コートの襟を立てに軒下で駆け出そうとしてた佐和子の頭の上に黒い大きな傘が被せられたのであった。
振り向くと初老の紳士が「どうぞ、これを差して行きなさい」・・・見ず知らずの男性だった。
「何時も此処でお見かけしてたんですよ、本が好きなんですね」
佐和子の楽しみは此処の美味しいコーヒーを飲みながらの読書だった。
「でもあなたが濡れるんじゃないですか?」「いや、私は近くの画廊に用が有って来たものですから 何とかなりますよ」「傘は差し上げましからお気使いなさらんでください」
そう言って彼の紳士は駆け出して行ってしまった。
「あの・・・お名前は?」そう叫んではみたが この雨の中 声は届いたか届かなかったのか見る見る姿は消えて行ってしまったのだった。
彼女の名は山下佐和子、夫剛は現在海外勤務の商社マン 二年に一度家に帰って来るものの又忙しく海外に赴く。
此処暫くは帰っていない。
もう三年も会っていない。
佐和子45歳の梅雨時の事であった。
名も告げず駆け去って行ってしまったあの方に傘を返さねば、と思って毎日喫茶店に来るもののなかなか逢えないでいたのである。
読書をしながら外を気にする。
最初は傘を返すのが目的だったものが何時か何と無く心ときめく楽しい時間に変わっていった。
「会ったらまずお礼を言って それから何を話そうか」「お住まいはどちら? お仕事は何をなさっているの?」
「おっと 忘れてた、先ず名前を聞かなくちゃ、それからお歳は幾つになられるのですか?」
まさに夢見る夢子さん状態になっていた。
思いなしか化粧にも気を使う様になってきた。
今までは薄く口紅を塗る程度で家を出たものが細かい所まで気を使うようになったのである。
着るものにも変化が見られた。
「お母さんこの頃ちょっと変よ、何かいい事でも在ったの?」
娘の佐代子がそう聞いた。
佐代子は社会人二年生、去年大学を卒業して会社勤めをしている。
母の変化に気付かぬ歳ではない。
「さては恋でもしたかな?」「お父さんの留守中に変な事しないでね」
「はいはい、解ってますよ・・・-だ」返事も上の空で本と傘を持ち家を飛び出して行く。
そっと跡を付けてみた。
特別変わった事もない。
だが変である。
何故 天気が良いのに傘を持って出掛けるんだ?それも男物の傘を・・・?
時々外を見てぼんやりしてる。
「やっぱり男の人を待ってるんだ・・・」「お父さんって者が在りながら何やってるのよ」
しかし決まった時間になると必ず帰ってくる。
佐代子が見張り始めて四日目・・・
素敵な中年の紳士がこの店に入って来た。
その紳士は窓際の佐和子に気が付かずカウンターの席に腰掛けマスターと笑って話をしてる。
佐和子の腰が落ち着かない。
立ったり座ったりもじもじしてる。
表の看板の陰に隠れて 笑えて来た佐代子だった。
「何だ 片思いか」・・・そんな母の姿を可愛いと思った。
突然、意を決して立ち上がった佐和子はカウンターの方に歩き出そうとして腰がヘナヘナット崩れてしまったのだ。
緊張のあまり貧血状態になってしまったのである。
佐代子は一瞬驚いたが大笑いをしてしまった。
そっと中に入って行き 他の席で様子を伺う。
ウエイトレスが「何にしましょう?」と聞いた時 つい「同じものを」と言ってしまったのだった。
「あ コーヒーね」と言い直し なにやってんだ私も と苦笑したのである。
まだ母は気が付いていない。
おずおずと進み寄り「あのう これを、先日はありがとう御座いました」そう言うのが精一杯の様である。
「あ、これはご丁寧な事で」そう言って彼の紳士は傘を受け取り「あの時は酷い降りでしたねー」と・・・
が しかし佐和子の後の言葉が続かない。
彼女自身自分に腹を立てていた。
あれ程楽しい会話をしたいと思っていたのに 何も口から出て来ない。
唯 立ち尽くしもじもじしてるだけである。
「何か?」紳士が聞いた。
「ええ あの そのう・・・」じれったくて見ていられない。
佐代子が後ろから軽くポカリと頭を叩き「母さん何やってんのよ」「しっかりしなさい」遂 口を出してしまったのである。
「えっあっ佐代子・・・」驚いて口をぽかんと開けたまま恥ずかしそうに俯いてしまった。
「娘の山下佐代子です、先日は大変お世話になりました、母がまだお話がしたい様で もしお時間が御座いましたら相手をしてやって戴けませんか?」
「これは失礼しました、私はこう云う者です、はっきりしたいいお嬢さんですねー 宜しく」と名刺を渡された。
『松岡博』・・・何処かで聞いた名前である。
マスターが「先生のお知り合いですか」と聞いた時思い出した。
画家の重鎮、主にヨーロッパの作品を多く手掛けている作家である事を・・・
「そうか 最近の母の行動を狂わせていたのはこの人だったのか」
「磯の鮑の片思い」佐代子は鼻歌を歌いながら先に店を出たのであった。
№ 2
いきなり最初から恥をかいたような思いをした佐和子だったが 娘のお蔭で少し話が出来た事が嬉しくて堪らなかった。
そして時々では有るが此処で話をする程度なら会える事が確認できた。
佐和子は少女の様に心弾んだ。
今度は恥をかかない様にしよう。
口の中でブツブツ言いながら一生懸命リハーサルを重ねてる。
佐代子は呆れてそれを見てるのだが そんな母が可愛いと思った。
「いい人で良かった、あの先生ならお父さんが帰って来ても何の問題にもならないだろう」
佐代子はこの交際に反対する理由がなくなった事が嬉しかった。
と 同時に「母には過ぎた人だなー」と思っても居たのである。
佐和子は ある地方都市の洋品店の長女として生まれた。
上には男兄弟二人と弟が居た。
たった一人の女の子である。
大事に大事に育てられたのであった。
だからかなり我侭な一面を持ち合わせている。
高校、大学と所謂 お嬢様学校(私立のところてんで進学出来る所)に通った。
特別裕福な家庭では無かったが さして貧乏でもない。
まあ 中流家庭だったが兄二人が高校を出てすぐ就職したものだから多少の贅沢は許された。
そして多くのボーイフレンドと遊び回ったのである。
だが 今の時代と違って余程の相手でなければキッスする事も無い。
そんな男性が現れたらもう大騒ぎ、結婚しなければ収まらない時代であった。
手を握り お互い眼と眼を見詰めあい「好きだよ」と言うのが精々であったのだ。
佐和子は何時も洒落た服を着てひときわ目立つ存在であった為 男性たちの注目を浴び多いに青春をエンジョイしてたのである。
「この世は私の為に有るのだわ」と思う程毎日が楽しくて堪らなかった。
そして学生時代に恋に落ちた。
相手は一流企業の若き商社マン、現在の夫である。
まだ若い二人は休日ごとによくドライブに行ったり映画を見に行ったり楽しい新婚生活をした。
恋愛の延長線上にあったのだった。
だが佐代子が生まれる頃から少しずつ歯車が狂ってきた。
有能な彼(剛)に役職が付き毎日の帰りが遅くなってきたのだった。
佐和子はそれが不満だった。
朝早くから出掛け 夜遅く帰ってくる。
剛にすればちょっとでも経済的に豊かな暮らしもしたいし出世もしたい、それが男の務めだと思っていた。
又 佐和子もそれは充分理解していたのだが・・・少し淋しくなったのである。
どんどん夫が遠く感じられる様になっていった。
次第に家庭でのいろんな話が出来なくなった。
疲れて帰って来る夫は夕食もそこそこに寝てしまう。
朝も佐和子が眼を覚ます頃 家を出て行く。
何と無く隙間風が吹き始めたのであった。
そんな時、夫の口から初めての海外出張の話が出たのである。
佐和子はそれでなくとも淋しい思いをしてるのに「嫌よ、行かないで」と涙で訴えたのであった。
「出世の為だ、お前だっていい暮らしをしたいだろう」 そう言われると何も言えなかった。
たった三ヶ月の事だが長く長く感じられたのである。
そう云えば佐代子が生まれてから夫婦の会話も娘の話が中心で 彼から「愛してるよ」と言って貰う事が無くなったのだった。
そして暫く夫婦の営みも無くなった。
現在海外支店の営業部長、バリバリと仕事をこなし会社に取っては絶対必要な戦力である。
だが佐和子に取っては 戸籍上の夫以外何者でもない、唯居るだけの存在でしか無かった。
「もう十年以上愛の営みは無いなー」淋しさが骨身に沁みる。
いろんなサークルに入ってみたが何をやっても面白くない。
娘佐代子が、中学の頃から 癒されぬ心を持て余し恋愛小説などを読んでみた。
がしかし余計に惨めになって行くばかり・・・
何時の間にか純文学から世界名作物語に変化して行った。
そして『おんな』を捨てたのである。
佐代子は溌剌として青春をエンジョイしてる。
私は45歳の・・・唯のおばさん・・・か・・・
時々娘にジェラシーを感じたが今ではそれも失せた。
№ 3
たまに帰って来ると 夫は「おい 新聞、飯はまだか?」 タバコを咥えれば「火」と言うだけの言葉しか発しない。
「一緒になった頃の彼は何処へ行ったのよ、私はお手伝いさんじゃ無いわよ」何度も口に出掛かったが止めた。
「一体私は何なのよ」と 言いたくとも生活を支えて貰っている以上何も言えない。
剛は典型的な日本人なのだ。
「あれだけ海外生活が長いのに何故女心を判ってくれないの?」愚痴を言いたくとも言えない。
娘佐代子が居なければ全く死んだような冷たい家庭である。
何時の間にか何時もの喫茶店の常連になってしまった。
コーヒー一杯で何時間でも本を読んでいる。
そんな時、松岡博と出会ったのだった。
佐和子は突然の雨に感謝したのであった。
紳士的な中にエネルギッシュな風貌を湛え、とても優しく接してくれる。
先年妻に先立たれ 歳は取ってるものの今は優雅な独身貴族・・・
まさに佐和子に取って理想的な人であった。
彼女は一生懸命お洒落して、共通の話題は無いかと考えていた。
彼女の心の中では「何とか気に入られたい」その事で一杯だった。
夫は遠く外国の地、娘佐代子は笑って相手にしてくれない。
何時も会社で楽しくやっている。
そんな時 松岡から優しい誘いがあったのだ。
「アトリエに遊びにきませんか、お嬢さんと一緒にね」「えっ!私だけじゃ無いんですか?」「それはそうでしょう 仮にも私は独身男ですよ、そこに来客となれば女性一人じゃ可笑しいですよ」
がっかりしたが何はともあれ招待された事は嬉しかった。
佐和子は娘佐代子に話すべきかどうか迷った。
出来れば先生のアトリエに一人で行きたかったのだ。
でも黙っている訳にはゆかない。
「あのね、先生がアトリエに遊びにいらっしゃいって、佐代子興味ないでしょう お断りしようかな・・・」「出来れば佐代子さんもって言われたんだけど」
「へー・・・佐代子さんもって?」「お母さん 本当は一人で行きたいんでしょう」笑いながら「お断りしたら?」佐代子はすぐに母の魂胆が解った。
「ま 私が保護者って訳ね、お邪魔にならない程度について行ってあげるよ」
「でも母さん変わったわね、最近生き生きしてるわ、少し若返った様な気もするし」
元々器量が悪い方ではない。
此処10年程化粧にも無頓着で積極性が無くなっていただけの話である。
そして佐代子が会社に出掛けると孤独な家庭生活、面白くない 寂しい、内向的な性格になりつつあった。
しかし最近は楽しくて仕方がない。
可愛くもなった。
佐代子は「これが恋する女なんだ」「恋の魔術って素晴しいな」と一人納得していたのである。
佐和子は確かに変わった。
誰の眼にもそれはよく判った。
「お父さんが帰るまで そっと見守ってやろう」佐代子はそう思ったのであった。
さて その日がやって来た。
佐和子は朝早くから衣装ケースの中を引っ掻き回し「これが良いかな?あれが良いかな」とやっている。
「そんなのジーンズで結構よ、アトリエでしょう、物置と一緒よ」佐代子が笑って言った。
化粧も念入りに・・・そして言ったのである。
「佐代子ちゃん、今から病気になってよ、そうしたら私一人で行けるから」「後で何か買ってあげるから、お願い・・・」「駄目っ!保護者同伴なんだから」
佐和子はがっくり肩を落として「そう?保護者なのね・・・」と。
松岡のアトリエは高台の見晴らしの良いところに建っていた。
家は特別広くはないが樹木に覆われた隠れ家の様な所だった。
成る程、汚い。
汚いと云うどころじゃない。
足の踏み場もない。
普通(男やもめにウジが湧く)と云うが まさにその通りである。
埃とゴミの間を避けながら奥のアトリエまで辿り着いた。
其処も又 ゴミの山である。
だが 素晴しい作品が所狭しと置いてある。
イーゼルには描きかけの作品が掛かっていた。
そこで松岡はとうとうと作品に付いての話を始めた、西洋絵画史、各ジャンルの絵画の話など・・・
佐和子はそんな松岡の顔を見詰めトロンとした眼をしていた。
佐代子には非常に勉強になった訳だが 佐和子の眼は作品など見てはいなかったのである。
「駄目だ これは・・・完全にいかれてしまっている」
帰り道 佐代子が「先生の作品 素晴しかったね、話も勉強になったし」「そう?私は顔しか見ていなかったから知らないわ、でも汚い所だったね」と・・・
それからの佐和子はよく家を空ける様になった。
毎日玄関からキッチン、トイレに至るまで掃除に通っていたのだった。
佐代子が半月後に訪れた時、別の家に入ったのかと驚いた程である。
元々造りのしっかりした家である。
床も磨かれ埃もない綺麗な佇まいには『流石芸術家の家』と思わせる風格が漂っていた。
そして時々佐和子と松岡の姿は喫茶店、レストラン等で見られる様になった。
佐和子も家に居る時は一日中クラシック音楽を聴き楽しく家事をこなしていた。
半月程したある日「ねえ、ドライブに行っていいかなー」と佐代子に聞いたのである。
「そう、行きたければ勝手に行ったら、何でも聞かないでよ 子供じゃないんだから」「何怒ってるのよ 母さん何か悪い事した?」「そうじゃないの 自分の事は自分で決められない様でないと駄目なの」「お母さんがそうしたいと思ったらそうすれば良いし いけない事と思ったら止めるべきなの、判った?」
結局朝からウキウキとして出て行ってしまったのであった。
№ 4
佐和子は嬉しかった。
こんな風にドライブが出来るのは何十年ぶりだろう。
それも憧れの先生と・・・
久しぶりに饒舌になっていた。
いろんな取り留めも無い話にも笑って耳を傾けてくれる。
そして先生の若い頃の苦労話も熱心に聴いた。
松岡も又嬉しかったのである。
日頃、先生先生と持て囃され 何の垣根も無く自分の話を聞いてくれる者は 何処にも居なかったからである。
佐和子にはバリア等無い。
屈託無く何でも話が出来た。
そして夕暮れの海を見ながらポツリと「これから誰も居ない所にでも行って静かに暮らしてみたいなー」と・・・
それは佐和子を指して言ったのでは無かったのだが 佐和子は嬉しかった。
「先生は私をそんな風に思ってくださっている」 大きな勘違いである。
が 松岡の肩にもたれて幸せ一杯であった。
夕食を海の見えるレストランで食べ 帰宅したのは12時過ぎだった。
小さくハミングしながら帰った佐和子に 佐代子は「門限10時! それを守れなかったら外出禁止」と厳しく注意したのである。
「ごめんなさい、渋滞に巻き込まれてしまってね」苦しい言い訳だった。
一方松岡は久しぶりに心の中の鬱積を吐き出した事で カウンターで旨い酒を飲んでいた。
「先生、何かいい事あったんですか?」「うん まあな」 バーテンに曖昧に答えて家路に着いたのである。
それからの松岡の作風は徐々に変わっていった。
豪快な作風の彼であったがその中に柔らかさが加わってきたのだ。
何でも愚痴を聞いてくれる佐和子の存在が彼の作品の力みを取り去ってくれているのである。
何時の間にか彼女の存在が松岡の心の支えとなり 心の奥底にまで入り込んでいたのだった。
彼女も又彼無しの生活が考えられないでいたのだ。
毎日の様に佐和子はやって来た。
そして「疲れたな」と思う頃 コーヒーとちょっとしたクッキーなどを焼いて出してくれる。
何時しか、お互い 無くてならぬ存在としてアトリエに居たのである。
夫に妻としての愛を受けられず10数年、佐和子は生き返った様に嬉々として松岡の家と佐代子の待つ我が家との暮らしを楽しんでいる。
又 松岡博も妻に先立たれ自分を失いかけていたのを救われ 制作意欲に燃え意欲的な仕事に明け暮れしてた。
まさに運命の悪戯と云う他は無い。
ある日「先生 今日から五日間此処に泊まってもいいでしょう?」佐和子が言った。
「えっ佐代子さんの許しは得たのかい?」「ええ まあ佐代子は友達とアメリカに旅行に行きました」「でも許しは得てないんだろう」「ボーイフレンドと一緒なんです、私も一人じゃ淋しいわ」
松岡は返事に困った。
「我々の時代には恋人と旅行しても後ろ指指される事が当たり前だったが・・・」「今は男友達と外国まで行っても誰も何も言わないのか」
少し考えて 「いいよ、私のベッドで良かったらね」松岡はアトリエのソファーで寝る事にした。
夕食後、二人は静かな ショパンの調 を聴きながら紅茶を飲んで楽しいお喋りをして時を過ごしたのである。
佐和子は「こんな楽しい時間を持つ事が出来たの 生まれて初めて・・・」としみじみ呟いた。
うっすらと涙が浮かんでいた。
松岡はそんな佐和子を可愛いと思った。
肩を寄せ合い「こんな日が来るとは・・・」と思いながら・・・
佐和子をベッドに案内して彼はソファーに横になった。
しかし何と無く落ち着かない。
この家の中に愛する人が居る、それもすぐ手の届きそうな所に・・・
何度も寝返りを打つ。
浅い眠りに付こうとした時 眼の前に佐和子が立っていた。
頬が濡れている。
「好きです、先生一緒に寝てください」
しかし佐和子には夫も子供も居る、松岡も一緒に居たい気持ちが有ったがかろうじて自制心が働いていたのである。
「嫌? 先生私が嫌いですか?」「でなかったら愛してください」
躊躇したが 結局佐和子のベッドに向かったのだった。
「添い寝をしてやれば落ち着くんではないか」と考えたが彼女は必死にしがみ付いてくる。
そして唇を求める、身体の隅々まで舐め回す。
「しまった、浅はかだった」そうは思ったが何と無くそうした期待も有った事に愕然とした。
全裸のシルエットが窓から差す月光に美しく照らし出された。
遂に松岡も理性を失って行ったのだった。
優しく愛撫しながら時間をかけて楽しんだのである。
二人とも暫くぶりの人肌に触れ ため息と愛の雫の中に溺れて行ったのである。
佐和子はこんな愛の営みを持ったのは初めての経験だった。
夫は前技もそこそこに自分だけ楽しんでさっさと寝てしまう。
佐和子は「夫婦なんだからこれが当たり前なんだ」と思って居た。
しかし松岡は優しく優しく佐和子を大切に扱ってくれた。
何度も気が遠くなるような喜びが襲ったのだった。
「嬉しい これが本当の愛なんだ」佐和子は喜びの嵐の中で涙が溢れたのである。
翌朝 気持ち好いけだるさの中で二人は又肌を合わせていた。
佐和子は松岡の腕の中でまだ眠っている。
そっと起き出しコーヒーを入れる。
後ろから恥ずかしそうに佐和子がしがみ付いて来た。
そんな佐和子が余計可愛いく思えた。
松岡は考えた。
「このままで良いのか?それともご主人に話し別れて貰うのが良いのか・・・」
もう佐和子無しの生活など考えたくも無かったのだ。
№ 5
秋の信州路を散策する。
そして気に入った風景に出逢うとスケッチブックを広げる。
傍らには何時も佐和子の姿があった。
佐和子はすっかり夫の事など忘れていたのだ。
いや、忘れようと努めていたのだった。
「この幸せが永久に続けばいいなー」と思いながら。
そんな佐和子を 娘佐代子は「可愛い」と思っていたが 何れ壊れるこの関係の行方を心配してたのである。
「お母さん 可哀想に・・・お父さんには あれだけの包容力が無いからなー」「いっそ帰って来なければいいのに」と・・・
佐代子も又母の幸せを願っていたが 現実的に結婚してると云う事実は消す事が出来ないだけに悩んでいたのだ。
絶対父は離婚に応じないであろう、と。
「母は父に逆らえないだろう」「あの性格からして一生泣きながら付いて行くだろう」と・・・
「私があの時助け舟を出さなければよかったのか・・・」と 傘を返した時の事を思い出していた。
しかし今の母の幸せそうな笑顔を見ると 何も言えなくなっていたのだ。
やがて雪の降る季節になった。
ジングルベルが町々に響く頃 三人は映画を見てホテルのラウンジで食事を取っていた。
「はい これは佐代子さんに」プレゼントの大きな箱を貰った。
「そう云えば父から何も貰った記憶は無いなー」嬉しかった。
母にはダイアモンドのネックレス・・・「開けて見ていい?」にっこり笑い「気に入ればいいけどね」
それはホワイトミンクのコートだった。
「若いから白にしたよ」サイズもぴったり 「To my Dughter」とのカードが入っていた。
「叔父様は本当に母を愛しているんだ、私を娘と見てくれている」余計嬉しさが込み上げてきた。
「こんな所を父が見たらどうするだろうか?」不安も又膨らんで来たのである。
白いものがちらついていた。
こうしてホワイトクリスマスの夜は更けていったのである。
「お母さん どうする?お父さんが帰って来たら?」
「そうね、正直に言うわ、私は博さんが好きですって」
「それで収まる話じゃないわよ、絶対離婚してくれないわよ」
「何とかなるわよ、佐代子と別れ別れの生活になっても仕方が無いわね」「そんなの嫌よ、私も母さんに着いて行くから」
佐和子はにっこり笑い「ありがとうね」と・・・うっすら涙が滲んでいた。
そして桜の花の咲く頃になった。
彼は家のリホームを始めていた。
元々洒落た天井の高い家である、壁のクロスを張替え少し増築して佐代子の部屋も作ったのだ。
彼の心の表れである。
どんな犠牲を払っても愛する人と佐代子を引き取る覚悟であった。
上野公園の桜が特に美しく見えた。
三人は食事を取りながらも その問題に触れようとしなかったのである。
楽しくも切ないひと時だった。
「お母さん、会って欲しい人が居るんだけど」「どんな人?」「うーん どう説明していいのかなー、クリエイティブな仕事をしてる人なんだけど・・・」
「一緒になりたいの」 佐和子はもうそんな年になったのか、と娘をしみじみ見詰めたのであった。
「お父さんなら絶対反対する人よ」「だって収入も不安定だし、兎に角貧乏なのよ、夢だけはでっかい人なのよ」「あなたはその人好きなんでしょう?」
「うん、どうなるか解らないけれど私もその夢に賭けてみたいのよ、それにすごく優しいの」
松岡は若い頃の自分の事を言われている様な気がした。
「佐代子さんがいいと思うんなら一緒にその夢を追い駆けてもいいと思うよ」
佐和子も「そうね 何時までも愛してくれる人ならね」「会ってあげるよ」と言ったのである。
なかなかの好青年である。
しっかりした将来のビジョンも持っている。
「このお付き合い 大事にしなさいね」佐和子はそう答えたのであった。
こうして青葉の季節を迎えたのである。
まるで松岡の家が我が家の様に佐代子は彼を連れてやって来る。
そして楽しいお喋りをして帰るのだった。
佐和子も何時も我が家に居るように落ち着いて暮らしている。
この頃は松岡の作品を素人ながら批評するようになっていた。
にこにこしながら「そんな見方も有ったのか」と驚かされる時もあるのだ。
本当に息の合った夫婦の様であった。
№ 6
やがて 鬱陶しい梅雨の季節がやって来た。
だが佐和子にとっては嬉しい季節だった。
初めて松岡と逢った季節だから・・・
そう 佐和子と松岡とが出会った季節となったのである。
だが彼女が深刻な顔で話していた。
横には佐代子、そして恋人の栄作も居た。
「お父さんが帰って来る」と言う。
何でもアムステルダムの病院で脳に腫瘍が見付かったとか・・・
急遽 帰国して日本の病院に入院すると云う話である。
「入院なら当分黙って様子を見た方がいいよ」佐代子がそう言った。
だが松岡は「何れにしてもけじめは付けなきゃいけないから私は会おうと思ってる」と・・・
恋人の栄作も「是非会って話をしたい、結婚を許して貰わなきゃ」と言ったのであった。
空港から自宅に戻った父(剛)は「やっぱり我が家がいいなー」と座敷で寛いでいた。
其処へ 先に着いた栄作が訪れたのである。
一通りの説明をして「是非お嬢さんをください、一生懸命努力して幸せな家庭を作りますから」途端に雷が落ちた。
「何がゲームソフトの会社を立ち上げるだっ!何が幸せをだ」「佐代子!許さんからな」「お父さんの会社で将来有望な男を紹介するからこんな男にたぶらかせられるな」
尚も話を聞いて貰おうとしたが いきなり栄作の頬を殴り付けたのであった。
「顔も見たくない、帰れっ!」
「酷い、お父さん 私この家出て行くから!」
「何っ貴様!泥棒野郎」「出て行け、もう親でも子でもない、お前も乞食にでもなるかっ」
そして「うっ・・・」と言ってよろめき柱にしがみ付いたのである。
「あなたっどうしたの?」「何でも無い 帰れ帰れ」声に力が無かった。
其処へ松岡博が現れた。
気配を察した松岡はすぐ救急車を呼んだ。
すぐ大学病院に搬送されたのだった。
早速精密検査が行われたのである・・・が・・・
診断の結果は脳梗塞、すぐ手術となったのである。
「頑張るんだよ、今の医学は発達してるんだ、さあ元気を出して」
松岡は先に栄作を帰し 二人を励まし続けた。
長い手術だった。
真っ白い頭の包帯に人工呼吸器を着けた姿が痛々しかった。
「ご家族の方ですね、ちょっとお話があるのですが」
そこで話された事は衝撃的な出来事だった。
助かっても半身不随になるであろう、勿論口がきける様になることはまず無理だろう、本人に余程の覚悟と努力があればリハビリである程度の快復の見込みはあるものの・・・後は医師も言葉を選びながらご主人は重度の性病に掛かっておいでだ。
これが脳まで届き かなり痛んでいる・・・と・・・
佐和子は松岡に支えられやっと立っている状態だった。
「だからお父さんは日本に帰って来なかったんだ」佐代子は吐き捨てる様にそう言って病院を後にしたのであった。
松岡はヨーロッパに住んでいる友人に長いメールを打った。
その辺りを調べて欲しい、と。
半月程で返事が届いた。
アムステルダムには奥さんも二人の子供も居る、尚 他にも何人かの愛人が居るようだ、と・・・
佐和子が余計 可哀想になった。
彼女は毎日看病に通った。
完全看護の大病院である。
必ず夜はこの家に帰って来た。
佐代子は松岡がヨーロッパの友人とメールのやり取りしてるのを知っていた。
そしていろいろ聞いてきた、が彼は「知らない方がいいよ」と答えていたが 知ってしまったのである。
彼の散歩中、悪い事とは思ったがパソコンを開けて偶然見てしまったのである。
彼女は彼がパソコンを開いていた時 見るとは無く見てしまいアドレスを知ってしまったのだった。
記憶力の良い佐代子はそれを覚えていたのだ。
余計父が憎くなったのである。
「お母さんはまだ知らないだろう」
母が可哀想に思えた。
毎日一生懸命看病に行ってる母に教えるべきか・・・何故叔父様(松岡をそう呼ぶ様になっていた)は母に話さないんだろう?
ある日 病院に母が行ってる時その訳を聞いた。
「佐和子さんはナイーブな人だ、信じていた人がそうだったら どうするか判るか?」
「私と佐和子さんのケースとは訳が違う」「きっと人が信じられなくなるだろう、黙っていてやろうよ」「時が経てば自然に解る事なんだが今はその時期じゃない」
「献身的に看病してる佐和子さんが可哀想だ、責任は私が持つ」「私にはその責任と義務がある」
「元気になられたらその時は 私が頭を下げ別れて頂くよう努力する、どうしても駄目なら略奪婚でもするさ」
眼が笑ってた、しかしその眼は真剣だった。
「母さんは幸せだなー・・・私の彼も歳を取ってもこんなに愛してくれるといいな」と 佐代子は思った。
が しかし父の意識は戻る様子は見られない。
徒 時間だけが通り過ぎてゆく。
ある日 佐和子は涙を一杯溜めた眼で「ごめんなさい 私はやっぱり貴方と一緒になれないわ」「あの人がこのまま植物人間になってしまったら私は一生あの人の面倒見なければいけないのよ」「貴方にもっと素敵な人現れても今のままじゃ前へ踏み出せないでしょう、私の事 忘れてください」と・・・
辛そうに肩を落として必死に耐えている事がよく解った。
彼女はもう自分の運命を諦めている様子だった。
佐和子の心の中は楽しかった日々を思い返し この愛に終止符を打とうとしていたのだ。
言い終わった後一気に涙が溢れ出て 崩れる様に松岡の胸にしがみ付き慟哭したのであった。
彼は胸の中の佐和子の心が解るだけに余計辛かった、が・・・
「君はそれでいいのか?何時までも待つから安心して」「もう つまらない事考えないで自然に任せなさい」「愛してるよ・・・」と言ったのである。
最近 松岡邸には来客が多くなった。
佐和子は病院と此処を行き来してる、佐代子も恋人と逢う時と会社以外は此処にいる時が多い。
携帯の時代ではあるが会って話をした方が話がよく出来る。
佐和子の兄たちが此処に集まるのである。
最初は「何故自宅でなくて他人の家なんだ」と訝しがったが 佐代子の説明で此処が一番よかろうと言う事で 親戚一同此処に集まる様になってしまった。
兄弟達は「仕事の出来る 出世頭だな」 と尊敬もしてた様だが佐代子の説明でいかに傍若無人の人物か・・・がよく解り怒りを顕わにしたのである。
だが、そうは云っても相手は病人の事だ。
暫く様子を見てそれからの話である。
盆と正月以外には顔を合わせた事の無い親戚一同 は松岡が佐和子親子にどう関っているのか、それも知りたい事であった。
佐和子の兄恵一が言った「まだ他に腹違いの子供が居るのではないか?」「今まで勤務してた先を全部洗ってみる必要があるな」と・・・
「まず 何故其処までほって置いたのか」と佐和子は攻められた。
それは佐代子が説明した「ロサンゼルス勤務の時三歳の佐代子を連れてアメリカまで行った時、仕事場は戦場だ!女が来る所ではない」と叱られ帰りのチケットを渡され一日で帰って来た事・・・極端に来る事を拒んでいた事などを。
だから静かに待つだけの生活になってしまった事など、事細やかに話したのであった。
松岡の調べでフランクフルトにも男の子が居る事が判った。
兄弟達は「もうほって置け」とさじを投げたが、まだそうした事実は彼女には伝えられなかった。
あまりにも残酷な宣告で誰も言い出す事が出来なかったのである。
やがて夏も過ぎコスモスの咲く頃となった。
一向に病状は変わらない。
意識は戻ったり途切れたり、佐和子は必死に看病してた。
ある日 佐代子は二人の前で「こんな時言うのもなんだけど 私達結婚してもいいかなー」と言った。
「いいんじゃない、お父さんを待ってても治る見込みも無いし、どうせ又反対するに決まっているから」「うん、そうだな、彼も一日千秋の思いで待ってるんだから」
親戚筋にもきちっと挨拶を済ませ結婚式の日取りを決める事になった。
まあ 若い二人の事である。
全て自分達でどんどん決めて行く。
住まいは松岡の家と決まった。
「増築して置いてよかったな」と彼は思ったのだった。
家族が増えると云う事は嬉しい事である。
小さな教会で式だけ挙げて後は会費制のパーティで済ます事になった。
お互いの経済状況を考えて北海道まで車でドライブが新婚旅行である。
少し位ならお金を出してやって海外にでもと思ったが「叔父様、海外旅行は私達 お金を貯めて行くから楽しみに取って置くの」と佐代子は笑って言ったのである。
バジンロードは松岡が付き添う事になった。
皆 一様に驚いたのである。
絵画界の重鎮 松岡博の付き添いだ。
佐代子も心から喜び 又友達、会社の上司にも鼻が高かったのだった。
こうして二人は旅立って行ったのである。
母佐和子は涙を流して喜んだ。
二人の未来に幸あれと・・・そして父のアムステルダムに住んでいる佐代子の兄弟の事を知ったのである。
ショックで頭が真っ白になった。
№ 7
雪が降り、芽吹きの季節となった。
佐和子はこの一年ちょっと前の幸せを噛み締めていたのだった。
と 同時に剛にちょっとでも良くなって欲しかった。
それは佐和子に取っては重要な事だった。
「本当に愛していたかどうか?」彼の口から直に聞きたかった。
そうでないと納得出来ない。
「私の人生の選択が間違いだったかどうか?」それを知りたかったのだ。
しかし剛の容態は一向によくなる気配は無い。
医師からは延命措置を取るかどうかを皆で相談する様に言われた。
佐和子の親戚筋は皆「その必要は無い」と怒りを顕わにしてる。
だが 剛の血筋の者達は「植物状態からよみがえる事もあるかも知れない」と猛反対をした。
松岡は剛の家族達に自分の友人達から来たメールの数々をコピーして「これから起こるであろう財産相続の件と考え合わせて検討する様に」と促したのである。
まだ何が出て来るか 解らない、他から新しい子供が出てくる可能性もある。
「命は大切だ、だが残された家族の生活も又大事にしなければならない」「此処で徒に金を使うべきかどうか」
佐和子は渦中にあって何も知らされていなかった、が おおよその察しは付いていた。
「あの人に佐代子以外の子供が居る」 絶望の淵に立たされたような気がした。
「あなた、私どうしたらいいの?」佐和子は松岡に聞いた。
「大丈夫 君の事は生涯守り通してあげるから、もう今考えてる事も忘れなさい」「聞いても時計の針は戻ってくれないんだよ」そう言って抱き締めるのだった。
そして尊厳死を選んだのである。
6月の初めの事だった。
佐和子は大粒の涙を流し 夫剛を見送った訳である。
憎しみは無かった、と言えば嘘になる。
だがやっぱり悲しかった。
暫くは部屋の中に閉じこもり沈み込んでいたが 松岡も「無理も無い事だ」とそっとして置いたのであった。
殆ど財産らしいものは残らなかった。
多くの子供達の代理人(弁護士)の手によって分割され、又ヨーロッパ現地の借財も多く佐和子親子には殆ど無かったのである。
「お母さん、何時までウジウジしてるの!しっかりしなさい」佐代子に叱られ 励まされ徐々に笑顔を見せる様になった。
栄作の作ったゲームが大手企業の眼に留まった。
早速契約したと云う。
松岡は「著作権の問題はどうなるんだ」と聞いた。
彼は「全部会社に委譲して当分その会社の研究室で働く契約をした」と言う。
「そしていろんなノウハウを覚え、それから自分の会社を立ち上げるんだ」と・・・
「それもひとつの選択肢かな」と 松岡は思ったのである。
ある日 佐代子は神妙に正座して松岡に言った。
「こんな不束な母ですが是非貰ってやって頂けませんか」「叔父様お願いします」と・・・
彼は大笑いをした。
「もう夫婦だよ」「早く籍を入れないと駄目だね」と。
佐和子はそれを佐代子から聞きとても喜んだのであった。
「ねえ、こんな私でもいいの?」「本当にいいの?」と何度も聞き直したのである。
「そうだよ、私の妻は佐和子しか居ないんだよ」
佐和子はほっぺたを何度もつねって確かめていた。
「わーい」 天にも昇る心地がしたのであったのである。
「博さんなら死ぬまで愛し続けてくれる」そう思っただけで幸せ一杯であった。
佐和子の兄弟達も大喜びをしたのだった。
歳は離れていても本当に愛してくれる博の人柄は皆の心を打ったのである。
「私の妻になってくれるね」 佐和子は涙が出て仕方が無かった。
何度も「こんな私でいいの?」と聞く 笑って「佐和子が好きなんだよ」と 答えた松岡博だった。
庭のあじさいの雨が妙に懐かしく思えたのである。
出会いもあじさいの雨の日だった。
そして 今も・・・
-完ー
№ 1
喫茶店を出た時 外は雨だった。
「あら 困ったわ、家を出る時あんなにいい天気だったのに」
コートの襟を立てに軒下で駆け出そうとしてた佐和子の頭の上に黒い大きな傘が被せられたのであった。
振り向くと初老の紳士が「どうぞ、これを差して行きなさい」・・・見ず知らずの男性だった。
「何時も此処でお見かけしてたんですよ、本が好きなんですね」
佐和子の楽しみは此処の美味しいコーヒーを飲みながらの読書だった。
「でもあなたが濡れるんじゃないですか?」「いや、私は近くの画廊に用が有って来たものですから 何とかなりますよ」「傘は差し上げましからお気使いなさらんでください」
そう言って彼の紳士は駆け出して行ってしまった。
「あの・・・お名前は?」そう叫んではみたが この雨の中 声は届いたか届かなかったのか見る見る姿は消えて行ってしまったのだった。
彼女の名は山下佐和子、夫剛は現在海外勤務の商社マン 二年に一度家に帰って来るものの又忙しく海外に赴く。
此処暫くは帰っていない。
もう三年も会っていない。
佐和子45歳の梅雨時の事であった。
名も告げず駆け去って行ってしまったあの方に傘を返さねば、と思って毎日喫茶店に来るもののなかなか逢えないでいたのである。
読書をしながら外を気にする。
最初は傘を返すのが目的だったものが何時か何と無く心ときめく楽しい時間に変わっていった。
「会ったらまずお礼を言って それから何を話そうか」「お住まいはどちら? お仕事は何をなさっているの?」
「おっと 忘れてた、先ず名前を聞かなくちゃ、それからお歳は幾つになられるのですか?」
まさに夢見る夢子さん状態になっていた。
思いなしか化粧にも気を使う様になってきた。
今までは薄く口紅を塗る程度で家を出たものが細かい所まで気を使うようになったのである。
着るものにも変化が見られた。
「お母さんこの頃ちょっと変よ、何かいい事でも在ったの?」
娘の佐代子がそう聞いた。
佐代子は社会人二年生、去年大学を卒業して会社勤めをしている。
母の変化に気付かぬ歳ではない。
「さては恋でもしたかな?」「お父さんの留守中に変な事しないでね」
「はいはい、解ってますよ・・・-だ」返事も上の空で本と傘を持ち家を飛び出して行く。
そっと跡を付けてみた。
特別変わった事もない。
だが変である。
何故 天気が良いのに傘を持って出掛けるんだ?それも男物の傘を・・・?
時々外を見てぼんやりしてる。
「やっぱり男の人を待ってるんだ・・・」「お父さんって者が在りながら何やってるのよ」
しかし決まった時間になると必ず帰ってくる。
佐代子が見張り始めて四日目・・・
素敵な中年の紳士がこの店に入って来た。
その紳士は窓際の佐和子に気が付かずカウンターの席に腰掛けマスターと笑って話をしてる。
佐和子の腰が落ち着かない。
立ったり座ったりもじもじしてる。
表の看板の陰に隠れて 笑えて来た佐代子だった。
「何だ 片思いか」・・・そんな母の姿を可愛いと思った。
突然、意を決して立ち上がった佐和子はカウンターの方に歩き出そうとして腰がヘナヘナット崩れてしまったのだ。
緊張のあまり貧血状態になってしまったのである。
佐代子は一瞬驚いたが大笑いをしてしまった。
そっと中に入って行き 他の席で様子を伺う。
ウエイトレスが「何にしましょう?」と聞いた時 つい「同じものを」と言ってしまったのだった。
「あ コーヒーね」と言い直し なにやってんだ私も と苦笑したのである。
まだ母は気が付いていない。
おずおずと進み寄り「あのう これを、先日はありがとう御座いました」そう言うのが精一杯の様である。
「あ、これはご丁寧な事で」そう言って彼の紳士は傘を受け取り「あの時は酷い降りでしたねー」と・・・
が しかし佐和子の後の言葉が続かない。
彼女自身自分に腹を立てていた。
あれ程楽しい会話をしたいと思っていたのに 何も口から出て来ない。
唯 立ち尽くしもじもじしてるだけである。
「何か?」紳士が聞いた。
「ええ あの そのう・・・」じれったくて見ていられない。
佐代子が後ろから軽くポカリと頭を叩き「母さん何やってんのよ」「しっかりしなさい」遂 口を出してしまったのである。
「えっあっ佐代子・・・」驚いて口をぽかんと開けたまま恥ずかしそうに俯いてしまった。
「娘の山下佐代子です、先日は大変お世話になりました、母がまだお話がしたい様で もしお時間が御座いましたら相手をしてやって戴けませんか?」
「これは失礼しました、私はこう云う者です、はっきりしたいいお嬢さんですねー 宜しく」と名刺を渡された。
『松岡博』・・・何処かで聞いた名前である。
マスターが「先生のお知り合いですか」と聞いた時思い出した。
画家の重鎮、主にヨーロッパの作品を多く手掛けている作家である事を・・・
「そうか 最近の母の行動を狂わせていたのはこの人だったのか」
「磯の鮑の片思い」佐代子は鼻歌を歌いながら先に店を出たのであった。
№ 2
いきなり最初から恥をかいたような思いをした佐和子だったが 娘のお蔭で少し話が出来た事が嬉しくて堪らなかった。
そして時々では有るが此処で話をする程度なら会える事が確認できた。
佐和子は少女の様に心弾んだ。
今度は恥をかかない様にしよう。
口の中でブツブツ言いながら一生懸命リハーサルを重ねてる。
佐代子は呆れてそれを見てるのだが そんな母が可愛いと思った。
「いい人で良かった、あの先生ならお父さんが帰って来ても何の問題にもならないだろう」
佐代子はこの交際に反対する理由がなくなった事が嬉しかった。
と 同時に「母には過ぎた人だなー」と思っても居たのである。
佐和子は ある地方都市の洋品店の長女として生まれた。
上には男兄弟二人と弟が居た。
たった一人の女の子である。
大事に大事に育てられたのであった。
だからかなり我侭な一面を持ち合わせている。
高校、大学と所謂 お嬢様学校(私立のところてんで進学出来る所)に通った。
特別裕福な家庭では無かったが さして貧乏でもない。
まあ 中流家庭だったが兄二人が高校を出てすぐ就職したものだから多少の贅沢は許された。
そして多くのボーイフレンドと遊び回ったのである。
だが 今の時代と違って余程の相手でなければキッスする事も無い。
そんな男性が現れたらもう大騒ぎ、結婚しなければ収まらない時代であった。
手を握り お互い眼と眼を見詰めあい「好きだよ」と言うのが精々であったのだ。
佐和子は何時も洒落た服を着てひときわ目立つ存在であった為 男性たちの注目を浴び多いに青春をエンジョイしてたのである。
「この世は私の為に有るのだわ」と思う程毎日が楽しくて堪らなかった。
そして学生時代に恋に落ちた。
相手は一流企業の若き商社マン、現在の夫である。
まだ若い二人は休日ごとによくドライブに行ったり映画を見に行ったり楽しい新婚生活をした。
恋愛の延長線上にあったのだった。
だが佐代子が生まれる頃から少しずつ歯車が狂ってきた。
有能な彼(剛)に役職が付き毎日の帰りが遅くなってきたのだった。
佐和子はそれが不満だった。
朝早くから出掛け 夜遅く帰ってくる。
剛にすればちょっとでも経済的に豊かな暮らしもしたいし出世もしたい、それが男の務めだと思っていた。
又 佐和子もそれは充分理解していたのだが・・・少し淋しくなったのである。
どんどん夫が遠く感じられる様になっていった。
次第に家庭でのいろんな話が出来なくなった。
疲れて帰って来る夫は夕食もそこそこに寝てしまう。
朝も佐和子が眼を覚ます頃 家を出て行く。
何と無く隙間風が吹き始めたのであった。
そんな時、夫の口から初めての海外出張の話が出たのである。
佐和子はそれでなくとも淋しい思いをしてるのに「嫌よ、行かないで」と涙で訴えたのであった。
「出世の為だ、お前だっていい暮らしをしたいだろう」 そう言われると何も言えなかった。
たった三ヶ月の事だが長く長く感じられたのである。
そう云えば佐代子が生まれてから夫婦の会話も娘の話が中心で 彼から「愛してるよ」と言って貰う事が無くなったのだった。
そして暫く夫婦の営みも無くなった。
現在海外支店の営業部長、バリバリと仕事をこなし会社に取っては絶対必要な戦力である。
だが佐和子に取っては 戸籍上の夫以外何者でもない、唯居るだけの存在でしか無かった。
「もう十年以上愛の営みは無いなー」淋しさが骨身に沁みる。
いろんなサークルに入ってみたが何をやっても面白くない。
娘佐代子が、中学の頃から 癒されぬ心を持て余し恋愛小説などを読んでみた。
がしかし余計に惨めになって行くばかり・・・
何時の間にか純文学から世界名作物語に変化して行った。
そして『おんな』を捨てたのである。
佐代子は溌剌として青春をエンジョイしてる。
私は45歳の・・・唯のおばさん・・・か・・・
時々娘にジェラシーを感じたが今ではそれも失せた。
№ 3
たまに帰って来ると 夫は「おい 新聞、飯はまだか?」 タバコを咥えれば「火」と言うだけの言葉しか発しない。
「一緒になった頃の彼は何処へ行ったのよ、私はお手伝いさんじゃ無いわよ」何度も口に出掛かったが止めた。
「一体私は何なのよ」と 言いたくとも生活を支えて貰っている以上何も言えない。
剛は典型的な日本人なのだ。
「あれだけ海外生活が長いのに何故女心を判ってくれないの?」愚痴を言いたくとも言えない。
娘佐代子が居なければ全く死んだような冷たい家庭である。
何時の間にか何時もの喫茶店の常連になってしまった。
コーヒー一杯で何時間でも本を読んでいる。
そんな時、松岡博と出会ったのだった。
佐和子は突然の雨に感謝したのであった。
紳士的な中にエネルギッシュな風貌を湛え、とても優しく接してくれる。
先年妻に先立たれ 歳は取ってるものの今は優雅な独身貴族・・・
まさに佐和子に取って理想的な人であった。
彼女は一生懸命お洒落して、共通の話題は無いかと考えていた。
彼女の心の中では「何とか気に入られたい」その事で一杯だった。
夫は遠く外国の地、娘佐代子は笑って相手にしてくれない。
何時も会社で楽しくやっている。
そんな時 松岡から優しい誘いがあったのだ。
「アトリエに遊びにきませんか、お嬢さんと一緒にね」「えっ!私だけじゃ無いんですか?」「それはそうでしょう 仮にも私は独身男ですよ、そこに来客となれば女性一人じゃ可笑しいですよ」
がっかりしたが何はともあれ招待された事は嬉しかった。
佐和子は娘佐代子に話すべきかどうか迷った。
出来れば先生のアトリエに一人で行きたかったのだ。
でも黙っている訳にはゆかない。
「あのね、先生がアトリエに遊びにいらっしゃいって、佐代子興味ないでしょう お断りしようかな・・・」「出来れば佐代子さんもって言われたんだけど」
「へー・・・佐代子さんもって?」「お母さん 本当は一人で行きたいんでしょう」笑いながら「お断りしたら?」佐代子はすぐに母の魂胆が解った。
「ま 私が保護者って訳ね、お邪魔にならない程度について行ってあげるよ」
「でも母さん変わったわね、最近生き生きしてるわ、少し若返った様な気もするし」
元々器量が悪い方ではない。
此処10年程化粧にも無頓着で積極性が無くなっていただけの話である。
そして佐代子が会社に出掛けると孤独な家庭生活、面白くない 寂しい、内向的な性格になりつつあった。
しかし最近は楽しくて仕方がない。
可愛くもなった。
佐代子は「これが恋する女なんだ」「恋の魔術って素晴しいな」と一人納得していたのである。
佐和子は確かに変わった。
誰の眼にもそれはよく判った。
「お父さんが帰るまで そっと見守ってやろう」佐代子はそう思ったのであった。
さて その日がやって来た。
佐和子は朝早くから衣装ケースの中を引っ掻き回し「これが良いかな?あれが良いかな」とやっている。
「そんなのジーンズで結構よ、アトリエでしょう、物置と一緒よ」佐代子が笑って言った。
化粧も念入りに・・・そして言ったのである。
「佐代子ちゃん、今から病気になってよ、そうしたら私一人で行けるから」「後で何か買ってあげるから、お願い・・・」「駄目っ!保護者同伴なんだから」
佐和子はがっくり肩を落として「そう?保護者なのね・・・」と。
松岡のアトリエは高台の見晴らしの良いところに建っていた。
家は特別広くはないが樹木に覆われた隠れ家の様な所だった。
成る程、汚い。
汚いと云うどころじゃない。
足の踏み場もない。
普通(男やもめにウジが湧く)と云うが まさにその通りである。
埃とゴミの間を避けながら奥のアトリエまで辿り着いた。
其処も又 ゴミの山である。
だが 素晴しい作品が所狭しと置いてある。
イーゼルには描きかけの作品が掛かっていた。
そこで松岡はとうとうと作品に付いての話を始めた、西洋絵画史、各ジャンルの絵画の話など・・・
佐和子はそんな松岡の顔を見詰めトロンとした眼をしていた。
佐代子には非常に勉強になった訳だが 佐和子の眼は作品など見てはいなかったのである。
「駄目だ これは・・・完全にいかれてしまっている」
帰り道 佐代子が「先生の作品 素晴しかったね、話も勉強になったし」「そう?私は顔しか見ていなかったから知らないわ、でも汚い所だったね」と・・・
それからの佐和子はよく家を空ける様になった。
毎日玄関からキッチン、トイレに至るまで掃除に通っていたのだった。
佐代子が半月後に訪れた時、別の家に入ったのかと驚いた程である。
元々造りのしっかりした家である。
床も磨かれ埃もない綺麗な佇まいには『流石芸術家の家』と思わせる風格が漂っていた。
そして時々佐和子と松岡の姿は喫茶店、レストラン等で見られる様になった。
佐和子も家に居る時は一日中クラシック音楽を聴き楽しく家事をこなしていた。
半月程したある日「ねえ、ドライブに行っていいかなー」と佐代子に聞いたのである。
「そう、行きたければ勝手に行ったら、何でも聞かないでよ 子供じゃないんだから」「何怒ってるのよ 母さん何か悪い事した?」「そうじゃないの 自分の事は自分で決められない様でないと駄目なの」「お母さんがそうしたいと思ったらそうすれば良いし いけない事と思ったら止めるべきなの、判った?」
結局朝からウキウキとして出て行ってしまったのであった。
№ 4
佐和子は嬉しかった。
こんな風にドライブが出来るのは何十年ぶりだろう。
それも憧れの先生と・・・
久しぶりに饒舌になっていた。
いろんな取り留めも無い話にも笑って耳を傾けてくれる。
そして先生の若い頃の苦労話も熱心に聴いた。
松岡も又嬉しかったのである。
日頃、先生先生と持て囃され 何の垣根も無く自分の話を聞いてくれる者は 何処にも居なかったからである。
佐和子にはバリア等無い。
屈託無く何でも話が出来た。
そして夕暮れの海を見ながらポツリと「これから誰も居ない所にでも行って静かに暮らしてみたいなー」と・・・
それは佐和子を指して言ったのでは無かったのだが 佐和子は嬉しかった。
「先生は私をそんな風に思ってくださっている」 大きな勘違いである。
が 松岡の肩にもたれて幸せ一杯であった。
夕食を海の見えるレストランで食べ 帰宅したのは12時過ぎだった。
小さくハミングしながら帰った佐和子に 佐代子は「門限10時! それを守れなかったら外出禁止」と厳しく注意したのである。
「ごめんなさい、渋滞に巻き込まれてしまってね」苦しい言い訳だった。
一方松岡は久しぶりに心の中の鬱積を吐き出した事で カウンターで旨い酒を飲んでいた。
「先生、何かいい事あったんですか?」「うん まあな」 バーテンに曖昧に答えて家路に着いたのである。
それからの松岡の作風は徐々に変わっていった。
豪快な作風の彼であったがその中に柔らかさが加わってきたのだ。
何でも愚痴を聞いてくれる佐和子の存在が彼の作品の力みを取り去ってくれているのである。
何時の間にか彼女の存在が松岡の心の支えとなり 心の奥底にまで入り込んでいたのだった。
彼女も又彼無しの生活が考えられないでいたのだ。
毎日の様に佐和子はやって来た。
そして「疲れたな」と思う頃 コーヒーとちょっとしたクッキーなどを焼いて出してくれる。
何時しか、お互い 無くてならぬ存在としてアトリエに居たのである。
夫に妻としての愛を受けられず10数年、佐和子は生き返った様に嬉々として松岡の家と佐代子の待つ我が家との暮らしを楽しんでいる。
又 松岡博も妻に先立たれ自分を失いかけていたのを救われ 制作意欲に燃え意欲的な仕事に明け暮れしてた。
まさに運命の悪戯と云う他は無い。
ある日「先生 今日から五日間此処に泊まってもいいでしょう?」佐和子が言った。
「えっ佐代子さんの許しは得たのかい?」「ええ まあ佐代子は友達とアメリカに旅行に行きました」「でも許しは得てないんだろう」「ボーイフレンドと一緒なんです、私も一人じゃ淋しいわ」
松岡は返事に困った。
「我々の時代には恋人と旅行しても後ろ指指される事が当たり前だったが・・・」「今は男友達と外国まで行っても誰も何も言わないのか」
少し考えて 「いいよ、私のベッドで良かったらね」松岡はアトリエのソファーで寝る事にした。
夕食後、二人は静かな ショパンの調 を聴きながら紅茶を飲んで楽しいお喋りをして時を過ごしたのである。
佐和子は「こんな楽しい時間を持つ事が出来たの 生まれて初めて・・・」としみじみ呟いた。
うっすらと涙が浮かんでいた。
松岡はそんな佐和子を可愛いと思った。
肩を寄せ合い「こんな日が来るとは・・・」と思いながら・・・
佐和子をベッドに案内して彼はソファーに横になった。
しかし何と無く落ち着かない。
この家の中に愛する人が居る、それもすぐ手の届きそうな所に・・・
何度も寝返りを打つ。
浅い眠りに付こうとした時 眼の前に佐和子が立っていた。
頬が濡れている。
「好きです、先生一緒に寝てください」
しかし佐和子には夫も子供も居る、松岡も一緒に居たい気持ちが有ったがかろうじて自制心が働いていたのである。
「嫌? 先生私が嫌いですか?」「でなかったら愛してください」
躊躇したが 結局佐和子のベッドに向かったのだった。
「添い寝をしてやれば落ち着くんではないか」と考えたが彼女は必死にしがみ付いてくる。
そして唇を求める、身体の隅々まで舐め回す。
「しまった、浅はかだった」そうは思ったが何と無くそうした期待も有った事に愕然とした。
全裸のシルエットが窓から差す月光に美しく照らし出された。
遂に松岡も理性を失って行ったのだった。
優しく愛撫しながら時間をかけて楽しんだのである。
二人とも暫くぶりの人肌に触れ ため息と愛の雫の中に溺れて行ったのである。
佐和子はこんな愛の営みを持ったのは初めての経験だった。
夫は前技もそこそこに自分だけ楽しんでさっさと寝てしまう。
佐和子は「夫婦なんだからこれが当たり前なんだ」と思って居た。
しかし松岡は優しく優しく佐和子を大切に扱ってくれた。
何度も気が遠くなるような喜びが襲ったのだった。
「嬉しい これが本当の愛なんだ」佐和子は喜びの嵐の中で涙が溢れたのである。
翌朝 気持ち好いけだるさの中で二人は又肌を合わせていた。
佐和子は松岡の腕の中でまだ眠っている。
そっと起き出しコーヒーを入れる。
後ろから恥ずかしそうに佐和子がしがみ付いて来た。
そんな佐和子が余計可愛いく思えた。
松岡は考えた。
「このままで良いのか?それともご主人に話し別れて貰うのが良いのか・・・」
もう佐和子無しの生活など考えたくも無かったのだ。
№ 5
秋の信州路を散策する。
そして気に入った風景に出逢うとスケッチブックを広げる。
傍らには何時も佐和子の姿があった。
佐和子はすっかり夫の事など忘れていたのだ。
いや、忘れようと努めていたのだった。
「この幸せが永久に続けばいいなー」と思いながら。
そんな佐和子を 娘佐代子は「可愛い」と思っていたが 何れ壊れるこの関係の行方を心配してたのである。
「お母さん 可哀想に・・・お父さんには あれだけの包容力が無いからなー」「いっそ帰って来なければいいのに」と・・・
佐代子も又母の幸せを願っていたが 現実的に結婚してると云う事実は消す事が出来ないだけに悩んでいたのだ。
絶対父は離婚に応じないであろう、と。
「母は父に逆らえないだろう」「あの性格からして一生泣きながら付いて行くだろう」と・・・
「私があの時助け舟を出さなければよかったのか・・・」と 傘を返した時の事を思い出していた。
しかし今の母の幸せそうな笑顔を見ると 何も言えなくなっていたのだ。
やがて雪の降る季節になった。
ジングルベルが町々に響く頃 三人は映画を見てホテルのラウンジで食事を取っていた。
「はい これは佐代子さんに」プレゼントの大きな箱を貰った。
「そう云えば父から何も貰った記憶は無いなー」嬉しかった。
母にはダイアモンドのネックレス・・・「開けて見ていい?」にっこり笑い「気に入ればいいけどね」
それはホワイトミンクのコートだった。
「若いから白にしたよ」サイズもぴったり 「To my Dughter」とのカードが入っていた。
「叔父様は本当に母を愛しているんだ、私を娘と見てくれている」余計嬉しさが込み上げてきた。
「こんな所を父が見たらどうするだろうか?」不安も又膨らんで来たのである。
白いものがちらついていた。
こうしてホワイトクリスマスの夜は更けていったのである。
「お母さん どうする?お父さんが帰って来たら?」
「そうね、正直に言うわ、私は博さんが好きですって」
「それで収まる話じゃないわよ、絶対離婚してくれないわよ」
「何とかなるわよ、佐代子と別れ別れの生活になっても仕方が無いわね」「そんなの嫌よ、私も母さんに着いて行くから」
佐和子はにっこり笑い「ありがとうね」と・・・うっすら涙が滲んでいた。
そして桜の花の咲く頃になった。
彼は家のリホームを始めていた。
元々洒落た天井の高い家である、壁のクロスを張替え少し増築して佐代子の部屋も作ったのだ。
彼の心の表れである。
どんな犠牲を払っても愛する人と佐代子を引き取る覚悟であった。
上野公園の桜が特に美しく見えた。
三人は食事を取りながらも その問題に触れようとしなかったのである。
楽しくも切ないひと時だった。
「お母さん、会って欲しい人が居るんだけど」「どんな人?」「うーん どう説明していいのかなー、クリエイティブな仕事をしてる人なんだけど・・・」
「一緒になりたいの」 佐和子はもうそんな年になったのか、と娘をしみじみ見詰めたのであった。
「お父さんなら絶対反対する人よ」「だって収入も不安定だし、兎に角貧乏なのよ、夢だけはでっかい人なのよ」「あなたはその人好きなんでしょう?」
「うん、どうなるか解らないけれど私もその夢に賭けてみたいのよ、それにすごく優しいの」
松岡は若い頃の自分の事を言われている様な気がした。
「佐代子さんがいいと思うんなら一緒にその夢を追い駆けてもいいと思うよ」
佐和子も「そうね 何時までも愛してくれる人ならね」「会ってあげるよ」と言ったのである。
なかなかの好青年である。
しっかりした将来のビジョンも持っている。
「このお付き合い 大事にしなさいね」佐和子はそう答えたのであった。
こうして青葉の季節を迎えたのである。
まるで松岡の家が我が家の様に佐代子は彼を連れてやって来る。
そして楽しいお喋りをして帰るのだった。
佐和子も何時も我が家に居るように落ち着いて暮らしている。
この頃は松岡の作品を素人ながら批評するようになっていた。
にこにこしながら「そんな見方も有ったのか」と驚かされる時もあるのだ。
本当に息の合った夫婦の様であった。
№ 6
やがて 鬱陶しい梅雨の季節がやって来た。
だが佐和子にとっては嬉しい季節だった。
初めて松岡と逢った季節だから・・・
そう 佐和子と松岡とが出会った季節となったのである。
だが彼女が深刻な顔で話していた。
横には佐代子、そして恋人の栄作も居た。
「お父さんが帰って来る」と言う。
何でもアムステルダムの病院で脳に腫瘍が見付かったとか・・・
急遽 帰国して日本の病院に入院すると云う話である。
「入院なら当分黙って様子を見た方がいいよ」佐代子がそう言った。
だが松岡は「何れにしてもけじめは付けなきゃいけないから私は会おうと思ってる」と・・・
恋人の栄作も「是非会って話をしたい、結婚を許して貰わなきゃ」と言ったのであった。
空港から自宅に戻った父(剛)は「やっぱり我が家がいいなー」と座敷で寛いでいた。
其処へ 先に着いた栄作が訪れたのである。
一通りの説明をして「是非お嬢さんをください、一生懸命努力して幸せな家庭を作りますから」途端に雷が落ちた。
「何がゲームソフトの会社を立ち上げるだっ!何が幸せをだ」「佐代子!許さんからな」「お父さんの会社で将来有望な男を紹介するからこんな男にたぶらかせられるな」
尚も話を聞いて貰おうとしたが いきなり栄作の頬を殴り付けたのであった。
「顔も見たくない、帰れっ!」
「酷い、お父さん 私この家出て行くから!」
「何っ貴様!泥棒野郎」「出て行け、もう親でも子でもない、お前も乞食にでもなるかっ」
そして「うっ・・・」と言ってよろめき柱にしがみ付いたのである。
「あなたっどうしたの?」「何でも無い 帰れ帰れ」声に力が無かった。
其処へ松岡博が現れた。
気配を察した松岡はすぐ救急車を呼んだ。
すぐ大学病院に搬送されたのだった。
早速精密検査が行われたのである・・・が・・・
診断の結果は脳梗塞、すぐ手術となったのである。
「頑張るんだよ、今の医学は発達してるんだ、さあ元気を出して」
松岡は先に栄作を帰し 二人を励まし続けた。
長い手術だった。
真っ白い頭の包帯に人工呼吸器を着けた姿が痛々しかった。
「ご家族の方ですね、ちょっとお話があるのですが」
そこで話された事は衝撃的な出来事だった。
助かっても半身不随になるであろう、勿論口がきける様になることはまず無理だろう、本人に余程の覚悟と努力があればリハビリである程度の快復の見込みはあるものの・・・後は医師も言葉を選びながらご主人は重度の性病に掛かっておいでだ。
これが脳まで届き かなり痛んでいる・・・と・・・
佐和子は松岡に支えられやっと立っている状態だった。
「だからお父さんは日本に帰って来なかったんだ」佐代子は吐き捨てる様にそう言って病院を後にしたのであった。
松岡はヨーロッパに住んでいる友人に長いメールを打った。
その辺りを調べて欲しい、と。
半月程で返事が届いた。
アムステルダムには奥さんも二人の子供も居る、尚 他にも何人かの愛人が居るようだ、と・・・
佐和子が余計 可哀想になった。
彼女は毎日看病に通った。
完全看護の大病院である。
必ず夜はこの家に帰って来た。
佐代子は松岡がヨーロッパの友人とメールのやり取りしてるのを知っていた。
そしていろいろ聞いてきた、が彼は「知らない方がいいよ」と答えていたが 知ってしまったのである。
彼の散歩中、悪い事とは思ったがパソコンを開けて偶然見てしまったのである。
彼女は彼がパソコンを開いていた時 見るとは無く見てしまいアドレスを知ってしまったのだった。
記憶力の良い佐代子はそれを覚えていたのだ。
余計父が憎くなったのである。
「お母さんはまだ知らないだろう」
母が可哀想に思えた。
毎日一生懸命看病に行ってる母に教えるべきか・・・何故叔父様(松岡をそう呼ぶ様になっていた)は母に話さないんだろう?
ある日 病院に母が行ってる時その訳を聞いた。
「佐和子さんはナイーブな人だ、信じていた人がそうだったら どうするか判るか?」
「私と佐和子さんのケースとは訳が違う」「きっと人が信じられなくなるだろう、黙っていてやろうよ」「時が経てば自然に解る事なんだが今はその時期じゃない」
「献身的に看病してる佐和子さんが可哀想だ、責任は私が持つ」「私にはその責任と義務がある」
「元気になられたらその時は 私が頭を下げ別れて頂くよう努力する、どうしても駄目なら略奪婚でもするさ」
眼が笑ってた、しかしその眼は真剣だった。
「母さんは幸せだなー・・・私の彼も歳を取ってもこんなに愛してくれるといいな」と 佐代子は思った。
が しかし父の意識は戻る様子は見られない。
徒 時間だけが通り過ぎてゆく。
ある日 佐和子は涙を一杯溜めた眼で「ごめんなさい 私はやっぱり貴方と一緒になれないわ」「あの人がこのまま植物人間になってしまったら私は一生あの人の面倒見なければいけないのよ」「貴方にもっと素敵な人現れても今のままじゃ前へ踏み出せないでしょう、私の事 忘れてください」と・・・
辛そうに肩を落として必死に耐えている事がよく解った。
彼女はもう自分の運命を諦めている様子だった。
佐和子の心の中は楽しかった日々を思い返し この愛に終止符を打とうとしていたのだ。
言い終わった後一気に涙が溢れ出て 崩れる様に松岡の胸にしがみ付き慟哭したのであった。
彼は胸の中の佐和子の心が解るだけに余計辛かった、が・・・
「君はそれでいいのか?何時までも待つから安心して」「もう つまらない事考えないで自然に任せなさい」「愛してるよ・・・」と言ったのである。
最近 松岡邸には来客が多くなった。
佐和子は病院と此処を行き来してる、佐代子も恋人と逢う時と会社以外は此処にいる時が多い。
携帯の時代ではあるが会って話をした方が話がよく出来る。
佐和子の兄たちが此処に集まるのである。
最初は「何故自宅でなくて他人の家なんだ」と訝しがったが 佐代子の説明で此処が一番よかろうと言う事で 親戚一同此処に集まる様になってしまった。
兄弟達は「仕事の出来る 出世頭だな」 と尊敬もしてた様だが佐代子の説明でいかに傍若無人の人物か・・・がよく解り怒りを顕わにしたのである。
だが、そうは云っても相手は病人の事だ。
暫く様子を見てそれからの話である。
盆と正月以外には顔を合わせた事の無い親戚一同 は松岡が佐和子親子にどう関っているのか、それも知りたい事であった。
佐和子の兄恵一が言った「まだ他に腹違いの子供が居るのではないか?」「今まで勤務してた先を全部洗ってみる必要があるな」と・・・
「まず 何故其処までほって置いたのか」と佐和子は攻められた。
それは佐代子が説明した「ロサンゼルス勤務の時三歳の佐代子を連れてアメリカまで行った時、仕事場は戦場だ!女が来る所ではない」と叱られ帰りのチケットを渡され一日で帰って来た事・・・極端に来る事を拒んでいた事などを。
だから静かに待つだけの生活になってしまった事など、事細やかに話したのであった。
松岡の調べでフランクフルトにも男の子が居る事が判った。
兄弟達は「もうほって置け」とさじを投げたが、まだそうした事実は彼女には伝えられなかった。
あまりにも残酷な宣告で誰も言い出す事が出来なかったのである。
やがて夏も過ぎコスモスの咲く頃となった。
一向に病状は変わらない。
意識は戻ったり途切れたり、佐和子は必死に看病してた。
ある日 佐代子は二人の前で「こんな時言うのもなんだけど 私達結婚してもいいかなー」と言った。
「いいんじゃない、お父さんを待ってても治る見込みも無いし、どうせ又反対するに決まっているから」「うん、そうだな、彼も一日千秋の思いで待ってるんだから」
親戚筋にもきちっと挨拶を済ませ結婚式の日取りを決める事になった。
まあ 若い二人の事である。
全て自分達でどんどん決めて行く。
住まいは松岡の家と決まった。
「増築して置いてよかったな」と彼は思ったのだった。
家族が増えると云う事は嬉しい事である。
小さな教会で式だけ挙げて後は会費制のパーティで済ます事になった。
お互いの経済状況を考えて北海道まで車でドライブが新婚旅行である。
少し位ならお金を出してやって海外にでもと思ったが「叔父様、海外旅行は私達 お金を貯めて行くから楽しみに取って置くの」と佐代子は笑って言ったのである。
バジンロードは松岡が付き添う事になった。
皆 一様に驚いたのである。
絵画界の重鎮 松岡博の付き添いだ。
佐代子も心から喜び 又友達、会社の上司にも鼻が高かったのだった。
こうして二人は旅立って行ったのである。
母佐和子は涙を流して喜んだ。
二人の未来に幸あれと・・・そして父のアムステルダムに住んでいる佐代子の兄弟の事を知ったのである。
ショックで頭が真っ白になった。
№ 7
雪が降り、芽吹きの季節となった。
佐和子はこの一年ちょっと前の幸せを噛み締めていたのだった。
と 同時に剛にちょっとでも良くなって欲しかった。
それは佐和子に取っては重要な事だった。
「本当に愛していたかどうか?」彼の口から直に聞きたかった。
そうでないと納得出来ない。
「私の人生の選択が間違いだったかどうか?」それを知りたかったのだ。
しかし剛の容態は一向によくなる気配は無い。
医師からは延命措置を取るかどうかを皆で相談する様に言われた。
佐和子の親戚筋は皆「その必要は無い」と怒りを顕わにしてる。
だが 剛の血筋の者達は「植物状態からよみがえる事もあるかも知れない」と猛反対をした。
松岡は剛の家族達に自分の友人達から来たメールの数々をコピーして「これから起こるであろう財産相続の件と考え合わせて検討する様に」と促したのである。
まだ何が出て来るか 解らない、他から新しい子供が出てくる可能性もある。
「命は大切だ、だが残された家族の生活も又大事にしなければならない」「此処で徒に金を使うべきかどうか」
佐和子は渦中にあって何も知らされていなかった、が おおよその察しは付いていた。
「あの人に佐代子以外の子供が居る」 絶望の淵に立たされたような気がした。
「あなた、私どうしたらいいの?」佐和子は松岡に聞いた。
「大丈夫 君の事は生涯守り通してあげるから、もう今考えてる事も忘れなさい」「聞いても時計の針は戻ってくれないんだよ」そう言って抱き締めるのだった。
そして尊厳死を選んだのである。
6月の初めの事だった。
佐和子は大粒の涙を流し 夫剛を見送った訳である。
憎しみは無かった、と言えば嘘になる。
だがやっぱり悲しかった。
暫くは部屋の中に閉じこもり沈み込んでいたが 松岡も「無理も無い事だ」とそっとして置いたのであった。
殆ど財産らしいものは残らなかった。
多くの子供達の代理人(弁護士)の手によって分割され、又ヨーロッパ現地の借財も多く佐和子親子には殆ど無かったのである。
「お母さん、何時までウジウジしてるの!しっかりしなさい」佐代子に叱られ 励まされ徐々に笑顔を見せる様になった。
栄作の作ったゲームが大手企業の眼に留まった。
早速契約したと云う。
松岡は「著作権の問題はどうなるんだ」と聞いた。
彼は「全部会社に委譲して当分その会社の研究室で働く契約をした」と言う。
「そしていろんなノウハウを覚え、それから自分の会社を立ち上げるんだ」と・・・
「それもひとつの選択肢かな」と 松岡は思ったのである。
ある日 佐代子は神妙に正座して松岡に言った。
「こんな不束な母ですが是非貰ってやって頂けませんか」「叔父様お願いします」と・・・
彼は大笑いをした。
「もう夫婦だよ」「早く籍を入れないと駄目だね」と。
佐和子はそれを佐代子から聞きとても喜んだのであった。
「ねえ、こんな私でもいいの?」「本当にいいの?」と何度も聞き直したのである。
「そうだよ、私の妻は佐和子しか居ないんだよ」
佐和子はほっぺたを何度もつねって確かめていた。
「わーい」 天にも昇る心地がしたのであったのである。
「博さんなら死ぬまで愛し続けてくれる」そう思っただけで幸せ一杯であった。
佐和子の兄弟達も大喜びをしたのだった。
歳は離れていても本当に愛してくれる博の人柄は皆の心を打ったのである。
「私の妻になってくれるね」 佐和子は涙が出て仕方が無かった。
何度も「こんな私でいいの?」と聞く 笑って「佐和子が好きなんだよ」と 答えた松岡博だった。
庭のあじさいの雨が妙に懐かしく思えたのである。
出会いもあじさいの雨の日だった。
そして 今も・・・
-完ー
| 19:25
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